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コロナウイルス連作短編その59「敗残者たち」

 小城西都はコカ・コーラの800mlペットボトルを持ちながら、黄昏の道を歩いている。スーツの深淵にも似た黒、コーラの鈍い琥珀の色彩が無音のなかで共鳴している。西都にとってコカ・コーラの500mlは少なすぎる、この厳冬においても束の間にその甘ったるい液体は彼の胃に消える。あれはガキのためのコーラだ、西都はそう信じている。だが一方で1.5Lは巨大すぎるとも思っている。そんなに大きいペットボトルを持って、堂々と公衆の面前でコーラを鯨飲できる人間は恥知らずの露出狂のように西都には思える。彼にとって800mlのペットボトル、横に異様に膨張した奇形のボトルがちょうど良かった。コーラを飲みながら歩き、西都はふと“恥知らずの露出狂”について思い出す。ある駅の前を歩いていた時、周りの視線も気にせず1.5Lを持ちあげコーラを貪っている男がいた。彼の身なりは朽ちた市役所の床よりも汚ならしく、遠くからでも下卑た匂いが漂ってくるように思えた。西都はわざとらしくネクタイを整えながら、この男は敗残者であると結論づける。そして今、西都は彼が既にコロナウイルスでくたばったと思いながら、炭酸の刺激的な痛みを口腔全体で味わう。
 巨大な歩道橋がある。朽ちている。階段を上り、しばらく直線の道を歩き、そして階段を下る。そして階段途中の猫の額ほどに小さな踊り場に、何らかの茶色い塊が落ちているのを見つける。犬の死体じゃないのか?と思ってしまい、西都の歩みが止まる。目尻から脂を払った後、よく目を凝らしてみると、それはただの茶色いビニール袋であり、中にはコンビニ弁当の容器が入っていた。西都はそこまで歩み寄ると、弁当の容器を革靴で踏みしだいていく。ビニールが擦れるジャリジャリという音ともに、デョリデョリという不明瞭な音も聞こえた。だが彼は気にせずに容器を踏みにじり続ける。時々、コーラを飲む。美味しかった。
 目的地の公園には、既に古びたダウンジャケットを着こんだ男がいる。ベンチに座って足を震わせている。
「よっ」
 西都がそう言うと、ゆっくりと右手をあげて彼もよおと挨拶をする。西都はマスクの上から顎を掻く。顎髭が繊維と擦れあい、室蘭の夜空のように煌めく。同じタイミングで男もマスク越しに顎を掻いていた。足立斎は大学時代の友人であり、妙に気が合うので腐れ縁が続いていた。今は恋人の健太と一緒に暮らしているという。
「どうよ、仕事見つかったか」
「いや、見つかんねえ。俺みたいなクズ雇う会社なんかどこにもない」
 そう苦笑しながら、斎は西都にあるものを渡してくる。
「ローソンで買ったんだ。だし入りの日本酒だってよ」
 触ってみると既に暖まっている。コンビニのレンジで既に暖めたようだった。
「いや、俺コーラ飲んでるから今いらないな」
「こんなクソ寒い時によく路上で飲めるよな」
 斎は蓋を開けて、日本酒を口に注ぐ。
「やっぱこういうんだよ、クソ寒い時に飲むのはさあ」
 西都は斎の隣に座り、日本酒を旨そうに飲む姿を眺める。青いマスクともみあげの僅かな空白、そこには黒々しい無精髭が雑に生えていた。西都の恋人であるザウル・エフンディイェフもまた黒い髭を生やしているが、彼の髭が宇宙の闇に染まったような底無しの黒を輝かせる一方で、斎の髭は弱々しくただただ汚く惨めだった。廃墟になった遊園地、そのメリーゴーランドに打ち捨てられた白馬の表面に巣喰う錆び、斎の髭も斎自身もそんな風だった。彼をいとおしく思った。だがその髭のなかに一本だけ不自然なまでに白い毛を発見した時、少し不愉快な気持ちになった。
 俺たち、もうそんな年か?
 日本酒を飲んで落ち着いた後、斎はリュックからビニール袋を取りだす。それも茶色かった。西都はそれをもらい受けると、財布から1万円札を抜きとり、彼に渡す。
「いや、マジに助かるわ。金欠だからさ」
 斎は左の親指で、右の手の甲を押している。人差し指と中指へ至る骨2本の間だ。いつだかネットでこの位置のツボを刺激すると腰痛が緩和されると、西都は読んだことがあった。ザウルはそういった類いのことをあまり信じない質なので、西都はすぐに忘れたが今思いだした。
「やっぱ男でも可愛いのが風俗に落っこちてきてるから、つい散財しちゃうんだよ」
 斎は日本酒を飲みほす。唇から酒の一滴が溢れおちる。そして短い顎髭を幾本か飲みこむ。
「顎拭けよ」
 西都は鞄からウェットティッシュを取りだす。斎は笑いながら顎を拭いた。
「ちゃんと健太のこと気にかけてやれよ」
 西都はそう言った。
「でも、色々なやつとセックスしたくなるのは男の本能ってやつだろ」
「お前、そんなこと信じてもねえ癖に言ってんじゃねえよ、馬鹿じゃねえの」
 西都は斎の肩を強く叩いた。
「ていうか、お前に健太のこと気遣えとか何か言う資格ねえだろ」
 そう言うと斎は茶色いビニール袋を見る。西都もそのビニール袋を見る。そしていつまでも笑いあった。
 斎が帰った後も、しばらく西都はコーラを飲みながらベンチに座っていた。黄昏の色はザウルの毛深い右胸に刻まれた痣に似ている。急に彼の豊かな胸毛に包まれながら深呼吸をしたくなる。そして熱い涙までこみあげてきたので、西都は驚いた。彼は茶色いビニール袋を持つが、中には血にまみれた生理用ナプキンと同じく血まみれのショーツ型ナプキンが入っていた。まずショーツ型ナプキンを手に取った。ロリエのナプキンはより幼児用オムツに似ており、履いた時に違和感があるがその刺激が西都には心地よい。ソフィはフィット感を重視しすぎていると思える。このショーツ型ナプキンを履きながらテレワークをしている時だけは、自分の身体が男性の平均身長よりも小さいことを受け入れられた。今度は実際に出社する時にも履いてみたいと、西都は思った。
 西都は生理用ナプキンの方を、血の痕がペニスに触れるよう調節しながら、自身のトランクスに突っこみ、そして歩きだす。歩いているとナプキンにぺニスが擦れて、すぐさま勃起を始める。血に晒されながら、血が溜まるこの感触がとても心地良い。解放感を抱くのだ、まるでリトアニアの鬱蒼たる森を歩き、凍てつきながら優しさをも感じさせる風に抱かれる時のように。自然と葉々のささめきまで、黄昏から聞こえてくるような気分になる。西都はズボン越しに優しく自身のペニスを撫でる。
 肉が最大限にまで膨張する頃、西都は先よりも大きな公園に辿りつく。もちろんタイミングを図ってのことだ。公園ではマスクを着けた小さな子供たちが遊び回っているが、一人だけ目の覚めるような黄色いレインコートを着た少年が滑り台を滑っていた。西都は怪訝に思いながらトイレに行く。個室の便器に座り、しばらくナプキンでペニスをしごいた後、血の痕にキチンと精子がかかるよう射精をした。血は土の上で腐っていく過渡にあるチューリップの花びらの色をしている。西都はウェットティッシュでペニスを洗い始める。まず亀頭の先に蟠った精液を拭きとり、それから丁寧に亀頭全体を拭いていく。射精直後で肌が敏感になっているので、より優しくを心掛けた。ティッシュの冷たさが血がめぐり熱を放つペニスには心地いい。その後には新しいティッシュでカリの部分を拭いていく。例え精液がそこに及んでいずとも、ここには日々垢などの汚れが溜まる故に、綺麗にできる機会にそうするべきだと西都は思っていた。そして三枚目のティッシュで改めてぺニス全体を洗っていく。こうして静かに自分のぺニスを洗う時間において、例えこの場所が公衆便所であったとしても、西都は救われていた。
 西都は生理用ナプキンやティッシュ、空になったコカ・コーラのペットボトルを全て便所の床に捨てた。特に侘しさを感じさせるナプキンを、立ちながら西都は見据えた。ここに入ってきたホームレスや幼児の父親が、ここに浮かんだ生理の血を見て“まんこ”から血が垂れ流れる風景を思わず想像してしまい、吐き気を催す、そんな情景を妄想して西都は嬉しくなる。彼がトイレを出た時、未だにあの黄色いレインコートを着た少年は滑り台を滑っていた。
 新品のトランクスに履き替えたような爽快感を味わいながら、西都は家路を急ぐ。ふと思いたって彼は鞄からあの日本酒を取りだして、飲んでみる。確かに旨い。口のなかをこの暖かな酩酊が踊るなかで、寒さに固まった身体全体の細胞が生気を取りもどすような感じがした。
 あいつ食べ物のセンスだけは普通に良いんだよな、グルメ野郎。
 今日はザウルが家に来て、夕食を作ってくれる日だった。彼はアゼルバイジャン人ながらケバブといったアゼリー料理は上手く作れない。しかしオランダに留学していた時にルームメイトから学んだというポルトガル料理は絶品だ。バカリャウやピカパウ、サルディーニャ・アサーダ。それらを思いだすだけで涎が込みあげる。今日はどんな料理を作ってくれるのか楽しみで仕方がない。
 西都は考える。ザウルは既に合鍵を使って彼の部屋に入っており、料理の支度をしているだろう。おそらく彼のお気に入りであるフリッツ・ザ・キャットのエプロンを着けているはずだ。フリッツを描きだす黒はザウルの髭の黒にとてもよく似ている。どこで買ったのか聞いても、未だに教えてくれない。西都は静かにドアを開いて、廊下を忍者のように歩く。リビングのドアを開けると、キッチンでザウルは柔らかな笑顔を浮かべながら、料理を作っている。無音のままに近寄って、後ろから彼を抱きしめる。ザウルの笑みは更に柔らかな、まるでスーパーマーケットで売っているプリンのようになる。それを見ながら、西都は言うのだ。
「なあ、ザウル、お前も痔になってくれよ。痔になってくれたらさ、俺、血まみれになったお前のケツに顔埋めたいんだよなあ。言ったか言ってないか忘れたけど、俺って生理の血とか好きなんだよね。小さい頃に姉貴の血まみれのナプキン見てからスゲー興奮すんだよ、トイレの端っこに置いてあるゴミ箱、ていうかサニタリーボックス、あれって俺にとっては宝箱だよ。だからお前のケツまんこも生理中のまんこたちのまんこみたいになってくんないかなあ。もちろん俺が自分のチンポ入れて激しくファックして、お前のケツまんこ傷つけるっていうのもできるよ。でも俺自身はやっぱお前の身体のこと傷つけたくないよ、ゴムなしで挿入っていうのはやっぱり、ザウルの健康のこととか考えるとできないよ。でも他の男にお前のこと傷つけてほしいって訳じゃないよ、もっと超越的な何かなんだよな、超越的な何かにお前のこと傷つけてほしいんだよ。で、それが痔なんだよなあ。切れ痔でもいぼ痔でもいいよ、何なら痔瘻だっていいんだ。俺の友達に斎っていう奴がいるんだけど、あいつも痔瘻なんだってさ。それだと血だけじゃなくて膿まで出るんだって、だからあいつ、パンツにナプキンつけてんだってよ、ダセエよなあ、男が生理用ナプキン着けるってさ。でもまあ、俺はザウルのケツまんこから血と膿が出てきてそれで顔面騎乗されたらすげえ興奮するよ、一石二鳥だろ、そうなったら本当、嬉しいんだけどなあ」

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。