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コロナウイルス連作短編その32「私の恋人」

 柊エリカはオンラインで日本語の授業を始めようとしていた。最初の頃はZoomの使い方に苦心していたが、今では簡単に使えるようになった。そして彼女は画面に映る生徒たちの顔を見据える。多いのは中国人や韓国人だ。その次に褐色の肌をした東南アジア人やインド人たちがいる。白人は一人だけだった。エリカは授業を始める。彼女は日本語教師になって数年が経っており、生徒からの評判も良かった。英語も堪能であるがゆえに、どの生徒にも親身になって対応することができた。この日もいつもの調子で、授業を続ける。時おり、エリカはある生徒の方を見る。マウンワナという名前の生徒はミャンマー人であり、日本映画が大好きなゆえに日本へとやってきたのだという。夢は字幕なしで完全に日本映画を理解することだそうだった。エリカが彼に笑顔を向けると、彼も柔らかな笑顔を浮かべるのだった。
 授業が終わってから一時間後、エリカがベッドでゴロゴロしていると、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこにはマウンワナが立っていた。
「こんばんは」
 そう言ってから、彼はエリカにキスをする。マウンワナの唇は塩辛く、エリカは目が覚めるような思いだった。エリカとマウンワナは恋人同士だった。日本語教室において生徒と教師が恋愛関係になることは禁止されているが、彼らの愛を止めることはできなかった。エリカは悲劇のヒロインを気取り、皆から隠れながらマウンワナを愛していた。
 マウンワナが持ってきたチーズケーキを食べながら、彼らはYoutubeに違法アップロードされたミャンマー映画を観る。エリカの横でミャンマー人であるマウンワナが英語で解説をする。
「ぼくはこの映画がミャンマー映画史上最も重要な作品の一本だと思ってるんだ。父がある女を犯し、それを息子が知る。しかし彼は真実をひた隠しにし、父親を守る。レイプ犯の疑惑をかけられようと息子は秘密を守りつづける。今作は家族の絆という名の病を描きだしてる。ミャンマー映画はメロドラマ的に家族の大切さを謳いあげる作品が多いから、それだけでも貴重だと思う。それにミャンマー映画って全体的に説教臭いけれど、今作の場合は監督の視線が観察的というか、無闇に裁こうとはせずに人間心理の灰色の部分を描こうという気概があるよね。それが本当に素晴らしいんだ」
 正直、理解できない言葉で作られ、日本語字幕もついていない作品を観るのはとても難しいことだった。それでもマウンワナの言葉を聞きながら、映画を観る時間は代えがたいほどに大切なものだった。
 夜、群青色の闇のなかで、エリカとマウンワナは深くキスをする。永遠にも思えるような悠大な時間のなかで、エリカは思う存分マウンワナの塩辛い唇を貪る。
「今日はどうしてほしい?」
 マウンワナは甘い声でそう言った。
「あなたの右手で、わたしのを優しく包んでほしい」
「分かった、エリカ」
 柔らかな笑顔を浮かべながら、マウンワナはエリカの下着を脱がせる。そして既に固くなったぺニスを優しく撫ではじめる。マウンワナの手はとても繊細なもので、触られていると蜜蜂に這いずり回られているような気分になる。だが唐突に強烈な毒が突き刺さる瞬間がある。エリカは思わず身を震わせ、大きな喘ぎ声を漏らす。
「大丈夫? 痛くない?」
 マウンワナは心配そうにそう尋ねる。
「ううん、大丈夫。あなたの手が気持ちよすぎて」
 そう言った後、急に恥ずかしくなって両手で顔を覆う。マウンワナは彼女の手の甲にキスをしてから、再び手を動かしはじめる。マウンワナの繊細な手つきのなかで、エリカの心はあっという間に蕩けていき、世界が快楽の白に染まりはじめる。
「もっと強く、強く触れて!」
「分かった、エリカ」
「も、もうすぐ、イク……」
 そしてエリカはマウンワナの手の上に射精した。全身を心地よい虚脱感に包まれながら、彼女の身体はベッドに沈みこんでいく。
「手の上に射精してごめん。我慢できなくて」
「いいよ、大丈夫」
 マウンワナはティッシュで自分の手を拭きはじめる。その姿が妙に官能的に思えて、エリカは粘った唾を飲みこんだ。
 翌日、エリカは書類の整理のために日本語教室へと赴いた。教室には一人の白人男性がいた。
「ああ、久しぶり」
 マルクス・晃弘・ニッツェルはオーストリア人と日本人のダブルである青年だった。幼少期はオーストリアのウィーンで生活しながらも、二十代で東京へと引っ越してきたのだという。彼はウィーンよりも東京の方が好きだというのだが、エリカにはそれが理解できなかった。エゴン・シーレやグスタフ・クリムトが生きた芸術の都ウィーンよりも、汚ならしいゴミと邪魔くさい酔っぱらいが蔓延る東京がいいだなんて! そう思い興味を抱いたエリカは自然とマルクスと友人関係になったのだった。
「コロナの間、どうだった?」
「暇だったよ、そりゃね。だから語学の勉強をしてた。次はオランダ語だなって感じで」
「何それ、すごいじゃん」
 マルクスはドイツ語と日本語の他に英語とフランス語、デンマーク語を流暢に喋ることができた。エリカはそんなマルクスを羨ましく思う。ヨーロッパでは多言語が当たり前ゆえに、そこで生きることで自然と多言語習得のための回路が培われる。だが日本は日本語しか使われないゆえに英語すらも学びとることに苦労する人々が多い。この機会の不均等さがエリカには歯痒かった。彼女自身、日本語と英語は流暢に喋れるが、大学で学んだスペイン語も独学で学ぼうとしたフランス語も結局身につくことはなかったんだった。
「エリカは何してた?」
「ウクレレ練習してた。何かあの能天気な音楽を奏でられたらいいなって」
「おお、いいね。今度聞かせてよ」
「やだよ、まだ全然上手くないから」
「じゃあ、上手くなったらね」
 マルクスは爽やかな笑顔を浮かべる。
 オンライン授業が終わった後、エリカは自転車で近くの映画館へと向かった。コロナウイルスのせいで閉館が続いていたが、やっとのことで開いたのだった。入り口ではマウンワナが彼女を待っていた。エリカの姿を認めた時、彼は大きく手を振る。それを見て、エリカはとても幸せな気分になった。映画館内は何も変わっていないように見えたが、椅子が軒並み撤去されていた。これもコロナウイルスのせいなのだろう。彼女たちはしばらく映画のチラシを眺めて今後公開予定の作品について話しながら、スクリーンが開くのを待った。
 やはりコロナウイルスの影響で、観客は隣合って座ることができなくなっていた。なのでエリカとマウンワナは離れて座ることになる。そして映画が始まった。主人公は名もなき大きな男であり、彼は沈黙を貫きながら豚舎での仕事をこなしている。仕事が終わった後は家に戻り、祖母と夕食を食べ、新聞を読み、そして寝る。翌日は朝ごはんを食べた後、歩いて豚舎に向かい、寡黙に仕事を続ける。そんな日常が延々と繰り返される一作だった。エリカはつまらないと思いながら、周りを見てみる。客は自分たち以外に誰もいないようだった。なのでエリカはマウンワナの隣に座り、彼の頬にキスをする。しかしマウンワナは反応しなかった。映画の時だけ身につける眼鏡越しに、スクリーンを凝視していた。エリカはなおもキスの嵐を食らわせながらも、結局マウンワナが折れることはなく、そのまま映画は終了した。
「すごい、すごかった! 映画の剥き出しの力を感じさせる傑作だよ、これは!」
 そう言ってから、マウンワナは延々と映画について語りはじめた。エリカはその話には興味がなかった。時々、彼は映画だけを観ているのであって、自分などは眼中にない。そう思えることがエリカにはよくあった。自分と付きあっているのは、彼の世界に強引に突入しているからであって、彼は自分に対して何の感情も抱いていないのだと。
 エリカは恐怖を感じて、マウンワナを抱きしめた。彼は抱きしめ返してくるが、その力が弱いように感じる。
 コロナウイルスの勢いも弱まったように思えたので、エリカは久しぶりに友人である栗栖絢香や馬上井子と一緒に焼き肉屋へと赴いた。網のうえで脂を滴らせる肉を見るのは本当に久方ぶりだったゆえに、口のなかでは涎が溢れて止まらなかった。エリカたちは様々なことについて話した。ロックダウン最中の暇の過ごし方、コロナウイルスの議論を呼ぶ症状、小池百合子の都知事再選への呪詛など。
「というか私、彼氏と別れたわ」
 出し抜けに井子が呟いた。
「うっそ、あの十年一緒だった人と?」
「そう。コロナウイルスのせいでさ、彼、仕事クビになったんだけどね、その時から救いようもないくらい怠け者になっちゃって。その姿を見てたら、今まで溜めに溜めてたもんが最後に爆発しちゃってさ。もう全部捨ててきた、全部ね。ある意味では感謝してるよ。私、ずっと泥沼のなかにいるって感覚があったからさ、ある意味コロナウイルスには救われたよね。私は新しい道を行くよ」
「いいねえ、井子の門出を祝す!」
 そう言ってから、エリカは勢いよくビールを飲んだ。
「ねえ、そういえばエリカ、彼氏できた?」
 だがそう言われて、エリカの心は縮まってしまう。
「んー、それは……」
「前、クズ野郎にこっぴどくフラれてから、結構凹んでたじゃん。だから新しい彼氏見つけて心機一転してないかなあって」
「ああ、うん。まだ、いないかな」
 そんな言葉にエリカ自身驚いた。何故自分はマウンワナのことを秘密にしようとするのか? 自分で自分に問いかけながらも、答えはでない。ただマウンワナについて隠しているという事実だけがそこに残った。
「ふうん、じゃあいい彼氏見つかるといいねえ」
「何かいないの。金髪碧眼の白馬に乗った王子様的なさ」
「えー、そんな人いないよ、別に」
「日本語学校に勤めてるんだからそういうイケメン白人とかいんじゃないのお!」
 そして皆で爆笑した。
 エリカが家でLast of Us Part Ⅱをやっていた時、玄関のチャイムが鳴った。マウンワナが来てくれたとエリカの心は幸福感で満たされる。だがドアを開けた時、エリカは驚いてしまう。マウンワナの頭は血まみれで、暴力の残滓があまりにも濃厚だったからだ。エリカは彼を洗面所に連れていき、その頭を優しく洗う。マウンワナはその間ずっと無言だった。傷の手当てをした後、二人は冷たい水を一緒に飲む。その刺激が歯茎に妙に強く感じられた。
「大丈夫、マウンワナ?」
 エリカはそう尋ねる。
「大丈夫じゃないな、正直」
「一体どうしたの」
 マウンワナは少し言い淀むが、最後には話しはじめる。
「ぼくはただ道を歩いていただけなんだ。そしたらスーツ姿の酔っぱらいが現れた。真っ赤な顔は完全に悪魔みたいだったよ。そして僕に向かってこう言うんだ。“お前は自分の国に帰れ、ガイジン野郎!”って。最初は無視したんだけど、しつこく付いてきて罵倒してくる。それに我慢できなくなって彼の胸ぐらを掴んだんだ。そしたら“本性見せやがったな、この野郎”って言ってから、頭をぶっ叩いてきた。すごい力だったよ。頭蓋骨が割れるかと思った。それから何度も頭をぶっ叩かれて、何とか逃げてきたけど、このザマだよ」
 その話を聞いて、エリカの目からは自然と涙がこぼれた。
「よかった。あなたが死ななくて」
「うん」
 マウンワナはエリカの涙を人差し指で拭う。
「日本に来てから、ここはそう理想的な国じゃないと分かったよ。何て言うかな、ただただ道を歩いているだけで感じるんだよ、生ぬるい軽蔑みたいなものをさ。“ガイジン”の定めって奴かな、これは」
 マウンワナは苦々しく笑った。
「エリカも女性として、ただ歩いてるだけで生ぬるい軽蔑のようなものを向けられてるって思ったことはない?」
 その言葉には覚えがあった。男性として見なされていた過去を捨てて、新しく生き始めた時、その扱いの格差に驚かされたものだ。道を歩けば何人もの通行人に身体をぶつけられ、エレベーターのなかでは高圧的な中年男性に命令される。そういった小さな、しかし重大な変化がエリカの人生においては起こっていた。
 そして二人はしばらく沈黙のなかで互いを感じあった。
 夜、一緒にベッドに寝転がりながら、エリカは天井を見つめていた。群青色の天井はとても美しいもので、この色彩を絵の具で表現することができたらどんなに素晴らしいかと思う。と、突然マウンワナが何かを語りはじめる。
「子供の頃、ぼくはミャンマーの首都のヤンゴンに住んでた。とても活気があっていい都市だったと思う。だけど……何かの理由でぼくはヤンゴンから上ブルマに家族で引っ越すことになった。そこは埃臭い風がずっと吹いていて、そのなかをぼくよりも肌の色が濃い人々が歩いていた。この時の記憶は、鮮烈なのにぼやけてるんだ。目の前には鮮やかな風景が浮かんでいるのに、それを言葉にすることができない。でももう一つだけ覚えてるのは、そこには映画館がなかったこと……」
 そう言った後、マウンワナの寝息が聞こえてくる。エリカはしばらく群青色に染まったマウンワナの寝顔を眺める。それは天井とは違い、とても醜いものに見え、エリカは恐ろしくなる。
 翌朝、彼らは一緒にパンを食べる。マウンワナはずっとエリカのことを見つめるので、思わず恥ずかしさを感じる。
「何で見てるの?」
 エリカはハニカミながら尋ねた。
「パン屑こぼしすぎだよ、エリカ」
 その言葉のなかには、何か嘲りのようなものが込められているように思えた。何故そう思えたのかは分からなかったが、エリカは苛つきを覚えてしまう。
 エリカはマルクスと一緒に散歩に出かける。彼らは近くの公園で、コーラを飲みながら様々なことについて話した。彼は日本に小説家になることを熱望しているのだが、そんな彼が好きな日本人作家は大岡昇平、堀辰雄、磯﨑憲一郎と宇佐見りんだそうだ。彼は昔の作家から今の作家まで幅広く日本文学を読んでいるようだった。オーストリアの好きな作家について聞いてみると、クレメンス・ゼッツという名前が返ってくる。
「まだ日本語の訳は出てないけどね、出版されたらぜひともエリカにも読んでほしいなあ。テクノロジーと人間の知覚に関する物凄く奇妙な小説を書く人なんだ。あのドイツ語をうまく日本語にできる人がいるかは分からないけど、ぜひ日本の人にも読んでほしいオーストリア人作家だね」
「へえ……」
 その時、マルクスがコーラを飲んだ。首筋が少し痙攣する。まるで皮膚の下でマグマが蠢いているかのようだった。そしてその痙攣によって、皮膚に生え揃った黄金色の産毛が微かに揺れる。その光景が、まるでトンボの複眼を持ったかのように、より鮮明に映る。そしてエリカはその下にある骨を幻視した。真っ白な、ホッキョクギツネの冷たくなった死骸よりも真っ白な骨。その不気味で、官能的なヴィジョンにエリカは思わず狼狽してしまう。
 しばらく歩いた後、エリカは何気なく自分の悩みについて話しはじめる。
「何かさ、自分の恋人のことを他人に勇気を持って言えないんだよね。ここ最近、友達にも家族にも“恋人はいるの?”って聞かれた。頭のなかにはマウンワナの顔が浮かぶんだけど、どうしてか“恋人いるよ”とは言えない。マウンワナのこと隠そうとしてる自分がいるんだよ」
 マルクスの顔を見てみると、そこには少しばかりの驚きが見てとれた。そう驚く理由がエリカにはよく分からなかった。
「ふうん、それは難しい問題だね」
 だが彼は自分の意見を話そうとはしなかった。それは言葉が思いついていないのではなく、むしろ完成された言葉を隠そうとしている素振りに見えた。エリカは怪訝に思いながらも、話題を変えて映画について話しはじめる
 マウンワナがエリカの家にやってくるけれども、最近は家でも自身のパソコンを操作しており、不満が溜まった。文句を言うと、彼はいつもミャンマーの映画批評の実情について弁を走らせる。ミャンマーにおいては映画批評は職業ではなく、趣味としてしか見なされない。それを彼の先輩的な存在である人物が是正してきた訳だが、そのおかげで最近ミャンマーにおいて初めての映画批評雑誌が生まれた。彼らはフランスの映画雑誌カイエ・デュ・シネマを目標として、日々ミャンマー映画と世界映画についての批評を書いている。その批評家の一人として、自分は批評を書き続ける義務があるとマウンワナは言うのだ。彼は日本映画の現在についての批評をミャンマー語で旺盛に書き続けている。だがそれを理由にして自分を見てくれないのが、エリカには不満だった。
 夕食を作った後、エリカはマウンワナの元に行く。やはり彼はパソコンに向かって映画批評を書いていた。パソコンの液晶にはびっしりとミャンマー語らしき文字列が並んでいる。その丸っこい奇妙な文字は顔文字に使えそうな可愛らしさを宿していた。少しジョージア文字にも似ていると思ったが、不用意にこれを言うと人種差別かもしれないと思う。
「ほら、夕食できたよ」
「うん、すぐ食べるよ」
 マウンワナはパソコンから目を離さなかった。そんな彼をエリカは苦々しく思う。
 夜、マウンワナとセックスをしている時、何か仄かな不愉快さを感じる自分がいるのに気づく。彼に肩甲骨の辺りをキスされるのは心地よいものだったが、その後に不気味な何かが喉の辺りへと迫ってくる。そして気づいたのは、マウンワナの体臭だった。今までは唇と同じく塩辛かったものが、まるで側溝に溜まったヘドロのような匂いとなっている。気づかないうちに、マウンワナの身体が悪臭に犯されていた。エリカは自分の嗅覚を疑いながら、彼の褐色の身体を抱きしめてみる。そして呼吸をしてみるのだが、不愉快な体臭は変わることがなかった。それでもエリカは強引にセックスを続けるのだったが、不愉快さは加速度的に上がっていき、最後には限界が来た。胸のなかで吐き気が爆発して、思わずベッドの傍らにあるゴミ箱に吐瀉物をブチまけた。胃のなかの滓が全て放出されてしまうほどに、エリカは吐きつづけた。
「大丈夫、エリカ?」
 彼は何処からともなく水と暖かいタオルを持ってきて、エリカの身体を優しく包みこむ。しかしその暖かさが生ぬるい尿のように皮膚に染みていき、肺が再び痙攣した後、再びエリカはゲロをブチ撒ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 エリカは泣きながら謝罪の言葉を口にし続ける。そんな彼女をマウンワナは必死になって抱きしめた。
 数日後、エリカはマルクスの車に乗って彼の祖母が住んでいたという海辺の町に出掛ける。エリカはずっと無言で車窓の外に広がる風景を眺めていた。色とりどりの風景が花火のように炸裂しては消えていく。今年は花火を見ることができるだろうかと、エリカは夏に思いを馳せる。脳みそで虹色の霧のように漂う夏はとても曖昧なもので、言葉で表現することはできそうになかった。しかしその中で赤を纏いながら揺れる人影は自分だろうと思った。赤は彼女の一番好きな色彩だった。そしてその隣には誰かがいたが、それが誰かはエリカには分からなかった。
 海に着いてから、エリカとマルクスはまず砂浜に座った。そこには彼ら以外誰も存在せず、つまりはこの海全てが彼らのものになっていた。エリカもマルクスも何も喋らない。海は青く溶けた鉄のように、滑らかに粘りながらうねりつづけている。そこに呑まれたらもう一生呼吸をすることはできないと思わされる。その向こうには紫色の空が広がっている。彼女は中学生の頃に同級生に脇腹を殴られた時のことを思いだす。その後、脇腹には異様に大きな痣ができていた。その痣と今の空の色は同じものだった。エリカはしばらくそんな海と空を見続けていた。
 ふと彼女は横を見る。マルクスもまた無言で目の前の風景を眺めていた。息を吸う時、ほんのりと赤く染まった頬がゆっくりと膨らむ。そして息を吐く時、風船が萎むようにまた頬も小さくなる。それが繰り返される光景は何か滑稽で、エリカは笑いたくなる。しかしその笑いは心に隠し、密やかに唇を撫でる。そしてエリカはマルクスの顔をまじまじと見つめるのは初めてだと気づく。サファイアのような瞳、鋭い鼻梁、赤く染まった頬、マグマを抱えた首筋、静かに揺れる黄金の産毛。全てが美しいと思った。そして自然とマウンワナの顔と比べてしまう自分に気づいた。しかし何か言葉が出てくる前に、エリカはそれを全て飲みこむ。こうして全てを否定しようとした。
 突然、エリカの鼻に芳しい匂いが届いた。それはマルクスの匂いだった。全身を愛撫されるような植物の優しさと、鼻の穴に生肉を強制的に突っこまれる暴力性が違和感なく混じりあうような凄絶な匂いだった。そしてそれは海からやってくる潮風の香りと混じりあい、崇高な匂いともなっていた。エリカはその匂いに引きよせられ、左手で彼の頬を優しく撫でながら、キスをする。鮮烈な、まるで遭難したアイスランド人が馬の死骸のなかに潜りこむような痛切さがそこにはあった。エリカが唇を動かすと、マルクスもゆっくりと唇を動かしはじめる。そして砂浜が闇に包まれるまで、ずっとキスをつづけた。
 そして二人は離れる。彼らの間にはやはり沈黙があった。しかし最後、マルクスが唇を開いた。
「ぼくは奪う。ぼくは彼から君を奪うよ。それでもいいの?」

 

エリカは絢香や井子とともに“Les fantômes du chapelier”というカフェに行った。彼女たちはとびきり苦いコーヒーを飲みながら、近況について話しあう。それが一段落した後、エリカは口火を切る。
「恋人、できたよ」
「おっ、ホントに?」
「いいねえ、どんな人?」
「実はここに連れてきた」
「ホント?」
 絢香たちは興奮を抑えきれないようだった。そして彼が現れる。彼は柔らかな笑顔を浮かべて、席に座る。
「紹介するね。私の恋人……」

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。