コロナウイルス連作短編その140「宇宙みたいだなあ」
なおも神坂沖はテーブルの上に置いてあるノートを見つめていると、家に娘である宮下カナリの友人が2人やってくる、彼女を迎えにきたのだ。
「こんにちは!」
2人の少年の声は、万雷の拍手さながら溌剌に響く。その無邪気な生命力が眩しくて仕様がなく、腕の関節の痛みが際立つ。
「それじゃ、いってきまあす」
そう言ってカナリは笑顔のままに、遊びに出かける。
「マスク着けるんだぞ」
閉められた玄関ドア、その淀んだ色彩をしばらく見つめる。両目の脂を擦り落とし、また見据える。そして沖はダウンジャケットを着て、自分もマスクを装着すると外へ出ていく。
少し早く歩くなら、すぐに3人に追いついた。カナリはスキップをしながら、楽しげに、保護者から見れば危なっかしく歩道を進んでいる。そんな彼女に自分の姿が捉えられないよう、細心の注意を払いながら、追跡を続ける。カナリは電柱を一発蹴ってから、大声で笑いながらまたスキップをする。
沖は漠然とした不安から逃れられないでいる。それに苛まれる時、心中にイメージとして現れるのはカナリが残している“芸術作品”だった。近くのスーパーで買ってきた5冊386円のノート、中でも青色の表紙をしたノートにカナリはそれを残している。白い紙に彼女は、鉛筆で幾つもの波紋を描いている。それは天気予報において日本列島を覆う気圧を指し示す紋様にも似ていた。更に紙の上に、カナリは道端で拾ってきたらしい小石を何個か置いている。規則性は見られない、少なくとも沖にはランダムな配置としか思えない。そして紙を波紋と石で埋めつくそうとしている風でもない。際立つのはむしろ、2つが存在しない白い空白の方だ。絵ではないと思えるが、これをどんな芸術体系で示すべきかも分からない。ただ曖昧に“芸術作品”としか呼べない。全くの謎だ。
沖が家事の邪魔だとノートを動かそうとすると「石が変ななる!」とカナリは猛烈に反抗し、取り敢えずテーブルの端に置いたままにするという妥協を行うしかない。それは不動を保ったまま、そこに在るように思われる。だが日々のなかで気づいたのは、それが本当に微妙な変化を遂げているということだ。時折、石が1つだけ増えている。時折、波紋が書き加えられている。時折、石が別の波紋のうえに置き直されている。本当に微かな変化ゆえに、おそらく見落としている変化の方が多いのではないかと沖は思っている。
パートナーである宮下志紀との関係は、既に凍てついている。妻と死別しカナリと2人で暮らしていた志紀と出会って3年、同棲して2年が経っている。子持ちの男性と恋に落ちるのは初めての経験で、最初は今までの恋愛との差異を楽しんでいた。関係性を飛び越し、いきなり家族となったような興味深さが刺激的だった。しかしそういう楽しさだけでずっと生きていくのは無理だと、沖は大分前に理解した。同棲が続くごとに、日常の些事に愛が削り取られていき、軋轢が生まれたと思えば、悪化は加速度的に進行する。もういつ関係性が解消されてもおかしくはなかった。
だが関係性の瓦解をある種阻害するのはカナリの存在だった。沖にとっても、彼女は今やかけがえのない存在だった。そこに至る決定打のような、明確な出来事が起こった訳ではない。これもまた日常の些事というものの力だった。ウルトラマンやプリキュアを観て楽しむ姿。おにぎりを食べながらうたた寝をする姿。滑り台を勢いよく滑りながら笑いを響かせる姿。そして電柱を蹴りあげてからスキップをする姿。それが目に映るたび、眩暈がするほどの感情的な火砕流に巻きこまれる。愛おしかった。いつであってもカナリが心配だった。そして幸運なことに、彼女も自分になついてくれていた。志紀との関係が解消され、カナリと離れなければいけないと考えると、それだけで息が切れる。離れたくなかった。そしてその愛着によって、カナリの奇妙な行動への懸念が御せなくなっているのに、沖は気づいていた。
しばらく追跡するうち、カナリたちはある家の前に辿りつく。それは威容を誇る日本的な家屋だ。一縷の隙もなしに竹材が噛み合わされたような塀、それが敷地を厳重に取り囲んでおり、物々しい雰囲気が辺りには漂っている。ともすれば自分が生まれる前から、この邸宅はここに鎮座していたのではないかと思われるほどだ。そして自分たちの行動範囲に、こんな日本家屋が存在していたことにまた驚く。今、沖はこの邸宅を“初めて見た”としか思えない。だが家屋が面する道自体は、自身が最寄り駅に行くまでに当然のように通る道だった。人間の意識や知覚というものは、不思議なまでに近視眼的だと彼は思わざるをえない。
「おじーちゃん!」
3人がそう大きな声で叫んだ。少し経つと、和装の老人が門の前に現れた。少し会話をしていたかと思うと、3人を引き連れて邸宅内へと入っていく。予想外の事態に、沖は動揺し、心臓を少しずつ握り潰されていくような痛みを感じる。遠くの壁越しに門を観察し続けるが、3人は戻ってこない。指の関節が12月の寒さに凍りつくような感覚を抱く。何度も携帯で時刻を確認して、水牛の歩みさながらに時間が過ぎていくのを感知する。それが何を意味しているのか自身でも把握しがたかった。だが感覚として、時間が過ぎるのが凄まじく遅くなっている。時間という概念が、まるで100円ショップに売っている知育用の柔らかい粘土さながら、どこまでも引き伸ばされてしまったようだ。今や時間は点でなく、空間のようで、沖はそこに迷いこんでしまった気がしている。不安で窒息しそうだった。
しかし何の前触れもなく、3人が中から出てくる。老人も一緒だ。彼女たちは深々とお辞儀をすると、手を振りながらまた別の場所へと歩いていく。その後ろ姿を見つめながら、老人もまた手を振り続けていた。時刻を確認すると、あれからまだ20分しか経っていなかった。1日は経ったような錯覚すら覚える。カナリたちを追おうと思う。だがその前に、老人の正体を知りたいと思った。感謝を装い接触を図り、彼が何者かを見出だす必要があると。
マスクの位置を整えた後、邸宅に向かって歩み始める。呼気が生ぬるい、前歯が不思議と下唇を執拗に刺激している。老人が後ろを向いて、邸宅内へ戻ろうとした。
「すいません」
沖は“!”というマークがつかないほどの声量を意識しながら、老人に声をかける。だが老人は少し驚いたようにこちらを振り向くので、少し罪悪感を抱く。
「いや、すいません」
沖は思わずそう言っていた。しかし歩みは速度を増している。
「こんにちは、何でしょうか?」
沖がその傍らにまで歩み寄った時、老人はそう問いかけてくる。禿頭には無数の皺が刻まれているが、その不安定な筆致はカナリのノートに描かれた波紋と似ている。不気味だった。
「あの……」
沖は少し口ごもり、何をどう話せばいいのか俊巡するが、最後には嘘なしに話すことを選ぶ。自分がカナリの父親であること、最近心配なことがあり彼女の後を追っていたこと、そして彼女がこの邸宅に入っていったのを見たこと。自分が父親であることの証明に、2人で一緒に映っている写真を見せる。その写真を撮ったのは志紀だが、それはまだ言えなかった。
「そうですか、お父様のご心配はごもっともです。もし宜しければ、中でそれについて説明したいのですが……」
老人は頭を少し下げて、そう伺いを立てる。沖はまた躊躇いを抱きながら、中に入るしかないと思う。そして老人に連れられ邸宅へと足を踏み入れるが、まず驚きが先立つことになる。門の内側には厳粛としか形容しがたい空間が広がっていた。美しく剪定された木々、美学に即して敷き詰められた石の流れ、空気の粒子1粒1粒から発散される崇高の気。“襟を正す”という慣用句は今のような状況で実際に遂行される言葉だろうと沖は思う。背筋が自然と天へと伸びざるを得なかった。歩みの1つ1つに責任が要求され、全身が緊張感で引き締まる。またも時間が引き伸ばされているような感覚を味わいながら、先のものとは種が違う。だがどう形容すればいいのか及びもつかない。一方で老人は事も無げに前を歩いている、ここに住んでいるのだから至極当然だろうが、沖は畏敬の念を抱く。
通されたのは家屋内ではなかった。家屋に組み込まれた軒下だ。今や『サザエさん』くらいでしか見かけない開かれた空間。
「宜しければ、ここにお座りになって、前をご覧になってください」
老人がまたも頭をさげ、腰を落ち着ける。恐る恐る沖も腰をおろしてみる。木材が臀部を力強く抱き、感触は心地がいい。そうして老人の言う通り、前を見てみる。そこに広がっていたのは、いわゆる“日本庭園”と呼ぶべきかもしれないものだった。沖の頭に“日本庭園”という言葉が浮かんだ時、歴史の教科書で見た類の、寺社とともに在る巨大な庭園のイメージが伴いながら、目前の光景はそれとは異なる。もっとこじんまりとして、規模は相当に狭い。だが目を離すことのできない美があると、沖は一瞬で理解した。白砂と黒砂が微妙に溶けあいながら敷き詰められた地、そこに3つの岩が屹立している。砂にある程度埋没し、支えられながら、それらは威風堂々と存在しているのだ。1つは横に長いもので、歪な三角形が砂より聳えている。今にも沈みそうな哀感をも湛えていた。1つはまるで地下で起こった爆裂の一端が地表へ突き出したといった風な、鋭敏な切っ先の岩が大胆に露出している。“怒髪、天を衝く”という言葉がそのまま適用されるような激烈な面持ちだ。1つは他と比べれば、目立った特徴がない。サラと岩が砂のなかに配置され、そこに在るといったさりげなさだ。しかし真に目を惹くのは、その岩から幾つもの波紋が現れているということだ。その紋様は岩を守護するがごとく、砂のうえで揺蕩っている。ああ、そうか、沖はただそう思った。
「ある時、私の家の前に1人の少女がやってきました」
老人はそう言う。
「門の前でもじもじしている少女を見て、迷子になったんだろうか、最初はそう思いました。彼女に尋ねてみると、中に入ってみたいと言ってきたんです。何だか嬉しくなりましてね、喜んで中に迎えて、家を案内しました。すると彼女が一番興味を持ったのが、この庭でした。私らが今座っているところに落ち着いて、彼女も庭を見ていたんです」
老人は柔らかな笑顔を浮かべる。そこで初めて彼がマスクをしていないことに気づく。でも、沖は思う、これが普通だったんだよな。
「私はこの庭について説明しようと思ったんですが、あまりに真剣に、何も言わずに見ているので、私も横でただただ見つめていました。しばらくしてからね、彼女が言ったんですよ、何だか宇宙みたいって」
老人の瞳が微かに光る。
「とても個人的な理由で、感動したのを覚えています。つい先日、妻が亡くなったんです。コロナでなく老衰で、この自宅で看取れたのは幸いでした。そこで最後に私は妻と宇宙について話したんです。孫がね、宇宙の本を読んでいて、それに興味を持って、妻も読ませてもらったそうなんですよ。それに対して抱いた驚きを、私に話してくれた。宇宙が将来どんな風に消滅するかなんて不穏な話なんですけどね、それを話す彼女の表情は輝いてましたよ、あれは太陽みたいだったね」
彼の唇がほころぶ。
「そこで私は、ああ自分は彼女のこういう好奇心旺盛なところに惹かれたんだなと、改めて思いました。その数日後に彼女は亡くなりましたが、最後にあの表情を見れてよかったとそう思います。これが少女の言葉に重なって、感動したんです。そして彼女も庭に感動したようでした。前にも1回来たんです、お友だちと一緒に。それで今日また来て、この庭を見ていきました。ずっと何も言わず、お友だちも何も言わず、ここを見ているんです。そして私も、彼女たちと一緒に庭を見ていました」
そして軽く息を吐くと、老人は喋ることを終える。
「宇宙って言ったのは……」
沖が口を開く。
「たぶん、ウルトラマンとか特撮が好きだからなんですよ。ウルトラマンとか仮面ライダーとか、他にも新しい特撮とか全部観てます。ゴジラの映画も観に行きましたし、昨日からは仮面ライダーの映画もやってて、来週観に行くって約束しました。本当に好きなんですよ、いっちょまえに、今年のウルトラマンはつまんないとか評論家みたいなこと言ったりするくらい」
「それは素敵じゃあないですか」
老人がそう言った。
「私はこの庭を含めて、何十年も庭園を見てきましたが、それが宇宙のようだと思ったことは一度もありませんでした、日本に広がる自然を凝縮したものとか、そういう月並みなことは何度も思いましたが」
彼は自虐的に笑う。
「私はね、思うんですよ。創造とは無から何かを生み出すということではない。創造とは全く異なる2つのものを重ね合わせることで、何かを生み出す技であると。あなたの娘さんは、庭園とウルトラマンを掛け合わせて、宇宙を作りだしたんですよ。紛れもない創造を行ったんです。そして私はそれに深い感動を覚えました」
少しだけ、間を置く。
「だから私は彼女に深く感謝したいんです」
老人と沖は見つめあう。
「そしてあなたにも。彼女のこの感性を豊かに育んでくれたあなたに、あなた方に感謝したい、ありがとうと」
カナリが眠りについた後、沖はリビングに戻る。椅子に腰かけた志紀は眼鏡をかけ、タブレットに向かっている。眉間の濃厚な皺に、キスしていた時代を思いだす。
「話したいことがある」
沖は勇気をだして、そう告げる。
「……何だよ?」
志紀は露骨な不信感を、彼に向ける。視線に痛みを覚えながら、志紀の前に座り、唇を噛む。手ではなく、皮膚の下の筋や関節が震えているのを感じた。だが、言わなければ前には進めないと、分かっている。
「僕はもう、志紀のことを愛してない」
その言葉は大いなる波濤のように思えた。
「でもこれからも、3人で暮らしていきたい」
そこに続く言葉に、志紀は唇を歪める。
「何言ってんだよ、お前。俺のこと馬鹿にしてるのか?」
彼の顔に浮かぶ静かな怒りに、沖は気圧される。気圧されながら、言葉を紡ぎ続ける。
「3年間、僕は君やカナリと暮らしてきて、様々なことを学んだよ。忘れられない経験もした。そのなかで、悲しいけど、志紀への愛は掻き消えてしまったように思う。愛は、もうないんだ。少なくともその火は、今は燃えてない」
沖は鼻水を啜る。
「でも、カナリへの愛は不思議とどんどん大きくなってきてる。君とは違って、僕は彼女とは決定的に他人なのに、それでも愛が膨らんでいってしょうがない。これからも彼女と一緒に生きていきたいって、自分勝手だと分かりながら言いたくなるほど。僕はたぶん、彼女に対して大人としての責任を果たしたいって思ってるんだ」
沖はテーブルの隅に置いてあったカナリの、開いたままのノートを志紀に見せる。
「これ、何だと思う?」
「……前にも聞いてきたな、俺には分からない。特撮の何かかと思ったけど、全然思いつかない。子供にしか分からない“前衛”って感じだな、大人には分からない」
「これはたぶん、日本庭園なんだ」
「はあ」
「それから、宇宙でもある」
「……何言ってるんだって俺に何回言わせたいんだ?」
沖は志紀の瞳を見据え続ける。
「今日まで、僕もこれが何だか全然分からなかった。志紀と同じようなことを考えてた。でも、今日思ったんだよ、これが日本庭園で宇宙だってことを」
「カナリがそう言ってたのか?」
「違う、僕なりに辿りついた答えだ。でも見えないかな、宇宙はそれとして、日本庭園にさ。砂の波紋、そのなかにある岩」
志紀の瞳は、ノートを見つめ始める。
「僕は……何だか圧倒された。確かにカナリはまだまだ小さいよ、でも本当に何て色々なことを考えてるんだろうって思った。それで僕は知らない間にカナリを見くびっていたのに気づいた、大人が子供にそうするみたいに」
沖はテーブルに置かれていた志紀の右手に触れる。
「それから、僕がどんなに深くカナリを愛しているかにも、気づいた。彼女に抱く愛を身に染みて感じたんだ。僕は……これからもカナリと一緒に生きていきたい」
沖はグッと唾を飲みこむ。
「そしてカナリにとって大切な人である志紀とも、あなたともこれから一緒に生きていきたい。一緒に歩き続けたい」
瞳が燃えあがるように熱くなっていくのを、沖は感じた。
「君への愛はもうない、それは済まないと思ってる。でも、友情はある。絆は確かにあるって僕は思ってる。僕らは今でも戦友なんだ、生き続けるための戦友」
そう言って、志紀の手を優しく握る。しばらくの間、志紀は何も言わずに俯いていた。だがある時、彼は右手をスッとひく。
「俺たちは戦友じゃあない。生きることも、子供を育てることも戦争じゃあない。戦争であっちゃいけないんだ」
志紀は噛み締めるように呟く。
「だから、俺たちはただの友だ。その1文字だけでいい」
そして右手を沖の手のうえに乗せる。
「ありがとう」
どうしても、涙がこぼれた。止めることができない。
傍らに志紀がやってきて、ティッシュ箱を渡してくれる。沖は涙を拭き、鼻をかみ、何度も何度もそれを繰り返す。
「おとーたち、おしっこ!」
そしていきなり、リビングにカナリがやってくる。
「……パパ、何で泣いてるの?」
カナリは沖を“パパ”と、志紀を“お父さん”と呼んでいた。
「それはね、嬉しいことがあったからだよ」
沖が言う。
「おい、これ、嬉しいことって言っていいのか?」
志紀は頭を掻きながら、そう言った。
「なになに」
カナリが沖のもとにやってくるので、その体をハグする。そして後ろから志紀が2人をハグしてくる。
強くなくていいんだ、沖は思う、強くなくていい、ハグは柔らかでいいんだ、僕たちがいつでも離れることができるように、そして僕たちがまたいつでも繋がりあえるように。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。