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コロナウイルス連作短編その132「救えねえよ」

 卓柿絋は部屋でハリウッド・ザ・コシショウというお笑い芸人のYoutube動画を観る。彼は“有名人の誇張されたモノマネ”というネタによってテレビ界で名声を獲得したナンセンス芸人であるが、Youtubeはネタの実験場という側面も持ち、テレビでは行えないネタをここでまず披露し、視聴者の反応を吟味しながら、披露するネタの選別を行っている、少なくとも紘にはそう思えたし、嬉々としてその“視聴者”になりたいと思いながら動画を閲覧している。
 今回、ザコシ(名前が長すぎる故にこの略称が使用される)が披露したのは『相棒』というドラマの主人公である杉下右京の“誇張されたモノマネ”だ。俳優である水谷豊が演じるこの杉下右京は類い稀な頭脳を持つ天才であり、理知的かつ明晰な推理によって次々と事件を解決していく。水谷豊の抑制された力強い演技によって、杉下右京というキャラクターは多大な人気を博し『相棒』は20年以上続く長寿ドラマシリーズとなっている。ザコシは彼をネタにする。モコモコのつけ髭や安い鬘をつけたうえで、テーマソングを口ずさみながら、Youtube撮影用の地下空間を奇妙に動きまわる。それが終わると、ザコシは右京の理知的な喋りを真似しながら、漫談を始める。最初に行うのはいわゆる客いじりだ。目の前に客がいるという想定で、手で彼らを指しながら「べっぴんさん」と言っていくが、ある客を飛ばし隣の客を指しながら「1人飛ばしてべっぴんさん」と言う。ここまでは関西の漫談などでよくある旧態依然とした、性差別的な客いじりだ。そして次にお約束として、1人の客を何故飛ばしたのか?に関するボケを披露する訳だが、ここでザコシは体をブルブルと誇張して震わせながら「あなたがブサイクだからですよ!」と誇張して叫ぶのだ。ここで紘は思わず爆笑してしまう。
 この爆笑には幾つかの背景が存在する。杉下右京は先述通り常に理知的であり、非人間的かつ非感情的とも称される喋り方を徹底しているが、対峙した犯人を追求する際に激昂する時があり、この時彼は体を、特に顔を震わせながら声を激しく荒げるという行動を取る。理知的からの激怒という飛躍が、右京という人物が内に秘めたる激情を指し示しており、ここに彼の魅力、もしくは『相棒』というドラマのそのものの魅力を感じる視聴者も多い。ここにおいて激怒の矛先は犯人の動機の浅はかさ、人を踏みにじる卑劣さであり、セリフも頗る真剣な、視聴者の心をうつ類いのものとなっている。
 ザコシはこの『相棒』のお約束でもあるこの激昂と視聴者が抱くイメージを逆手に取り、先述した体の震えを誇張したうえで「あなたがブサイクだからですよ!」と、右京が実際には絶対に叫ばない類の言葉を叫ぶことで、人を笑わせようと試みた。そして絋は漫談のお約束に『相棒』のお約束が誇張的に掛け合わされることで生まれるギャップを面白く感じ、爆笑したんだった。その後もザコシの“誇張されたモノマネ”に紘は笑い続ける。ザコシは最高のお笑い芸人だと彼はいつものように思う。
 昼食を一人で取っていた恋人の山形ハンナが紘の方へとやってきたので、このザコシの動画を見せる。彼女も同じく『相棒』のファンだった。ブサイクの下りに来た時、必ずハンナも笑うだろうと予想しながらその表情を伺っていたが、眉間へと微かに皺を寄せるだけで笑うことはない。その後も一切唇を緩めることがない。動画が終った後に“何でこの動画見せたの?”とでも言う風に視線を向けてくるのが気に障る。
「ザコシ、面白くない? 『相棒』ネタめっちゃ笑ったんだけど」
 そう恐る恐る言うと、不愉快げな皺をさらに深めた。
「何か、紘っていつも映画の批評とか書いたり、小説読む時、何だっけ、容姿いじりは全然面白くない、ルッキズムは時代遅れとか何とか言って、色々と批判してるじゃん。なのに、こういうブサイクネタは笑うの? ザコシ、というかお笑い芸人全般に何か甘くない?」
 その言葉に紘は驚き、一瞬何も言えない。だが何か言わなくては唇をわなわなと動かす。
「いや、いや、そういう訳じゃないだろ。ルッキズム批判してるのにお笑い芸人のネタでは笑うんだっていうのは、否定……クソ、分かったよ、否定できないよ。批判が自分に返ってきてるってのはじゃあ認めるよ。でも……至らないとこはそりゃあるだろ、誰にも。それにこういうのは別腹じゃない? こういう下らないYoutube動画観て笑ったの批判されなくちゃいけないってのは清廉潔白求めすぎだろ、そういうのから切り離されて“ルッキズムは批判するけど、それはそれとして”っていう自由な時間はあって然るべきだろ。幾らなんでも理不尽だろ?」
 自然と早口になり、ハンナを詰問するような口調になってしまうのを後悔しながら、これが本心でもあるゆえに意地になりながら言葉をブチ撒けた。
「別に、根本の価値観を否定しようとしてる訳じゃない」
 ハンナが鼻の側面を掻き、汚い赤みが浮かびあがる。
「ただダブスタだなって思っただけ」
 そう言ってから、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴き始める。
 そうやって言いたいことだけ言って、自分の世界に閉じこもる訳だ。
 心のなかにそう吐き捨て、紘は散歩へと出掛けることにする。

 11月半ば、微妙な寒さだ。パーカーだと寒いが、ダウンだと歩いているうち主に腕から汗が吹きだす。横目に工場の群れを眺めながら、ハンナと競いあうように紘も音楽を聴きだす。数日前、本当に久々にライブへと出掛けたが、そこでAwichとPETZの『Time』を聴き、死ぬほど感動したのが忘れられない。その時のことを何度も思いだすために、PETZのアルバム『CHAOS』をリピート再生している。聞いているといつだって目頭が熱くなる。
 誰でも間違いは犯すよ I'm sorry
 そんな歌詞が急に紘の耳に飛びこんできて、心臓をグッと握られるような圧迫感を覚えた。今、おそらく自分がハンナに言うべき言葉は正に“I'm sorry”だった。だがそれを考えると吐き気すら込みあげてくる。素直になれない自分を嫌悪し、首を回して関節を鳴り響かせる。
 今日は悪くない1日の筈だった。昨日、今後公開予定の映画のパンフレットへの寄稿を依頼されたのだが、もう既に輸入版のソフトで鑑賞していた作品で、かつ依頼内容に関しても、自分がその作品に巡らせていた思惟と一致するものだったので、依頼メールが来た30分後には執筆を始め、就寝を挟んで朝には原稿が完成し、全くスムーズに仕事をこなすことができた。これだけで原稿代は15000円だ、時給換算でも相当に美味しい仕事だったように思える。だからこそ気分が良かったが、それをハンナに一発で台無しにされた。
「何かさ、原稿書く側じゃなくて、依頼する側になれないの? 配給会社とかに就職できないの? 映画に関してはかなり知ってるじゃん」
 いつだったかハンナに言われた言葉を反芻し、猛烈な拒否感を覚える。基本的にはコンビニバイト、それに加え映画ライターとして生活の足しにもならない小銭を稼ぐばかりで、正社員になる努力すらもしようとしない、暗にこう罵っているとしか思えない。だが映画館にしろ、配給会社にしろ、映画に寄生して金を稼ぐ職業には絶対に就きたくなかった。アップリンクや立誠シネマを筆頭として、リベラルな連中が差別や貧困問題についてご高説を振り撒きながら、実際はセクハラ、パワハラ、低賃金、奴隷労働で低い立場にいる人間を搾取し続け、映画愛を人質にトコトンまで追い詰めていく。そして仕事自体も杜撰なものが多すぎる。例えば『Summer of 85』というゲイの青年たちの恋模様を描く作品、そのポスターにおいて、1人の青年がゲイである証のように着けるピアスをPhotoshopで抹消し、ゲイロマンスであることを隠蔽しようとした。『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド』という映画のポスターでは、主人公たちが老けているのは見映えが悪いとばかり、彼らの顔に浮かぶ皺を消し去った。映画を金稼ぎの道具としか見なしていない人間だからこそ、こういった作品を踏みにじる行為ができる。結局、好きなものを職業とするのは、対象への愛を資本化するという体制への加担行為だ。好きなもので金を稼いだ時点で、その愛は二流三流に堕落する。
 それでいて好きなことで生きていくという希望を捨てきれない己の弱さを、紘は身に染みて感じている。だからこそ映画ライターという地位にしがみつき、小遣い程度とは言え、それによって金を稼いでしまっている。この時点でも自分は完全なる二流だと確信しながら、映画で金を稼ぐという行為に疑問すら持たない人間よりはマシだと自分を慰める。
 そして何よりも、実際に彼が抱く夢は小説家になることだった。日々、紘は書いている、書き続けている。だが何らかの形でも認められたことがない。1度だけ執筆した作品が太宰賞の一次選考に通りながら、その先には行くことがなかった。他の作品はこの一次すらも通ったことがない。常に惨めな気分でありながらも、新しい作品を書こうとしている。だが最近は映画のレビューなら幾らでも書けるが、小説に関しては書けない状況が続いている。全くアイデアが浮かばないのだ。今もPETZを耳の相棒として歩き続けながら、必死にアイデアを考え、それを繋げて何らかの物語を頭に描きだそうとしながら、無しかない。

 そんな紘が辿り着いた先は、最近最寄り駅の近くにできたフィッシュ&チップス店Urban Bearだった。店内を覗くと、見知った顔の店員がキビキビと働いている。その女性、フローレンス・グリーソンが顔をあげた時、自分と目が合う。「いらっしゃいませえ」と流暢だが、少しばかり言葉足らずな声を聞くと幸せな気分になる。席に座ってメニューを考える際、紘はフローレンスと親しげに会話を繰り広げる、英語でだ。最初の挨拶だけが日本語で、後は英語というのがお約束であり、この方が彼女にとってもやりやすいだろうと少なくとも紘は思っている。フローレンスの英語は滑らかながら同時に力強いブリティッシュ・イングリッシュであり、BBCのニュース番組から聞こえてきてもおかしくない。こういった英語をいわゆるクイーンズ・イングリッシュと呼称するのだろうと、初めて彼女の言葉を聞いた時に確信したのを覚えている。高貴、優雅、そんな月並みな形容しか頭に浮かばない自分自身が恥ずかしい。普段、映画やドラマを観るならば殆んどがアメリカ英語であり、こうした耳に心地いいイギリス英語は意識的に探さなければ見つからない。学校にしろ日常にしろ、アメリカ英語が氾濫する日本において、フローレンスの存在は貴重なオアシスのようだった。
 そして思わずフローレンスの英語をハンナの英語と比べてしまう。彼女は日米ミックスであり、日本とアメリカを行き来するような生活を送っていた故に、日本語も英語も流暢に使いこなす。だがその英語はアメリカ人に平凡なまでの粗野さを宿しており、聞いていて何の感慨も抱かないほどの無個性さをも誇る。だがフローレンスの言葉を含めイギリス英語はそれぞれに気品があり、しかもそこに艶やかなグラデーションというものすらも存在しているので、聞いていて全く飽きることがない。
 やっぱアメリカ語よりイギリス語だよな。
 フローレンスと話しながら、そんな冗談を心で独りごつ。
 ハンナもアメリカじゃなくてイギリスとのミックスだったら、もっと良かったんだよ。
 フィッシュ&チップスを喰らい英気を養った後、紘は家に帰ろうとする。フローレンスはいつまでも自分に手を振ってくれるので気分もいい。帰り道、通行人たちをフラフラ眺める。白いモフモフした犬を散歩する中年女性、袋に入れたサッカーボールを蹴る制服の学生たち、夕方から缶ビールを飲み歩く赤ら顔の男性。彼らの姿が浮かんでは、一瞬に消える。そんな中で、目の前から自転車に乗ってこちらへ進んでくる女性が見える。白人だった。赤みがかった金髪を揺らしながら、気ままに自転車を漕いでいく、その姿から目を離せなかった。視線がタコの吸盤さながら彼女の顔に吸いつき、首までグルリと動いていく。遠ざかる背中までずっと見ていた。しばらく女性の姿を反芻するうちあることに気づいた、自分が白人女性ばかりに目移りすることに気づいて愕然とした。
 こんなん、さっきのザコシのやつよりずっとルッキズムだろ。
 ヘテロセクシャルとして恋愛を意識するようになった時から今を漠然と振り返るなら、自分は白人、少なくとも“日本人離れした”顔立ちの女性とばかり付き合ってきたように今思う。高校生の頃、モンテネグロという未知の国から来た留学生の少女への片想いは、鮮烈に心に刻まれている。「私、よくハーフと間違われるんだよね」と嬉しそうに言っていた大学の同級生が初めての恋人だった。Tinderで会ったリトアニア人の女性といい関係になって何度かセックスした。そして今、アメリカと日本のミックスである女性が恋人でありながら、近くのフィッシュ&チップス店で働くイギリス人女性に心がなびきはじめ、自転車に乗った見ず知らずの白人女性に目移りする。冷静に考えるなら、白人を美の基準とする、日本人の劣等感を多分に反映した種のルッキズムを、自分は完全に内面化しているとしか紘には思えなかった。
 でも、良くね? これ、別に誰にも迷惑かけてないだろ。
 そんな思いがぬっと首をもたげた。だがそれはヘテロシス男性の既得権益におんぶにだっこの開き直りのようにも見える。もはや何が正しいのかが分からない。

 家に帰り、とりあえずハンナに謝ろうと思う。だが部屋に彼女の姿はない。もう自分の家に帰ったらしい。後悔しても遅い。汚い台所でたらこスパゲッティを作る。大量にパスタを茹でて、セラミックのボールにブチこみ、たらこソース2袋をかけて混ぜあわせ、それで料理は終わりだ。
 パスタを凄まじい勢いで啜りながら映画を観る。その『マークとメアリー、その他の人々』という日本未公開のアメリカ映画は、思わぬ形で紘の心を打った。性的指向や性自認など今は性が多様になってきた時代だ。だがその中で“異性愛”や“男性/女性バイナリー”などマジョリティ概念は一体どこへ向かうのだろうか? その意味で今作は、こういった性の多様性に学びながらマジョリティである自分たちの明日を探す、正に“ヘテロ映画”というべき1作だった。紘はアメリカン・コメディの2020年代が始まったと否応なしに感動してしまう。
 この感動のままにTwitterで今作の感想を検索していると、英語ではなく日本語の感想を見つけた。自分と同じように性の多様性という要素への感動を綴った感想は、既に半年前に書かれていたらしいが、その感想の主は紘を事あるごとに批判してくる映画批評家だった。Filmarksという映画のデータベースサイト、そこにあるユーザーが自由に感想を書ける欄に、自身が書いたらしいブログ記事の全文を丸写ししている人物を見つけた。そこまでして自分の文章を読まれたいのかと、この人物の肥大した承認欲求の愚かさをTwitterで批判した。だがその映画批評家はこれに反応し、こうした言葉を呟いた。

“色々な人に文章を読んでもらいたい欲望を馬鹿にする人間に呆れる。少しでも多くの人に読んでもらいたいから、あらゆる場所に自分の文章(例え同じ文章でも)を撒き散らす貪欲さは見習うべきで、馬鹿にする筋合いはない。“承認欲求”という言葉で何か言った気になる人間、しかもそれを金をもらわなければ文章すら書けない人間が言うのだから、救えねえよ”

 これを思いだして、たらこスパゲッティをゲロと一緒に吐きだしそうになる。だが何とか、何とかこらえた。
 しばらく動けずにいると、ハンナからメッセージが来る。
 “今日はゴメン。ヒロも色々考えてるのは分かってんだけど、何かだからこそ、あの時は言いすぎた。ゴメン”
 先に謝罪されて、紘は気圧される。だがそれ以上に気になったのは、いつもは“ごめん”とひらがなで書かれるはずが“ゴメン”とカタカナで書かれていたことだ。ここにも何か自分が読み取れない意味が込められてるように思える。だが絶対にこれは考えすぎだとグルグル回る思惟を押し留めようとする。
 だがそんな彼の元に届いたメッセージは、小説の公募結果についてだった。
 “残念ですが、今回は……”
 就活で拒否されるのと同じような内容だった。
 紘はしばらく何もできなかった。惨めだった。今すぐ膀胱でも脳髄でもどこでも爆裂して、死ねたら本望だった。
 だがそんなことは起きない。
 紘はまたたらこスパゲッティを食べ始める。今はただ、ゆっくりとパスタを啜る。手は震えるが、ゆっくりとだ。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。