コロナウイルス連作短編その72「死んだ名前で呼びつづける」
グラウンドでは女子生徒たちが持久走をしている。赤楚眞理はそれを早々と終え、休憩しながら適当に周りの風景を眺めている。友人たちが持久走をする風景にはすぐ飽きる。代わりに向こうでバスケットを楽しむ男子生徒たちを眺める。中でも1人の少年の動きが際立っていた。春の生ぬるい風を越えて、他の少年たちの生命力に溢れた身体の間隙を疾走し、まるで重力に逆らうようにボールを操る。彼は最後には洗練と華麗そのものへと変貌し、ボールをゴールへと投げる。官能的な放物線を描いた後、ボールはゴールに入り、地面へと着地する。少年は余裕気な表情を浮かべながら、仲間たちとこの瞬間をともに喜びあう。皆の笑顔が眩いばかりに爆ぜている。彼らの歓声を聞きながら、眞理は数十匹の苦虫を噛み潰したような表情を隠さない。
何なんだよ、マリコ。
心中での独り言のはずが、まるでそれが聞こえたように、少年が眞理の方を向いてから手を振った。眞理も笑顔で手を振りかえす。
眞理とその少年、磯芝悟は同じクラスであり、2人は喋る訳ではなくとも毎日顔を合わせている。それでも学ランを着ている彼の姿は眞理にとって違和感の塊であり、脳髄にめぐる神経の数々を逆撫でにする。いつだって"違う、違うだろ"と悟の肩を揺らしながら、詰問したい気分だった。なのにどうしても悟の姿を目で追ってしまう自分に気づいて、厭になる。悟は友人たちと週刊少年ジャンプを回し読みしながら馬鹿笑いする。悟はお腹を擦りながら、教室を出ていく。悟はアンニュイに頬杖をついて、外に広がる鬱屈した青い空を見つめる。悟は白飯を唇に猥雑に突っこんだ後、米粒を唾と一緒に吹きとばしていく。そんな風景の数々はいちいち眞理を苛立たせながら、目を背けることはない。そして悟が周囲の少年たちと良好な雰囲気を作っている風景には特に目を背けられない。嫉妬や嫌悪感、様々な負の感情に襲われ、自分の左頬を殴って骨を破壊したくなる。
学校が終った後、眞理は恋人である明治弥子と一緒に自身の部屋で一緒に過ごす。2人は学校で話題になっていた大食いYoutuberの動画を観ていた。就活スーツを着た、垢抜けない細身の青年が目前に置かれた6kgもの豚骨ラーメンを凄まじい勢いで喰らう、まるで人間ブラックホールだ。彼の胃のなかには、無限に広がる極彩色の宇宙が広がっているように思われる。しかし眞理は何となく競争心を抱く。
「生理前だったら私だってマジでこれくらい喰えるよ。ヤマダ電機に売ってるスゲー高い掃除機みたいに、もう吸いこめると思うわ」
「本当? いや、アタシは無理だな。生理ん時は逆に下痢とかそういうのが酷いから喰えない」
「弥子はそもそもの話、全然食べないじゃん。コアラレベルの小食」
「いやコアラは1日にユーカリ1kg喰ってるから。どっちかっていうとナマケモノかなあ、アタシは」
弥子は175cmの身体をゆっくりとベッドに横たえる。ヘッヘッヘと笑いながら、眞理は彼女のお腹を叩いたんだった。
それから2人はベッドに並んで、それぞれ勝手にスマートフォンを眺めていた。そして冷蔵庫から盗んできたハーフベーコンを2人で食べる。蕩けるほど旨かった。この時の何とも言えない、適当で親密な静謐を眞理は愛していた。だがスマートフォンの画面にエリオット・ペイジという俳優のニュースが現れた時、思わず眉に皺が寄る。
「またエレン・ペイジのニュースが出てきたわ、うぜえ」
「いやだからエリオットでしょ。その名前呼ぶのいい加減止めなよ」
「別にいいじゃん、そいつが聞いてる訳じゃないしさあ。それにエレンの方が全然カッコいいよ、エリオットとかダサいにも程があるわ」
「そういう問題じゃない」
弥子は真剣な表情を浮かべるが、眞理は軽薄な薄笑いでそれをやり過ごす。
悟があまりにもスムーズに男子の輪に溶けこみすぎている状況が、眞理の神経をいちいち刺激する。今、悟は隣の巻川青とヒソヒソ喋りながら、落書きをしていた。短く刈りあげた黒髪、それと隣りあうこめかみが桃色に染まっている。彼がご機嫌な証拠だ。眞理はシャーペンを噛んだ。
何だよ、日本男児ってもっと偏見まみれの存在じゃないのかよ。
眞理は、自分がレズビアンだとカミングアウトした後に受けた男子からの呪詛を思い出しながら、心で独りごつ。
「男子なのにマンコついてるぅ!」とか「立ちションできないヤツは男子じゃない!」とか悪口言わないのかよ、クソ。陰でも何か言ってる男子、全然いないし。私やマリコのことはボコボコに叩いて、黙らせようとしてきた癖に、日本男児の仲間が増えるのは歓迎かよ。現金なやつらだな、マジで。
毒をブチ撒けるように、眞理は鮮烈な言葉の数々を心のなかに吐き捨てる。今の彼女の心は掃きだめ同然だった。その陰鬱さを尻目に、男子たちは無邪気そうな寛容さを以て悟を"どこからともなく現れた素晴らしい友人"として扱っている。虫唾が走った。俯きながらゲロを吐く素振りをしていると、ふと頭に情景が浮かぶ。悟が立ちながら学ランのズボンを脱ぎ、ヴァギナから排尿をする。横にいる数人の少年たちが立ちながら学ランのズボンを脱ぎ、ペニスから排尿をする。彼らは立ちションをしていた、彼らはもう心で繋がった親友同士だった。
眞理は教師に許可を取り、トイレへ行く。幸い吐瀉物をブチ撒けることはなかったが、反吐は何度も便器に吐いた。
その吐き気は夕食時になっても消えなかった。眞理は眉間に重苦しい皺が寄るのを感じながら、無言で白飯を口に突っこんでいく。
「ねえ眞理、アンタ何か最近、ずっと機嫌悪そうだけどさあ、大丈夫?」
母親である赤楚倖が何とも優雅にほうれん草のソテーを食べながらそう言うので、苛つかされる。
「別に何でもないよ。私が機嫌悪いのなんていつものことだろ」
「まあね。でも実際、何か厭なことあったらさ、ちゃんと親でもいいし恋人でもいいから相談しなさいよ。もしくは日記に書く。思いとかじゃなくて、言葉に残しておいた方がいいよ。口で言うのも手で書くのも、どっちでもいいからさ」
その言葉は親身なものに思える。だがその親身さが眞理の吐き気を加速させる。ハンバーグを無言で貪りまくる。肉もデミグラムソースも、そして大量のチーズも何もかも旨かった。吐き気は収まらない。
夕食後は自分の部屋でコーラ1.5Lをラッパ飲みしながらAPEXで敵を射殺しまくる。兄である赤楚英司も別の部屋でAPEXをやっており、一緒にオンラインの猛者たちを排撃するのはなかなか楽しい。気分が良くない時には最高の気晴らしになる。
コーラを飲みすぎて破格の尿意を催す。我慢して我慢した挙句、急いでトイレへ向かう。廊下で英司と鉢合わせしたので、口を尖らせながらハイタッチをした。
「今日はもう、めっちゃブッ殺したね。次は霜降り明星の粗品とかブッ殺したいわ」
「んな、物騒なこと言うなよ。いざ対面して逆にブッ殺されたら目も当てられねえよ」
「それはない、それはないね。Youtube観てみ、完全雑魚だから」
そう笑いあっていると父である赤楚九間から「お前ら早く寝ろ!」と釘を刺される。その瞬間に尿意が復活し、眞理は急いでトイレへ走る。
体育の授業でもバスケやサッカーをする時、悟は最も輝いていた。身体の動きはしなやかながら、内奥からは力が溢れ、敵チームが襲い掛かってきてもいとも容易く捻ってしまう。チームワークへの関わりも抜群で、前に出るべき時と後衛に引っこんでいるべき時を本能で弁え、剛柔自在な動きを見せる。遠くからその光景を眺めながら、眞理は悟に魅了される一方で脳髄に小さな針を何千本も突き刺されるような感覚を味わう。悟の躍動を素直には喜び難い。
ある時、悟はお腹を擦りながらコートの縁に座った。しばらくすると教師と話し、どこかへ向かう。トイレか保健室だろう。最近こんな風景をよく見るような気がする。腹部の調子があまり良くないらしく、腹痛を訴えてはすぐに授業を抜けていく。彼の友人たちにこのことについて尋ねると、放課後も体調を崩していたのを見たと言う人物は多かった。眞理は悟を心配している。だがそれ以上に後ろ向きな嬉しさを感じている。
恋人である弥子と母親である倖の仲は良好なものだ。倖は音楽評論家として日々世界で響き渡る未知の音楽を聴きまくっているが、1人の音楽好きとして弥子はその飽くなき探求心を尊敬しているようだった。最近の倖はほぼテレワークで世界の音楽家や雑誌関係者と連絡を行っているので、弥子が眞理の家に来る時、倖の部屋にもよくお邪魔した。彼女は部屋に入るたび、壁を埋め尽くすレコードやCDの匂いを深呼吸で肺に溜めこみ、壮絶なまでに深い溜息をつく。倖はその姿をいつも目を細めながら見つめ、自分もそんな風に彼女を見つめていることに眞理は気づく。
この日は倖が最近見つけたというリトアニアのロックバンドshishiの曲を聞いていた。
「最高なまでに時代錯誤なサーフロック、これが良いんだよねえ。例えばラテンアメリカだとね、今でもこういうゴリゴリの70'sサーフロックっていうバンドはいると思う。例えばパラグアイのEEEKSとかアルゼンチンのLas Piñasとかね。でも東欧っていうのが珍しいじゃない? サーフィンのイメージなんてないでしょ、完全。特にリトアニアとかバルト三国なんて極寒って感じだ。そっからこういうサーフロックとRiot Grrrlが融合したような音楽が出るんだから面白いよ。剥き出しだけど、どこか楽観的に輝く生命力はサーフロックの特徴だけど、そこにこう、勝手なイメージかもしれないけど、東欧特有って感じての凍てつきと翳りみたいなものがあるっていうのがこのバンドのいいトコ」
煙草を吸いながらユルユルと解説する倖の姿に、弥子は熱い尊敬の眼差しを向けている。そのうち彼女は大きな身体を存分に揺らしながら、響きに合わせて踊りはじめる。倖も咥えた煙草から灰が零れるのも構わずに踊りだす。彼女たちが醸しだす高揚感に、眞理は胃もたれを感じた。胃がどろどろと縮み、そしてヘドロが水に攪拌していくように広がっていく。この蠕動を感じるのは苦痛だ。振り払うためにリズムに乗ろうと試みながら、何か罪悪感が浮かんで上手くいかない。もういっそとワチャワチャと身体を馬鹿みたいに動かすと、2人が白けたような淀んだ瞳でこっちを見てくるのが分かる。眞理は"こっちの方が白けたし"と無言で吐き捨てるような苦い表情を露にしながら、椅子に座りなおす。
週が明けて、担任教師から悟が入院してしばらく学校に来れないということが通達される。アゴを執拗に掻きながら、眞理は周りを見渡す。自分と同じく驚きを露にする生徒がいる一方、居心地悪げに俯いている男子生徒がいた。もしかすると彼らの前で倒れたのかもしれないとそんな風景が首をもたげるが、眞理は前歯で下唇をグリグリと刺激することしかできない。見舞いに行きたいとも思えるが、コロナ禍ゆえに面会できるのは家族だけだという。濃霧のようなモヤモヤが脳髄や心臓を包む。背中が不愉快なまでに痒くなるが、手が届かない。椅子の背もたれに背中を押しつけながら、息を深く吐く。肺が縮んで、そして膨らむ。
眞理の気分も加速度的に悪くなっていく、生理だった。翌日は学校を休み、ベッドでずっと寝転がっていた。時々は弥子とLINEで他愛ない話をし、時々は好きなゲーム実況者であるBBCのAPEX動画を眺める。それでも子宮だか大腸だかが、飢えた蚯蚓のように蠢くたびに苦痛が眞理を苛む。苦痛のたびに弥子にスタンプを送りまくった。
夕方ごろ、ノックをした後に兄である英司が入ってくる。
「カツオのたたき買ってきたぞ、おい」
英司はカツオのたたきが入った2つの大きなパックを彼女に見せつける。生理中、胃のなかで異様なまでにカツオのたたきへの欲望が膨張するのを眞理はいつも感じる。ヴァギナから血をブチ撒けた果てにカツオのたたきを大量に貪りつくすのは、死中に活を見るような思いだった。
「有難いですわ、早く食べてえ」
「ちゃんと大葉にんにく風味買ってきたからな」
「OKです、ありです」
英司は男性にしては珍しく生理に理解があるように思える。おそらく恋人に調教されたのだろうと眞理は内心ほくそえむ。
カツオのたたきが食べられると思うと、両の肩甲骨が肉体のなかでウズウズと震えた。自然と笑みすらこぼれる。
結局、悟は1か月間学校には来なかった。実はもう退院しているけども何らかの難病で家に引きこもっているという噂も眞理は聞いた。だが悟を冷やかすようなあくどい噂を聞いたことはない。眞理は授業を受けながら鬱々とした気分で、こんなあくどい噂が流れればいいのにと夢想する。そして自分がこの学校で最も品性下劣な人間なのではないかと鬱屈がさらに加速する。そして終業式が終って春休みがやってくる。いつの間にか弥子との関係性もぎこちないものになってきている。ベッドに並んでスマートフォンを眺めている時の沈黙に、弥子の体臭が混じる。鼻の粘膜に障るような、枯れた彼岸花の悪臭だ。横を見る。スマートフォンを操る左の手の甲、そこに蟠る茶色いシミとその上から無様に生える灰褐色の産毛。目に入るたび不愉快だ。もう終りかなと独りの時に思う。別れを切りだすことはできない。
春休み中は英司と一緒にモンスターハンターライズでずっと遊んだ。眞理はハンマーでモンスターの頭部を粉砕するのが好きだったが、豪快に一撃を加えたとしても気分は晴れない。彼女とは逆に、英司は手数で攻める弓の射手で優雅にモンスターを倒すのが好きだった。リビングでコカコーラ1.5Lを回し飲みしながら、彼女たちは並みいるモンスターを狩りまくる。「何か、ライズで片手剣、最悪に弱体化したな」だとか「ラスボスのアレ、金玉に見えるか? それより水餃子っぽいだろ。ネットのヤツら、どいつもこいつも下ネタに絡めればいいと思ってるだろ、馬鹿が」だとか、眞理に話題を投げかける。ただ素気ない返事をする。会話は続かない。彼の気遣いは有難くも、今の眞理には邪魔なものだった。ふと英司と目があう。その瞳はいやに複雑だった。色も感情も様々なものが混じっている。それが自分のことを考えている故だと、例え自意識過剰にしろ思ってしまう。眞理は急いでSwitchの画面に視線を戻す。気分が悪かった。父親の九間がいつものように兄妹のゲーム中毒を咎め、その言葉で自分の息が詰まっていたことに気づく。
木曜日の夜はゲーム実況者BBCがゲームをしながら、深夜ラジオさながら雑談をしているのでいつもそれを聞いている。彼もモンスターハンターライズをしていたが、モンハン初心者と公言する通り眞理よりも下手くそだった。APEXや鉄拳7をプレイする時の切れ味はどこにもない。逆にモンスターにボコられ無残な悲鳴を挙げるたび、眞理は酷薄な笑いを抑えられない。そして彼のトークには別段芸能人のような面白みがある訳ではない。だが語尾が妙に間延びした話し方や、暖めた牛乳の表面に浮かぶ膜のようにふやけた声を聞くと、こちらの言葉も心地よくふやける。こうして木曜日は夜更かしするのが、眞理は好きだった。
ふと窓の外に目を向けると、ヤマダ電機で売っているタブレットのように黒い空と、それに抱かれる向かいの家が見える。思い出したのはこのゲーム実況者の動画を観始めたのが2年前だということだ。同じ頃、向かいの家に住んでいた女性が心筋梗塞で突然亡くなったのだ。彼女が時々持ってくる、実家で栽培されたというレンコンは本当に美味しかった。その突然の死は予想を越えて眞理の心を不安定な状態にした。そんな時、このゲーム実況者が笑えると勧めてくれたのが悟だった。この時間の流れが一気に思い出される。郷愁が針になって心の臓を突き刺す。
"ひさしぶり"
LINEにメッセージが来る、悟からだった。刺さる針がアイスピックになった気がした。
"え、ひさしぶり、なに"
そう送るしかできない。
"実はマリの家の前、いる"
"前"と"いる"の間の句読点が眞理の頬骨を殴りつけてくる。頬肉を擦りながら外を見ると、細い影がユラユラ揺れている。今は午前2時だ、幸い家族はみな寝ている。廊下を歩き、階段を降り、闇のなかで靴を履いて、静かに玄関ドアを開ける。悟がいた。
「よっ」
腕をあげて、妙に楽天的な挨拶をしてきた。眞理も右腕をあげる。何か言うことができない。
「ひさしぶり」
「……ひさしぶり」
生ぬるい大気のなかで、沈黙が不可視の津波さながらうねる。心がざわついてしょうがない。
「ちょっと話したいことある。歩かない?」
そう言われたので、歩く。だが悟は喋らない。眞理も喋れない。生ぬるさが首に纏わりつき、頸動脈を締めつける。久しぶりの再会にあるべき喜びは微塵も存在しない。そのうち、ある建物に辿りついた。潰れたタバコ屋の跡地だ。コロナ禍の数年前から営業はしていなかったが看板は残され、更に自動販売機が置かれ輝きを放っている。だがゴミ箱は設置されていないので、缶のゴミが惨めな山を作っている。眞理が悟と学校から一緒に帰っていた頃、ここでよくコーラを買って飲んでいた。2人は自動販売機が放つ青みがかった光をしばらく眺めていた。羽虫が舞うなか、ひと際大きなハエが明かりを求め、自動販売機に激突し、しかし一切の音をともなわないまま地面に落ちる。
「俺、クローン病なんだって」
悟がそう言った。クローン病という言葉を初めて聞いたと眞理は思う。
「最近さ、結構お腹痛いのとか下痢とかすごい酷かったんだけど、まあ治るよなって放置してたんだよ。そしたら友達とマックで騒いでる時、腹痛がきてまた来たかあとか思ってたんだよなあ。だけどいつもよりかなり酷くなって、いきなりうわあって感じで倒れたんだよ。それで病院に運ばれて精密検査でクローン病っていうのが分かって、速攻で小腸の一部とか切ることになった。クローン病とか初めて聞いたし、何か全然良く分かんなかったけど、それで入院とかも辛かったけどさあ、腹痛とか下痢とか本当止まんないんだよ……でも退院してから現実を突きつけられたっていうか。僕の……俺の腸全部悪いから、もう一生色んなもん食べちゃいけないらしいよ、いや食べちゃダメじゃあじゃないらしいけど、でもホント慎重に食べる必要があるって。まずファストフードとか食べちゃダメってさ、ハア?って感じだよな。ハンバーガーとかフライドチキンとかラーメンとか、もうそういうの全部食べられないかもだって。友達とマック行って、ダブルチーズバーガー食べるとか、もうヤバいから止めた方がいいみたいな。意味分かんないよな、でも医者が言ってたからそういうことなんだと思う。そういえばモンハンライズとかやってないなあ。マリはやってる? モンハン好きだろ」
「えっ、まあやってるけど」
「いいなあ。今は正直プレイする気力ないよな。今はただベッドで寝転がってYoutubeでモンハンの実況プレイ観てるだけだわ。マックにSwitch持ってってモンハンやりながら、何かハンバーガー、何でもいいけど食べたかったなあ。後さあ最悪なのが、母さんが作ってくれた和風のペペロンチーノとかももう食べられないんだって。生協で買ってきたハーフベーコンをさ、4袋全部入れて、手で裂いたエリンギも一杯入って、鷹の爪とにんにくもクソたくさん入ったやつ。今言ったやつ全部、俺の腸にはダメだって。脂とか辛味とか刺激とかそういうやつ。俺、大好きだったんだよ。母さんの料理でホント一番好きだったなあ、そこに大葉とかかけてズルズル啜るのとかマジ最高だったよ、もうそれなら延々ずっと食べれてたんだけど。もう食べれないんだって。あとそういう他人から禁止されてるとかじゃなくて、俺的にもアレはもう食べれないなあって思うんだよ。今、もう全然食欲とかなくてさ、俺あんなに喰ってたのに、今もう朝に小さいおにぎり1個何とか食べた後は、もう何も食べたくないんだよ、ていうか食べれない。身体が食べ物を拒否してる感じ。後は何か甘いプロテインみたいなやつ飲んでる、それ以外受けつけない。母さんが作った唐揚げとか食べたいなあ」
悟は泣きだした。
「昔さあ、一緒に映画館行った時、コーラの1.5Lボトル持ってったなあ……観てた映画どっちだっけ……『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』と『アベンジャーズ/エンドゲーム』さ……まあどっちでもいいわ、アベンジャーズをコーラ飲みまくりながら観るの最高だった……多分アメリカ人もこういう風にマーベルの映画とか観てんだろうなあみたいな……塩味がヤバいポップコーンとかも喰いまくってさあ、最高だったよなあ……マリ……でも僕……俺……腸がどうなるかとか分かんないから、もうこういうの一生できないんだってさ……」
そこから悟はただ泣いていた。わめいていた。言葉と判別できるような響きはどこにもなかった。眞理はそんな彼をただ見ている。この状況が理解できない。ただ困惑するしかできない。ただ、自分を感情のゴミ箱にされたようなムカつきがある。
「急に呼びつけてごめんね、帰るよ」
顔を涙と鼻水でめちゃくちゃにしながら、悟は歩いていく。眞理は彼の背中を眺める。自然と身体が震えはじめる。何か言わないと全てが終るとそう思えた。左の掌を見る。汗の1粒が青白い光に照らされる。それを右の親指で潰しながら、眞理は叫んだ。
「マリコ!」
悟は止まった。だが振り返ることも、何か言うこともなかった。すぐに悟はまた歩いていき、ぬるい闇のなかに消えた。
家に帰り、玄関で立ちつくす。そこに英司がやってくる。
「おい、何か……大丈夫か」
眞理は口を開くが、飢えで死にかけた鯉のように口をパクパクと開閉するしかできない。だが最後には言葉を絞りだす。
「いいことあったんだよ」
英司はゆっくりと眞理の肩を叩く。
「そりゃまあ、よかったな」
英司は部屋に戻る。眞理はリビングに行き、冷蔵庫の前に立つ。中にコーラはなかった、だがハーフベーコンが2袋あった。そこには5×2枚の小さな、脂塗れのベーコンが入っている。桃色の肉と純白の脂身が艶めかしく輝いている。弥子の唇を思いだして吐き気がした。袋をベリベリと破り、ベーコンを一気に5枚貪る。深夜に食べる脂まみれの肉には背徳的な塩味が沁みついており、本当に旨かった。口全体で脂を味わい、そして飲みくだす。胃が快哉を叫びながら喜んでいる。肩甲骨が爆発しそうなほど嬉しかった。そしてもう1袋もベリベリベリと破って、ベーコンを、今度は1枚ずつ味わう。肉のなかに宿る味や旨味全てを舐め尽くすまでに、ベーコンを堪能する。スーパーで売っている安物のベーコンをこれほど旨いと思ったことは一度もなかった。
私は食べられるんだよ、食べられるんだよなあ、マリコ。
瞳からも鼻の穴からも、粘りきった汁がダラダラ流れてきていた。眞理はそれと一緒にベーコンを食べた。そして10枚全て食べた。本当に、本当に旨かった。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。