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コロナウイルス連作短編その128「ドーナツの入ってる箱みたいな」

 松嘉良三好は児童館の前で来客を待つ。三好は人類学を学ぶ大学生で、今年からここで時々ボランティアとして働いている。ある女性から電話を受けたのは1週間前だ。何でも彼女の姉がこの児童館をリノベーションしたそうで、一度伺ってみたいのだという。電話を受けたという縁から、三好が彼女の応対を行うことになったんだった。
 午後2時、待ち合わせの時間ぴったりに女性が現れた。ふくよかな体型で、おそらく脂肪で目元が細まり、常に柔らかな慈愛の笑みを浮かべている風に見える。穏やかな黄土色のコートを身に纏い、雰囲気自体がとても柔らかい。
「あの、三好さんですよね」
「はい、あなたが電話をかけてくださった江滌さん」
「そうです。急に電話をかけたり、お伺いしたりして済みません」
「いえいえ、全然」
 言葉には真に迫った罪悪感が滲んでおり、三好の方が思わず頭を下げそうになる。近くで見るとその笑みには、静かに不動を保つ藻のような侘しさがある。マスク越しにも歓待の笑顔を伺えるよう、誇張して表情筋を動かしながら、その江滌美馬子という女性を中へと案内する。2人はまずさっぱりとした清らかな空気に出迎えられる。三好はこの空気感を皮膚で感じるたび、不思議な気分になる。すぐ近くでは子供たちが、コロナ禍を蹴散らすように遊び、歓声を響かせているのに、ここにはその騒擾を物ともしない清冽さが宿っている。美馬子の方を少し振り返ると、少し目を見開いているように思えた。
 だが数歩歩くとなると、一気呵成に子供たちの大騒ぎが五感へと雪崩こんでくる。彼らの響かせる大声、廊下をドタドタ踏みしだく足音、玩具同士がぶつかりあう鋭い響き。こうして聴覚が激しく刺激されるのはもちろん、目前に広がる廊下や換気のため常に開かれたドアの向こうから、溌剌なエネルギーが網膜に飛びこんでくるのだ。圧倒されながらも、負の感情を抱くことはない。むしろ元気というものが身体を突き抜けていき、憂鬱が晴れるような感覚を味わうのだ。
「あの、江滌さんのお姉さまがリノベーションを行ったとお伺いしましたが……」
 三好がそう尋ねると、彼女は短い自身の髪を愛しげになぜる。
「はい、そうなんです。姉は絢という名前なんですが、彼女は建築家として活動していました。いつもは個人邸や古びた集合住宅の改築を行っていたんですが、ここの館長さんに頼まれて仕事を手掛けたんです。児童館みたいな子供たちが集まる建物を手掛けるのはそれが初めてで、すごく張り切っていたのを覚えてます」
 そう美馬子が話してくれるなか、三好たちの脇を小さな子供たちがバタバタと走り抜けていく。“こら、走らないで”と三好はいつものように言いたくなるが、美馬子の目元がさらに優しく皺深くなるのを見ると、何も言えなくなる。
「子供たちのああいう姿見ていると、何だか嬉しくなりますね。マスクのせいで、あの子の笑顔がちゃんと見れないのが残念ですけど」
 小さくそう呟いた後、美馬子は再び姉について話し始める。
「元々ね、叔母が建築家で、私と姉が住んでいた実家も彼女がリフォームしてくれたんですよ。それで工事にも参加したりして、色々な作業を私たちにやらせてくれたんです。家ってこんな風になってるんだな、家ってこんな風に作るんだな。そういうのを学んで私は建築が好きになったんですけど、姉はもうそれ以上に好きになっちゃったらしくて」
 美馬子はカラカラと笑い声を響かせる。
「建築学科に進学して、ベルギーとスイスにまで建築を勉強しに行ったんですよ。フランス語だってペラペラだったんです、私なんて英語すらロクに喋れませんけどね。それで日本に帰ってきて建築家として活動を始めた訳です」
 三好は少しずれたマスクを元の位置に戻す。
「この児童館の改築を館長さんが姉に頼んだってさっき言いましたけど、元々は叔母に依頼された仕事だったんです。建築家になった後、姉はよりいっそう叔母を慕うようになったんですが、そんな彼女が“この子に任せてほしい”と館長さんを説得して、仕事を姉に託したんです」
 そう聞くと、その采配は正に適材適所だったと三好には思える。この暖かな陽光に満ちた空間では、子供たちが伸び伸びと時間を過ごしているのが端から伝わってくる。皆、本当に楽しそうだ。遊んだり、走ったり、本を読んだり、時には昼寝をしたり。それでも惜しむべきはコロナの感染対策に来訪する人数に制限があることだ。自身はコロナ禍以降にここへとやってきて、以前の状況はよく知らないが、今でも子供たちの活気に満ち満ちているのだから、それはもっと溢れるほどのものだったのだろうと思える。実際館長や先輩たちがその時期について懐かしげに話してくれることがよくある。もう既に、彼女の言葉には“懐かしさ”が宿っていた。
 と、三好の瞳にある少年の姿が映る。2階へと続いていく階段の傍らに、木の優しい香りを纏った柱がある。そこの一部が大きくくりぬかれて、ちょっとした空間ができている。そこに背中でもたれかかり、小さな身体を納めながら、少年が体操座りのままで昼寝をしていたのだ。まるで体操の時間の最中、陽光に照らされるのがあまりに気持ちよくて、白い昼に抱かれて眠りこけてしまったという風に。周りでは思うままに騒ぎながら子供たちが遊んでいるのに、少年だけは静かに、健やかに夢を見ていた。
「あの子、気持ち良さそう」
 美馬子がふとそう言った。
「この建物、ああいう場所が多いんですよね。何て言うのかな、自分の体だけがすっぽり入る余裕というか、余白というか。子供たちがそういうところに1人だけでおさまって、気持ち良さそうに過ごすっていうの、仕事してるとよく見かけるんです。そう、自分だけの秘密基地って感じかな……」
 こうやって話している途中、美馬子が泣き始めるので、三好は驚いてしまう。客間に彼女を連れていき、ティッシュを渡す。顔からは慈愛の雰囲気は消え去り、ただただ藻の侘しさだけが色を増している。
「すみません、すみません」
 美馬子は何度も何度も涙を拭き取り、鼻水をかむ。藻がみるみるうちに赤く染まっていく。
「本当に素敵な人だった。優しかったし、私たちずっと仲良かったんですよ。でも死んでしまった。コロナに罹かって真っ先に死ぬのが彼女なんて想像もしてなかった。一番元気で、体も丈夫で、未来も輝いていたはず」
 ティッシュを持つ彼女の指が震えている。三好はその手を握って震えをとめてあげたいのに、何かがその行動を押し留める。
「家族みんな彼女のことを誇りにしていました。特に叔母は本当に、本当に。だって彼女に影響を受けて建築家になったんですから。いつも姉は感謝してましたし、叔母も彼女を深く愛していました。彼女は子供がいなかったから、姉が娘みたいな存在だったんです。でも叔母よりも先に……」
 “死”という言葉をもはや紡げなくなったかのように、美馬子は口をつぐむ。
「叔母はショックを受けて、急激に体調を崩して、もうほとんど口も聞けない状態になって、今は老人ホームにいます。一度も見舞いに行けたこともないです。職員の方の取り計らいで、Zoom越しに彼女を見舞いましたが、もう完全に私のことも、妹である母のことも思いだせないようでした」
 そう言うと美馬子は俯き、もはや何も言わなくなった。ただ啜り泣く声だけが聞こえる。今、三好に見えるのは、美馬子の短い黒髪に包まれた頭の天頂部だった。三好は背が148cmと小柄で、自分より背の小さい人は少ない。誰かの天頂部を見ることなど殆どない。そして考えてしまうのは彼女のことでなく、自身の家族や友人、自分のことだけだ。それ以外のことを考えることができない。美馬子から視線を外そうと、目を力をこめて閉じながら、首を下へ下へと向け、そして膝に置いていた自分の手を見る。不気味なほど白くて、黄色かった。生命力がほとんど刈り取られたようなゾッとする色彩に、三好は思わず気圧されながら、拳をグッと握り締めようとする。開いては閉じ、開いては閉じ、そこに再び暖かな血が戻ってくることを願う。
「あの、すいません、私、帰ります、ご迷惑かけました」
 ぎこちなく言葉を紡ぐと、美馬子は立ちあがり、部屋を出ていこうとする。引き留めることなどできず、せめて出入口まで送ろうと、一緒に廊下を歩く。だがその途中で、2人の前に少年が現れる。さっき柱の窪みで昼寝をしていた子だ。
「泣かないで。飴あげるから」
 そう言うと、彼はポケットから封に入った飴をいくつか取りだす。三好は少しまずいと思ってしまう。今の時期に、こうした行為はデリケートな問題をはらまざるを得ないからだ。児童館における子供の保護者としてこれに関して思考を急速にめぐらさざるを得ない。そんな自分を厭に思い、そして時代そのものに対し奥歯を噛みしめる。
「ありがとう」
 だが美馬子は素直に少年から飴を受けとると、次々と封を開けて、結局全てを口に入れてしまった。
「おいひいね」
 彼女の笑顔を見ると、少年も笑って、またどこかへと走っていく。
 外に出て、美馬子を見送ろうとする。そこに新しい子供たちがやってきた。1人は車椅子に乗っていたが、入口横のなだらかなスロープから友人たちと喋りながら進んでいき、ドアを開けてもらってから児童館へ入っていく。
「今日は本当にありがとうございました」
 彼女の口から、飴玉のコロコロという音が聞こえる。
「こんな風に子供たちが遊んでるのを見たら、嬉しくなりました。姉もきっと喜んでるでしょうね」
 こう言いながら丁寧に頭を下げると、美馬子は帰っていく。ふくよかで優しさに溢れていた姿が、心細げで、すこぶる脆く見えて、悲しくなった。
 彼女の姿がもう見えなくなった頃、三好は中へ戻ろうとする。だけども何かに導かれるように、建物前の門にまで行って、児童館を改めて眺めてみる。赤ちゃんの肌のような薄いベージュに染まった、こじんまりとしている正方形の箱。ファサードには装飾がほとんど存在せず、そのシンプルさ、純粋さも、やはり赤ちゃんのようだ。しかし2階の窓には子供たちが色紙で作った、笑顔の動物たちがひしめいていて、外を歩いている人々にこっちへ来なよと誘うみたいだ。
 何だかドーナツがたくさんはいった包装箱みたいでかわいいな。
 三好はふとそう思った。すると不思議とお腹が鳴ってしまうので、自分の単純さに笑ってしまう。5時になったらボランティアは終わりだ、自転車で家へと帰ることになる。だけどもそのまま家に向かうんじゃなく、駅に寄って、近くのミスタードーナツで何か買って帰ろう。そして夜にはドーナツを食べながら、レポートを書く。ティム・インゴルドという人類学者の本を読む必要があるが、正直かなり難しい。読んでも内容が全く入ってこないのだ。なのでレポート執筆には時間がかかりそうだ。それでもドーナツに力をもらえれば、今日とは言わずとも書き終えることだってできるはずだ。
「そういえば、私も飴もらっとけば良かったなあ」
 三好はそう呟きながら、児童館へと戻っていく。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。