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コロナウイルス連作短編その139「愛すべき者を持たない」

明日を信じない/いやそれは 期待することと同じか (GLAY『HEAVY GAUGE』)

 それから堤多嘉良は茹でたホウレン草とニンジン、えのきだけを、薄切り豚肉で巻いていく。しょうが焼き用の肉だ。ボリュームがありすぎるきらいがあるが、娘の三千子はこれが好きだった。手前からしっかり前に巻く。自身の手の皮膚が肉の冷たい粘りに侵されていくのを感じる。別にどうでもいい。フライパンにサラダ油を入れ熱した後、肉を置いていく。巻終わりの部分を置くのが重要だ。少し焼き固まってきたなら、菜箸で転がしていく。ジジジという焦熱の音が神経に障る。焼き色をつけたら、味つけをする。しょうゆと酒は大さじ3、砂糖は大さじ2。こうしてできるソースを投入し、肉に絡める。弁当用なら半分に切るべきだ。だが夕食用にはその必要はない。
 料理が終ったので、娘を呼ぶ。部屋で宿題でもしていたらしく、淀んだ息を放出しながら食卓につく。妻の真中はまだ仕事だ、いつものことだ。2人で夕食を食べる。彼女はまず野菜の肉巻きを食べた。うんまあい、彼女はそう言う。少し安堵する。最近、いくら料理を食べても味を感じない。全てが遺灰と同じだ。それでも料理の感覚は悍ましいまでに身体が覚えきっている。家族にはこのことを秘密にしている。
「父さん、私ね、杉のにお弁当作ってあげたい」
 そんなことを娘が言うので、微かに驚く。羅賀杉のは彼女の同性の恋人だ。同じクラスだという。写真を見せてもらったことがある。若い頃の妻に似ていた。唇が黒みがかっていた。
「だ、だから、父さんにも手伝って、ほしい!」
 言葉を1度止めて、勇気を出すように叫ぶ。人工的な日本語の発音法が、鼓膜に引っかかる。
「もちろん、もちろんいいよ」
 自分の発声も劣らず人工的だと思える。
 午後11時に真中が帰ってくる。夕食は外で食べたと言いながら、残った野菜の肉巻きで白飯を貪りはじめる。
「後輩が言ってたけど、友達がデルタ株にボコボコかかってるって」
「そうか」
「ま、私も罹かるのは時間の問題だねえ」
 三千子がヘラヘラしながら、言った。これが今の時代を生きるための戦略だった。虫酸が走る。
「三千子が恋人に弁当作りたいって言ってきたよ」
「ふうん」
「あの子だ、杉のって子。関係が順調そうでよかった」
「名前にひらがな入ってるって、今の時代変じゃない?」
 夜中、悪夢を見た。隕石が降ってきて、世界が破滅する。その姿も、その落下も、その爆裂も、廉いCGでできている風な解像度の荒さだ。しかしそれによって世界は破滅する。子供の多嘉良は窓に両の手のひらを張りつけ、この風景を見ている。最後には彼も撃滅される。
 ふと起きて、三千子の啜り泣く声を聞く。自分には背中を向けていた。彼女の身体を抱きしめ、痩せた手を握る。震えてはいない。

 数日後、三千子と一緒に弁当を作る。ハンバーグを作りたいと言うので、まず前の晩にミニハンバーグを作り置きする。ボウルに合挽き肉と少しの塩を入れ、粘りけが出るまで練り混ぜる。三千子はグエグエ言いながら、肉を練る。彼女はすぐに弱音を吐く、だが子供なのでそれでいい。その間にフライパンで微塵切りにした玉ねぎを炒める。透き通るまで炒めつづけ、最後は取りだして、少し冷ます。そしてこれをボウルに混ぜ、三千子がまた捏ね回していく。十分に練られたら、10等分してから、丸めていく。空気を抜くという目的を、三千子に言い聞かせる。そしてフライパンに再びサラダ油を入れ、強火で熱した後、肉を入れていく。焼き色がつくまで待つ。
「もー、疲れた」
 三千子は掃除などの家事は人並みにこなせるが、料理は全く才能がない。そんな彼女が料理を作りたいと願うのだから、杉のへの愛は相当だと思える。結局はどれも全て不毛だ。焼き色がついたら裏返し、ふたをして弱火にする。
「箸で押して、肉汁が透明になったら完成だ」
 そう言うと、三千子は面白がって箸でハンバーグを刺しまくる。
 完成したら冷蔵庫で保存し、翌日に取り出す。ここに載せるラタトゥイユを朝に作る。三千子は朝が弱い。目の端の脂が汚ならしい。朝には顔すら洗わない。
 にんにくを薄切りにしていく。彼女の手元が危なっかしい。母親に似て下手だ。ナス、ズッキーニ、ピーマンを食べやすい形に切り、オリーブオイルで炒める。完熟トマトを潰しいれ、塩、こしょう、ローリエを加え、煮詰めていく。ボコボコと煮詰まる様を見ているうち、彼女の寝ぼけ眼が開いていく。美しい風景だ。だが無意味だ。

 三千子は学校へ、真中は会社へ行く。多嘉良は菓子パンを食べた後、家で仕事を行う。英語の文芸翻訳だ。ゲイである主人公、彼はブルガリアで英語教師をしながら生活している。この地で彼は己の欲望を相対化し、言葉にしていく。だがそれは分析や観察などでなく、悲劇的な衝動なのだ。読みながら、何の脈絡もなく自殺した友人のことを思いだした。コロナによって自身の事業が打ち砕かれ、失意のうちに己の人生に決着をつけた。もはや特に珍しくもない。だが多嘉良は、自分自身にそれを悲しんでほしかった。右の手のひらを見つめ、震えてほしいと念じる。偽りでもいい。だが震えない。
 多嘉良は自室の奥に隠しておいたウィスキーの小さなボトルを取りだし、少しずつ啜る。神経が滅多刺しにされるなかで、昼食を作り始める。じゃがいも2個を勢いよく千切りにしていく。その間に指を切断したかったが勇気が出ない。ウィスキーを啜る。じゃがいもと、手で千切ったコンビーフを加えていき、さらに塩、黒こしょう、薄力粉を入れて混ぜ合わせていく。フライパンにはサラダ油を大さじ1、多嘉良はウィスキーを啜る。じゃがいもをクロスするように投げいれ、強火で熱する。手を洗ってから、ウィスキーを啜る。ヘラで丸く形を作った後には中火でじっくりと焼いていく。片面に焼き色がつくまで何度かウィスキーを啜った。裏返した後は、オリーブオイルを少し加え、強火でカリッと焼き上げる。
 出来上がったじゃがいものガレットを皿に移して、仕上げに黒こしょうを振っていく。途中で蓋が取れて、大量のこしょうがガレットを覆い尽くした。ウィスキーを飲んでから、多嘉良はそれを頬張っていき、ウィスキーで流しこむ。そのままウィスキーを飲み続け、酩酊が極まっていく。自制が効かない。このまま続いてほしい。だが否応なく我に返る。野菜室からアクエリアスの2Lボトルを取りだし、浴びるように一気飲みする。ワクチンの副作用のため用意していたものだ。とにかく鯨飲する。息をついた時、満タンだった内容量が半分にまで減っているので驚いた。ウィスキーの瓶を自室の奥深くに隠し、翻訳を再開する。

 久しぶりに真中も早く帰ってきたので、3人で夕食をともにした。三千子はおいしそうにサバの味噌煮を頬張っていく。あっという間にたいらげた。昼間、酒を飲んでいたことは誰にもバレない。
「父さん、杉の、すっごくお弁当喜んでくれたよ」
 三千子はそう言いながら、空になった弁当箱を見せてくれた。
 おい、いつも言ってるだろ。帰ってきたら真っ先に弁当箱は台所のシンクに置いて、水に浸けておけって。
 そんな言葉が喉から出かかり、自分でも驚いた。急いでサバを口に放りこむ。
「そりゃ良かった、俺もうれしいよ」
 わざと声色をもごもごさせながら、こういった言葉を発音する。
 夜、多嘉良は真中とセックスを行う。ほとんど前戯はせず、勃起したペニスをヴァギナに挿入する。ゴムは着けない。1年半ほど前から、挿入を行う際にゴムの装着が行われなくなった。理由や動機といったものが欠如している。これは真中が求めていた。ゴムを装着しようとすると、多嘉良に暴力を振るうようになった。射精する際も、ヴァギナ内に射精しなければ錯乱したように彼を傷つける。いつしか抵抗も虚しくなり、多嘉良は言われるがままゴムなしで挿入を行い、そのまま射精する。妊娠したいのか、分からない。だが少なくともここ1年半、真中が妊娠している気配はない。裏で中絶をしている可能性も否定はできないが、結局はどちらでも同じに思えた。この日も正常位で腰を振り続けた後、中で射精を行う。妊娠するかしないか、一種の博打のようだった。今までのところ妊娠していない、それは勝利も敗北も意味していない。
 夜中、いつものように悪夢を見る。今回隕石に潰されるのは友人だった。粉微塵になり跡形も残らないという意味で、電車に轢かれるよりはマシに見える。

 あれから数日間、三千子は弁当を作りたいと言わない。1回だけで疲弊しつくしたか、飽きたかと思う。珍しくはないので、何も言わなかった。だが今日、家に帰ってきた時、見覚えのない弁当箱を三千子が持ってきた。
「これ、杉のの弁当箱。ここに入ってたお弁当、食べたの」
 三千子の唇が腐ったセロリのようにしなる。今日は弁当が要らないと三千子に言われた訳がここで分かる。
「そうか、何が入ってた?」
「えっと鮭とか、さつまいもとか、枝豆とか」
 彼女は携帯で写真を見せてくれた。三千子のよりも見てくれがいい。彼女の方も親に手伝ってもらっているか、もしくは悪くない料理の腕を持つか。
「これからね、1週間に1度、弁当を互いに作るってことにした。先週は私、今週は杉の、それで来週は私って感じでね」
 そう話しながら、三千子は弁当箱をシンクで洗い始める。こう嬉々として食器を洗う彼女の姿を見るのは初めてかもしれない。真中よりはマシだが、洗う際は不満げな表情を隠すことがない。だが今の表情は、愛としか言い様のない輝ける感情に満ちている。そんな三千子を、多嘉良は見つめていた。
 そうか、彼は思った。そうか。
 夜、三千子が寝た後に、真中が帰ってくる。出来合いの夕食を、彼女は適当に口へと突っ込んでいく。妻もまた料理がもはや遺灰を食べているようにしか思えないのかもしれない、多嘉良はそう感じる。それでも空腹と栄養失調はつつがなく遂行される、ゆえに食事は行わなくてはならない。
 多嘉良は弁当について真中に話した。彼女は「ふうん」としか言わなかった。何を言っても「ふうん」という言葉のみを発する。
「病院行けよ」
 多嘉良は言った。
「お前、完全に頭おかしくなってんだよ。病院行けよ」
 真中は何も言わない。代わりに箸を壁へ投げつける。

 多嘉良と三千子は弁当に入れるためのサラダを作る。キャベツを細かく、1cm角に切っていく。三千子の手捌きが少しずつ練熟したものになっているのを、そのリズムから感じる。未だ不揃いになるが、その度合いも許容範囲だ。それを横目で見ながら、多嘉良はじゃがいもを洗い、それをラップで包んだ後、電子レンジで加熱を始める。
「杉のはね、結構野菜が好き」
 三千子が口をモゴモゴさせながら、そう言う。
「肉も好きだけど、野菜の方が好き。じゃがいもとかモリモリ食べるって。家ではバターとチューブのにんにくとかいっぱいつけて“喰らう”って」
「ライオンがシマウマの肉を“喰らう”」
「たぶん、そんな感じ」
 レンジからじゃがいもを取りだし、冷ましながら皮を向き、これも1cm角に切っていく。
「熱くないの?」
 驚嘆といった風に三千子が声をかけてくる。特に熱くない、これは異常なのかと少し多嘉良は訝しむ。これは異常なのか?
 多嘉良がプチトマトを4等分、らっきょうを薄切りにする一方で、三千代は汁気をきったヨーグルトに醤油を混ぜいれ、それでじゃがいもの欠片たちを和えていく。弁当にそれぞれを盛りつけていくのは、三千代に任せる。その間に三千代は再び杉のについて話していた。90年代の邦楽ロックが好きで、古本屋でCDを買い集めるのが趣味だという。最初は普通に聞いていたが、ふと三千代も杉のも90年代には生まれていないことに気づく。Spotifyの時代に、俺たちの文化はもう、中古屋で眠ってる骨董品な訳だな。実家には当時買った大量のCDが埃を被っている、もしくは母親によって全て廃棄されたか。
 杉のについて喋る三千子はとても楽しそうだった。それを冷ややかな視線で見つめている自分に、多嘉良は気づいている。感覚が麻痺している、脳髄の一部分が既に摘出されているようだった。
 
 ウィスキーを肉体に注ぎながら作品を翻訳する。アルコールによって推進力が増し、仕事が異様な速度で捌ける。酩酊はその精度を落とすとしか思えないが、後に素面で見返そうとも際立った間違いは見られない。編集者にも仕事の速さを驚かれ、訳の精度に関しても質の低下を指摘されるなどはない。お墨付きをもらえたとでもいう風に、多嘉良は酒を飲む。泥酔までは行かない、吐き気までは行かない。その前で必ず、絶対にブレーキがかかり、自動的に肉体がアクエリアスを鯨飲し、均衡は取り戻される。
 休憩中、多嘉良はリビングのテーブルに置いてあった『堤中納言物語』を読む。三千子が古典の授業についていくため、図書館で借りてきた文庫本らしい。いわゆるアンソロジー形式の短編集で、平安時代に広がる情景をそれぞれの作家たちが記している。中に『ほどほどの懸想』という作品があった。男と女が恋をする、男と女が恋をする、男と女が恋をする。平安時代の階級差を背景とした3つの恋が描かれる。だが最後の恋、中将と姫という最も高貴な階級における恋愛はほぼ描写が成されず、それが実ったという結果のみが描かれる。だが中将は愛の成就を嘆き、彼が憂鬱に苛まれたまま物語は終る。奇妙だ、奇妙だった。心がざわついた。それは愛が成就するというのは絶望以外の何物でもないと語るようだった。その時点で全てが終わりだと。
 翻訳を行う、夕食を作る、テレビを見る。頭が痛い、多嘉良は早く眠ろうとする。だが昼に読んだあの物語が、心において蟠り、腐り、悪臭を放つ。眠れない。身勝手な人間だ、多嘉良は思う、クソほどに身勝手な人間だ。遠くから騒音が聞こえる。真中が仕事から帰ってきたらしい。彼女は寝室にやってくると、多嘉良へ猛烈にキスをする。酒臭い、明らかに酔っていた。そのまま多嘉良の服を脱がそうとし、露出したぺニスを指や唇で刺激する。ぺニスは彼の意思に関わらず勃起した。
「止めろ、止めろ」
 そう言うが、真中は自身のヴァギナにぺニスを収納し、騎乗位を始めた。全身から汗が吹き出るのを感じた。恐怖を感じた、怒りを感じた。真中の首に手を伸ばし、締める。動きが緩慢になったところで、逆に彼女を押し倒し、ぺニスを引き抜く。馬乗りになって、真中の乳房にぺニスを挟む。口でも乳房でもどちらでも良かったが、口はぺニスを噛み切られる恐れがあった。乳房を鷲掴みにしながら、腰を振り、射精する。真中の首筋が精液でベトベトになる。
 この日は悪夢を見ない。
 翌日起きると、隣に真中はいない。リビングに行く。テーブルに“さようなら”と書かれたメモがある。そうかと多嘉良は思う、だがその後に言葉が続かない。
 椅子に座っていると、三千代がリビングにやってくる。メモを見た後に、多嘉良の横に座る。
「パパとママ、仲悪いの分かってたよ」
 三千代は言った。その声が真中に似ていて、気味が悪い。


 多嘉良は携帯を眺める。液晶には幾つもの弁当の写真が並んでいる。笑顔の描かれたミニおにぎり、桜の花びら型に整えられたにんじん、弁当箱からはみ出したレタス、みちみちのナポリタン。海苔弁当、和風弁当、運動会にでも持っていくような箱の集合体。それらを見ているだけで、三千代の料理の腕が上達していっているのが容易に伺える。
 そして上達に比例して、三千代の元気は失われていく。杉のの心が彼女から離れていっているのだと多嘉良は理解する。愛を犠牲にして、弁当はどんどん美しくなる。
 その日、三千代は家に弁当箱を持って帰ってくる、杉ののものだろう。久しぶりのことだと多嘉良は思った。三千代はシンクで弁当箱を洗うが、前までの優しさはない。弁当箱を愛おしく思う気持ちは失われていた。洗い方はただただ雑だ。そういうものだ、多嘉良はそう思った、そういうものだ。そういうものだと思いたくない、多嘉良はそう思い、深く苛ついた。
 夢を見る。ドーム会場に人が犇めいている。天井は清々しく開け放たれ、太陽光が人々を祝福する。ここではロックバンドのコンサートが行われ、多嘉良は来場客の1人だった。隣には真中がいた、とても若い。これはGLAYの10万人ライブだと多嘉良は納得が行く。実際には行ったことがない、ただニュースで見ただけだ。もうこれほどにひしめく熱狂は実現しないだろう、この確信は個人的なものであり、社会的なものでもある。そして隕石が落下し、10万人全てが死滅する。
 数日後、三千代がコロナウイルスのワクチンを打つ。2日目には予想通り副作用でベッドに伏せる。用意は万端だったので、多嘉良が彼女を看病する。その手は冷たい。
「杉のが来るかも」
 三千代がそう言った。午後には実際に家へやってきた。実際に見ると、杉のはそれほど真中には似ていない。唇は不気味なほど黒い。少し挨拶をした後には、多嘉良は部屋に籠って、翻訳を行う。だが程なく喚き声が聞こえ始める。部屋の壁や鼓膜を削りとるような不愉快な響きだった。止めろ、そう叫びたい。だが最後に真中に言った言葉もそうであることに気づき、黙る。
 深夜、茶を飲もうとリビングに行くと、台所に立ちながら、三千代がカップラーメンを食べていた。こっちに気づくと最初は驚くが、すぐに食事に戻る。ずずずと、啜音を響かせる。多嘉良もカップラーメンを食べようとするが、もうなかった。彼女の隣に立ち、茶を飲む。啜音が聞こえる。途中から三千代が泣き始めた。肩を抱き締めようとするが、拒絶される。
 夢の中ではいつものように隕石が降ってきて、世界が破滅する。今日は初めて三千代が現れて、隕石に押し潰された。


 朝、起きる。洗面所で顔を洗い、リビングに向かう。キッチンで朝食を作ろうとする。だがしばらく立ったまま動けなかった。このまま動けなければいい、多嘉良は思った、このまま死ね。だがふとした瞬間、シシャモの中華風カレーマリネが食べたいと思った。前にネットサイトでそのレシピを見たのだ。そう思うと自然に体が動いてた。携帯でレシピを検索し、冷蔵庫に具材がほぼ揃っているのを確認する。
 まずししゃもを魚焼きグリルに規則正しく並べ、焼いていく。その様子を観察しながら、手は包丁を持ち、玉ねぎを半個薄切りに、ニラは4cm幅で切っていく。玉ねぎを切るより、ニラを切る方が好みだ。裁断される瞬間の響きが爽やかだからだ。そしてフライパンに胡麻油、しょうが、にんにく、玉ねぎを入れ炒める。ししゃもが好い具合でこんがりと焼けている。玉ねぎが香ばしげな半透明を浮かべたら、そこにニラを加えて、また軽く炒めていく。この行程が終わった後、水とお酢、醤油、砂糖、そしてカレー粉を混ぜ合わせ、そこにししゃもと野菜を投入する。満たされた容器を見つめながら、多嘉良は思った。
 自殺することはないだろう、俺自身が俺自身の息の根を止めることはありえないんだ。
 多嘉良は1本のししゃもを手に取り、頭から喰らう。
 俺にはその勇気がない。
 リビングに三千代がやってくる。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。