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コロナウイルス連作短編その187「南の猿」

 宮根坂南はファミリーマートでアイスを買おうとする。
 いつもとは何か別のアイスを買おうとブースに視線を向ける。爽やガリガリ君といったお馴染みの商品に、期間限定らしき見覚えない商品もある。だが最後には彼女の目はミントアイスに惹きつけられてしまう。
 あの独特の青、もはやチョコミントブルーとしか言い様のない爽やかな青。それに彩られたパッケージを見るだけで、口にあの爽快なる冷気が弾けていく。だが彼女の好きなミントアイスは通り一遍の四角張ったものではなく、両面からチョコクッキーに挟まれたミントアイスだ。更にアイスのなかにはチョコチップまでふんだんに入っている。見ているだけで様々な感覚が口に甦る。
 結局南はミントアイスを手に取る。
 つまんない人間だな。南はそう自嘲しながらも、結局ミントアイスの美味しさには屈する平凡な自分を悪くないと思っている。

 だが今日、彼女は新しい試みを成そうとしている。ポケットから取り出すのは新品のスマートフォン、1週間前に買い換えたばかりだ。彼女は覚束ない指捌きでロックを解除し、大量に並んだアプリの中からau PAYアプリを開く。すると残高10000円という記載とともにバーコード表示が現れる。
 南は生まれて初めて、アプリで支払いを行おうとしていた。キャッシュレス、頭にそんな言葉が妙な生々しさを以て浮かびあがる。
 いや、クレカで支払うのもキャッシュレス決済って言うんだっけ、それだったら初めてのキャッシュレス決済とかじゃないな、えっ、でも何かそれはキャッシュレス決済って言わないとかも聞いたことあるような、えっと……
 様々な思いが現れては消えていくが、その思念のどれもが武骨でぎこちないもののように南には思える。彼女は基本的に科学技術、特に最新のテクノロジーというものに興味がない。本を読むにしろ紙の本の物理性を尊び、電子書籍は一切読まない。何かを書くにしろメモ帳にシャープペンシルというのを固持し、スマートフォンのメモ帳は一度も使ったことがない。
 アナログであるのは南自身の気質でもあるが、これを加速させたのが姉の亜紀子だった。彼女は生来のミーハー気質であり、最新テクノロジーには目がない。昔からYoutube、Facebook、Instagramといった流行に、今においてはVRゲーム、メタバース、VTuber、NFTといったものには躊躇なく飛びついていく。その狂騒が個人で完結していればまだしも、常に家族を巻きこもうとしていたのが南の悩みの種だった。
 数年前まで実家で亜紀子と一緒に住んでいたが、その時は事あるごとに自身の嵌まっている何らかのテクノロジーを薦められた。南が白けたような顔で拒否すると彼女は“時代遅れ”の烙印を押してくる。それに反感を抱き、嫌々ながらそれを試してみるが殆どの場合、南には使いこなせない。すると亜紀子は南を鼻で笑いながら、お手本を見せる体で自分がいかにそのテクノロジーを使いこなしているかを見せつける。反感はさらに増しながら、それよりも大きくなるのは湿った劣等感だ。首の後ろをベロベロと舐められて、最後には耐えきれなくなり、南はテクノロジーに背を向ける。
 私の人生、そんな言葉にはいつであってもこの不愉快なイメージがつきまとう。

 ソワソワしながらレジへ行き、南は商品を手渡した。店員は機械的にそれを受け取り、バーコードで値段を読み取る。その挙動から予想以上に高速で、南は焦ってしまう。
「あっ、えーっと……」
 そんな煮え切らない言葉が唇の隙間からまろびでる。出だしから無様だ。首筋をあの亡霊に舐められているのを確かに感じる。そして口のなかから粘った涎が溢れでてくる。自分という存在が結局は粘着質の肉であることをまざまざと思い知らされる。
「au PAY……で、支払えますか?」
 言葉が一瞬詰まったのも恥ずかしいが、“au PAYで支払えますか”は日本語の文法として不自然ではないか?という疑念に曝される。“au PAYで支払いはできますか?”の方が表現として違和感がないのではないか?
「はい、できますよ」
 店員の言葉は冷ややかで、マニュアル通りに発言しているという印象が拭えない。本来ならばそれ以上を求めるべきではないと分かりながら、今の南にはことさら酷薄に響いた。そして“自分のなかでは酷薄に響いている”と意識すると、思念はその方向へと劇的に傾いていく。
 いや、そういうのみんな普通にやってますし、むしろ何でできないかもしれないとあなたが思っているのが理解できないんですが?
 あの冷ややかな頭蓋の裏側で、店員はこういう風に思っているのではないか?
「アンタってアウストラロピテクスみたいなもんだよねえ」
 姉は時々、南にそんな言葉を投げ掛けてきた。
 そしてある時、南はGoogleを使って調べた。
 アウストラロピテクス、400万年前に生きていたという世界最古の化石人類の1種。身長は120cmから140cmほど、体は野太い毛に覆われている。面長、つぶらな瞳、横に延びた口。特に鼻周りは特徴的だ。鼻自体は控えめな小ささでありながらも、それに比して鼻穴は巨大であり、かつ鼻と口に極端な隔たりがある。つまり鼻の下が凄まじく長い。“猿人”という言葉からはその生物はどちらかと言えばヒト寄りの印象を受けるが、実際はほとんど猿だ。南の目からはチンパンジーと変わっているところがあまりない。
「ねえ、知ってる?」
 先の言葉の後、亜紀子はいつもこう続けた。
「アウストラロピテクスって“南の猿”って意味らしいよ」
 南がスマートフォンを見ると、電源がオフになっている。すぐさま起動させるが、またロックを解除する必要がある。彼女は画面の点に従いNを描こうとする。
 うまく行かない。
 口はえげつないほど湿りながら、指先は完全に乾いてしまっている。
 後ろを向くと、工事現場の作業員らしき人々が並んでいる。塵埃や塗料で汚れた作業服で彼らの身分は一瞬で分かる、近くで自動車販売店が改装工事をしていた。
 そんなことは滑らかに思いつきながらも、指はうまく動かない。
「ははは、すいません。実はこういうの初めてで……」
 言い訳するように、南はそう口に出していた。
 もはや敗北と同じだった。
 何とかロックが解除される。またスタート画面が表示される。急いでau PAYアプリを開き、またあのバーコードが現れる。それを店員に見せると、彼女はすぐさまそれを読みこみ、ピッという音とともに支払いが終わり、横のレジからレシートが出てくる。
「ありがとうございました」
 店員がそう言う。
 これで終わり?
 あまりの呆気なさに南は愕然とした。今までの自分の不安や当惑は一体何だったのかと思わされるほどだった。自分は正にホモ・サピエンスの間に放りだされたアウストラロピテクスのようだった。
「いや、ホモ・サピエンスって言葉古いから」
 亜紀子の声だ。そうだ、彼女はこうも言っていた。
「私たちはホモ・デジタリスなんだからね」

 外に出る。夕方だが、暑さも湿気も殺人的だ。
 死にたくなる前に世界に殺されそうだった。
 南はそのなかをしばらく歩く。恥に首筋を舐められる感覚も不愉快だが、こうして物理的に湿気に身体中を舐められるのはさらに不愉快だった。早くクーラーが強烈に効いている部屋に帰りたい。
 前に目を向けるとチラホラと街灯がつき始めている。紫がかった橙の空と地と空の狭間で硬質な白を輝かせる街灯の群れ、2つの兼ね合いは意外なほどに悪くない。
 南が少しだけ見とれていると、突然全ての街灯が消えた。一瞬の出来事に驚き、目を擦ってからもう1度前を見るが、やはり街灯が消えている。停電だろうかと狼狽していると、また街灯がついた。よく事態が理解できないが、街灯はつき続けている。おそらく気にしない方がいいのだろう。
 それでも南は考えざるを得ない。部屋にいる時は常にクーラーをつけている。そうでないとこの暑さと湿気が不快に過ぎるからだ。停電でそれがつけられなくなったとする。1日なら我慢できるだろう。だが2日3日とこの状態が続くとするなら……少しゾッとする。
 だがこれ以上考えるのは止め、南はミントアイスを食べようと思う。部屋に帰るまで残しておくつもりだったが、胸に溜まる瘴気を消したくて仕様がない。封を開けて現れるチョコクッキーとミントアイス、これだけでも美しい。間髪入れずに口に入れ、歯で豪快に砕きながら喰らう。
 旨い。
 チョコクッキーの少し苦みの効いた、引き締まった甘味がまず舌へと握られた拳のようにのしかかる。重さを感じる旨さだ。そしてその奥からミントの自暴自棄なまでにスカッと爽やかなあの感覚が込みあげてくる。ミントアイスを喰らう時の醍醐味こそが、この暴力的な爽やかさだった。これに口内を蹂躙されるのは、もはや快感だった。堪らない。

 南は1本の街灯に行き当たる。先に消えていたものの1本だ。少し視線を向けると、薄汚れた灰色が目に入る。その汚れにもある種の濃淡があり、この表面を広げて壁に飾るなら現代絵画として美術館に飾られてもおかしくないと、不思議に思えた。
 と、彼女は視点の少し下にある黒い何かに気づく。目を凝らすと、それが黒い小さな四角の集合体であることが分かった。QRコードだ。バーコードは素朴に感じられる一方、こちらは石の下で冬眠する無数のてんとう虫を彷彿とさせ、不気味だった。そういえば時おり謎のQRコードが道端、例えば壁や電柱に貼られているのを見掛けたことがあった。
 少し、好奇心を抱く。今、自分が持っている携帯でこのQRコードを読み込んでみたなら、一体何が起こるだろう。もしかするとダークウェブと呼ばれる危険なサイトに繋がるかもしれない。「相棒」か何かでそんな場面を観たような気がする。
 そんなの他愛ない陰謀論だ。そんな言葉が、好奇心へ冷や水を引っかけるように頭に響く。だが敢えて危険を承知で、馬鹿をやってみせたい。南はそんな衝動に突き動かされる。背中がゾワゾワし、鳥肌が立つのを確かに感じている。
 南は読み取り用のアプリを起動する。画面には彼女が見ているのと同じような風景が広がっているが、画素はかなり粗い。自分の視神経の方が携帯のカメラより優れていると思うと、悪くない気分だ。生唾を呑みこみながら携帯を動かしていくと、画面に街灯が写りこむ。粗い粒子のなかで、むしろその灰燼の彩りは荘厳さを増しており違和感を抱いた。
 何か厭な予感がした。
 だが手は携帯のカメラにQRコードを捉えさせようと動いている。そしてそれはQRコードの端を捉えた。腕を引っ込めようと思ったが遅い。画面にQRコードが大写しになり、何かを読みこんだ。そしてリンクが出てくる。文字列で何かを判断することなどできるはずがない。ここで戻るを押せば何も起こることはない、南はそう思った。
「アウストラロピテクスって“南の猿”って意味らしいよ」
 亜紀子のニヤついた表情が思い浮かぶ。
 瞬間にリンクをクリックしていた。携帯はQRコードを読み取る。
 突如、音楽が大音量で流れ始めた。
 だが不気味なものではない。クラシックのようだ。
 幾重にも重なった男たちの荘厳な声が鼓膜を揺らし始める。
 それは水晶のように清らかでありながら、透明な毒ガスのような不穏さも宿している。
 だからこそ美しかった。
 驚きのなかで南は聞き惚れる。
 一体何なのか、この曲は。それは南の認識を越えたものに思える。
 そして曲はあっという間に終った。心が洗われたような清々しい気分だ。
 画面に下方向の矢印が小さく描かれている。
 それをクリックするなら、いとも容易くダウンロードすることができた。
 素晴らしい時代だった。

 奇妙ながらまたとない出会いに少しばかり感動を覚えながら、道を歩く。
 だがこの曲の詳細が一切分からない。Googleで“曲 分からない 検索”と検索すると、正にGoogleアプリで曲検索が可能というのを知った。南は早速、アプリを通じて曲を再生し詳細を見ようとする。
 Googleの検索結果が画面に浮かびあがった。
 “俺の尻をなめろ - Wikipedia”
 意味が分からず、思わずマスク内で吹き出してしまう。ページをクリックすると、こんな文章が現れた。

“『俺の尻をなめろ』(おれのしりをなめろ)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したカノン形式の声楽曲。1782年にウィーンで作曲された。歌詞はドイツ語。6声の『俺の尻をなめろ』(Leck mich im Arsch) K.231 (382c) と3声の『俺の尻をなめろ、きれいにきれいにね』(Leck mir den Arsch fein recht schön sauber) [1] K.233 (382d) の2曲がある。ただし、後者は別人作とされている[2][3]。”

 読んでいるうちに笑いは吐き気に変わっていく。ページにYoutubeへのリンクが貼られていたので、南は急いでそこに飛んだ。
 流れてきた曲は先に聞いた曲だった。
 南は携帯を握る自分の右手が震えているのに気づいた。止めることができない。その奥から、ははは、はははと笑い声が聞こえてくる。それは確かに姉のものだった。もし、今ここで“宮根坂亜紀子”という名をGoogleで検索するなら、去年が彼女が設立した建築事務所のホームページが出てくるだろう。デザイナーでもある故に、潔癖的な白を基調としたサイトデザインは洗練と実用性を兼ね備えている。そしてメニュー欄からProjectをクリックするなら、彼女が進める計画の一端を知ることができる。その中に、メタバースでの建築計画だった。仮想空間上の土地に、仮想の建築を打ち立てるのだ。そこにはもちろんだが、仮想通貨NFTも関わっていた。
 虫酸の走るままに、南は携帯を地面に叩きつける。
 だがシリコンケースのおかげで携帯には傷1つ刻まれることはない。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。