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「クソ喰らえ、クローン病!」第16話~外を、歩く

「クソ喰らえ、クローン病!」前話はこちらから

 その時が来た。俺の元に図書館からメールが来たんだ、予約した本が来たと。そうだ、俺が外に出る時が来たんだ。
 クローン病になって体調が酷くなった後、少なくとも3月以降は病院への通院以外で外へ出ることはできず、陰鬱な引きこもり生活を続けていた。下痢と腹痛の存在は勿論だが、関節痛や脆くなった精神状態もあって外へ出ることができない、その勇気がなかった。でも出る時が来たんだよ。
 ベッドの上で何かソワソワしてしまうのは、心は何とか前へ進もうとしながら肉体が言うことを聞かないのでは?と思わされるからだ。臆病を丸出しで、しばらくベッドから動けずにいた。でも、何が直接のきっかけは忘れたが、俺は立った。部屋を出て、階段を下り、ジャンパーを着て、玄関で靴を履く。先の臆病さに反して意外なまでに逡巡することないまま、俺は玄関ドアを開く。そうして家を出たんだ。

 太陽が眩しくて一瞬気圧されながらも、俺は進んでいく。歩みは肉体の劇的衰弱を如実に示すかのように、鈍重だ。だがその遅々たる進みのなかで、俺は周りの風景を見ていた。コロナで厳戒態勢の老人ホーム、散歩をする鮮烈な紫髪の老婦人、少年の広場と呼ばれる中規模の広場、そして小学生の頃に野グソをした駐車場(これに関しては第2話を読んでくれ)何も変わってはいなかった。大袈裟か、別に1年10年外に出てなかった訳じゃない、俺の場合はたった1か月だ。だが俺は確かに、自分自身の精神と肉体が完膚なきまでに変貌を遂げているのを感じていたんだ。変わらない風景が、この厳しい事実を突きつける。悲しかった。
 そんな俺を慰めてくれたのはSpotifyで聞いていたMaJLoというポーランド・グダンスクを拠点とするSSWのアルバム"Vestiges: The Scenes"だった。彼の歌は優しい、夕焼けに包まれる野原を彷彿とさせる風通しのよい響きが宿っている。それがポップとバラードの旋律のあわいで、しなやかに揺れているのだ。タイトルの"The Scenes"が示すように、このアルバムは大地に広がる風景の数々を響きへ翻訳したような作品だ。だから散歩している時に聞くにはうってつけだった。彼の歌声は、俺の静かに動揺する心を優しく撫でてくれたんだ。
 そのうち行き当たるのはある畑だ。その畑は何故か住宅街のド真ん中かつ、巨大なマンションの麓に位置している。俺が物心ついた時からこれは存在しているんだ。近くの駅へ向かう際にはいつでも通るので、数えきれないここを横切っている。ここを通るたび、クソとネギの匂いが大胆に混ざりあった匂いを感じる。鼻の粘膜を鮫肌で擦られるみたいに強烈だよ。でも一切不快になったことはない。むしろ不思議だが、心に寄り沿ってくれるような鷹揚さすら感じる。これからも俺はこの畑を横切り続けるのだろう。
 歩き続けていると、巨大な病院に行く前に通院していた個人病院が近くなる。ここで血液検査をしてもらわず、医師に異変を見つけられることもなければ、俺はマジで取返しのつかないことになっていたかもしれない。ゾッとするね。そして俺は母親と一緒にこの病院へ行っていた時のことを思いだす。2人で歩くんだけど、母親の歩みは俺よりも断然早くて距離が見る間に離れていく、だから彼女は速度を落としてくれていた。昔は俺が早すぎて、歩みを遅くしたり、時々は歩みを止めることだってあったのにだ。確か、母親をおぶったら体重がすごく軽くて彼女の老いを実感し悲しくなった、みたいな俳句だか短歌を読んだことがある気がする。だが俺の場合は状況が逆だった。親はまだまだ元気だが、子供の方がその肉体も精神もどんどん衰弱していってる。

 10分くらい歩き続けて、駅に着いた。ここもやはり変わらずにいる。笑えるほど閑散としているけども、コロナのせいじゃあない。そもそもの話、ここは人が少ないんだ。地下鉄に乗れば東京へは10数分で行ける距離にある町だが、何故か開発が進まずにいつしか陸の孤島状態になった。マックや牛丼屋はない。だがパチンコ屋は3つあり、歯科医は5つある。奇妙な場所だ、しかし割と心地がいい。
 近くのファミリーマートに行ったのは、もう本当に自然と足を踏み入れてたって感じなんだ。多分、この先どうなるかは読者も予想できるだろうが、一応書かせてもらうよ。前は用がなくても暇潰しに入ってポテトチップスとかアイスとか買ったりしてたよ。だがクローン病診断後にここへ初めて来て、失われた可能性の多さに圧倒される。好き勝手に喰らうことのできるものが一気に減ったんだ。海苔が割と危ういからおにぎり全般、それからカップラーメンやチョコレートは当然として、前に買っていたポテトチップスやコーラも論外だ。以前の俺にとってコンビニは極彩色の世界だった。今や驚くほど色褪せた。
 先の文章に反するようだが、俺がしばらく立ちずさんでいた場所はおにぎりブースの前だった。いや本当に海苔は消化が良くないので、大腸の肉壁にカビのごとく纏わりつき炎症を悪くする可能性があった。でもコンビニおにぎりの、あの海苔の鮮烈なまでにパリパリした感触が俺の口のなかでバミューダ・トライアングルの嵐さながら荒れ狂うんだよ。"おい、そうは言っても1個くらいならいけるだろ"とか"いや、マジで大腸の調子悪くなるかもしれないし"とかいう思いの間で引き裂かれる。でもある瞬間にカルビ入りのおにぎりが視界に入った。"ああ、もう喰いてえ!"とそれを掴んでたよ。そしておにぎりを買った俺はファミリーマートを出た。だがその入口でしばらく立ち尽くした。躊躇いと罪悪感が俺の身体を包んでいたんだ。そして最後にはおにぎりを鞄に閉まってしまった。

 という訳で図書館に行った。ここは本当に小さい、朽ちた図書館だった。小学校の頃はよく行ってたけど、最近は歩いて20分のもっとデカい図書館へ行ってたからご無沙汰だった。中に入ると饐えたような匂いに鼻を擽られ、何だか懐かしく思える。大量の本に囲まれる感覚も久し振りで、それはいつだって素晴らしいものだった。俺は受付へ行き、図書カードを出す。女性が予約した8冊の本を出してくれる。

日野啓三「夢の島」
李良枝「由煕 ナビ・タリョン」
庄野潤三「世をへだてて」
安部公房「けものたちは故郷をめざす」
武田麟太郎「日本三文オペラ」
平沢計七「一人と千三百人 二人の中尉」
小沼丹「小さな手袋」
カリ・ファハルド=アンスタイン「サブリナとコリーナ」

 今は文学、特に日本文学というやつを読みたかった、実際は海外文学の方が好きなんだがね。
「多いですねえ」
 女性がそう言ったのでちょっと恥ずかしかったけど、何だか嬉しくもあった。まあ確かに8冊は借りすぎかもしれない。だがクローン病の苦しみ、少なくともベッド上での生活は結構続くだろうから、多いに越したことはないだろう。
 鞄に8冊を入れて歩きだすと、本の重みが巨大な鉛玉みたいに肩へずっしりと圧しかかる。最初"俺、これくらいすら運べないかも"と自分でも驚くほど恐怖を感じたよ。膝の関節も痛んで、少し前のトラウマが再発しそうになる。そんな状況でも一歩一歩を必死に踏みしめていくごとに、重みが肉体に少しずつ馴染んでいくのを感じた。まだ本調子ではないし、そこに戻れることは一生ないかもしれない。だが俺はまだ大丈夫、まだ大丈夫だった。
 外をしばらく歩いて重さもそこまで辛くなくなってきた頃、おにぎりを取り出した。少し見つめてから封を開け、間髪入れずに喰らった。旨いんだよな、これが。海苔の快活なまでのパリパリ感触が泣けてくるし、カルビの控えめで甘やかな膨らみにも興奮させられた。久しぶりに喰ったからゆっくり味わったと読者は思うかもしれないが、俺はもう掃除機で急速吸引するみたいに貪った。今の俺は自身の肉体に、いわゆる空腹とは全く異なる飢餓感のようなものが宿っていると感じる。凶暴なその欲動に突き動かされたんだよ。おにぎりは1分くらいで消えた、侘しかった。
 帰り道を行く感覚は悪くない。午後の太陽が何だか懐かしくて、日差しは頬を包んでくれるようだった。あれだな、いわゆる何気ない日常のなかに宿る幸せってやつだな。多分これから俺はこういうささやかな幸福感を搔きあつめながら何とかこの辛い現実を生きていくことになるんだろう。どこまで行けるかは俺にも分からない。

 家に着いて、玄関に座った。すこぶる深い疲労感を抱きながらも、やっぱり悪くはないんだ。タブレットを見たら、ボスニア人の友人であるArman Fatic アルマン・ファティチから"調子どうだよ?"というメッセージが届いていた。
 "もちろんクソみたいな気分だわな"
 アルマンは"LOL"って送ってきた。近況を聞いてみる。彼は最近スロヴェニアからオーストリアに引っ越して、ウィーン大学で哲学を学んでいる。今はその傍ら映画製作会社でのインターンをこなし、更にはボスニア語で執筆した小説を出版するらしかった。アルマンとは同い年だ。彼はヨーロッパを股にかけて人生を謳歌し、俺は近くの図書館へ行くだけでも濃厚な疲労感に苛まれる。これが人生ってやつらしかった。
 けど本当にこれが人生ってやつなのか?

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【済藤鉄腸のすぐに使わざるを得ないルーマニア語講座その15】
Când mă plimbam afără, am găsit că exista un rahat pe drum, care nu era al câinelui, dar al umanului. Asta era atât de frumos încât spontan am făcut o poză de asta.
クンド・マ・プリンバム・アファラ、アム・ガシト・カ・エギスタ・ウン・ラハト・ペ・ドルム、カレ・ヌ・エラ・アル・クイネルイ、ダル・アル・ウマヌルイ。アスタ・エラ・アトゥット・デ・フルモス・ウンクット・スポンタン・アム・ファクト・オ・ポザ・デ・アスタ。

(散歩をしている時、道に野グソが落ちているのを見つけました。犬のではなく、人間の野グソでした。とても綺麗で、思わず写真を撮ってしまいました)

☆ワンポイントアドバイス☆
冒頭の"când"は"~する時"という意味のルーマニア語で、頻出単語なので覚えておいて損はなし。基本的に使い方は英語の"when"と同じだね。"Am găsit că"の基本形は"A găsi că"で"~というのに気づく、~というのが分かる"って意味で、ルーマニア語作文でこれもかなり使えるぞ。第2回で作者は小学生の頃に駐車場で野グソをした思い出を甘やかな郷愁とともに書いている訳だけども、今はそれを偶然見つけてしまった人の心に思いを馳せているよ。この文章のように、路上へまろびでた野グソを美しいと思ってくれていたら嬉しいな。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。