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「クソ喰らえ、クローン病!」第2話~俺のクソはデカくて硬かった

 「クソ喰らえ、クローン病!」前話はこちらから

 クローン病に罹る前、俺のクソはデカくて硬かった。別に健康的なものだったと主張したい訳じゃあない。俺は相当の偏食家で(おそらくこれは自閉症スペクトラム障害に起因する)野菜や果物がほとんど食べれず、代わりに肉ばかり食べていたから、そのクソは"不健康なまでに"デカくて硬かった。ケツの肉を圧迫し、切り裂き、切れ痔を生みだすほどに。だが今振り返る、便器の底に溜まった水から突き出たクソを、俺の身体にはついぞ宿ることがなかった隆起する筋肉のごときクソを。俺はそれに質実剛健という言葉を贈りたくなる。
 だが今のクソはどうだ。常にうねるような腹痛に晒された挙句、強烈な波動がやってきてトイレに駆けこむ。ドゥルドゥルと震えながら、関節痛が疼く右の膝を擦りながら、ケツ穴からクソを垂れ流す。そのクソは完全に下痢便で、形がない。黄土色の水なのだ。細やかな結晶のような滓がなければ、尿と変わりがない。便器の底はさながら小雨が降った後の校庭に現れる、茶色い泥水に満たされた小さな水溜まりだ。好奇心まみれの小学生ですら興味を持つことはない。侘しく残されるだけだ。
 これを見るたび、昔のクソとのあまりの違いに愕然とさせられる。無数の炎症で傷ついた腸から噴出される惨めなクソ。その悲惨さには、脳髄に残ったデカくて硬いクソの記憶を印刷して、目睫の光景と比べたいという薄笑いの欲望すら催す。思春期の少年と老年期の耄碌爺、それほど劇的な違いがある。俺は1日5-7回下痢をするから、その度にこの事実をまざまざと見せつけられる。時おり、俺の前にニコラス・ケイジが現れる。最近日本人女性と結婚して幸せな、ニコラス・ケイジ。酷薄な黒のスーツを整えてから、開かれた股の間を覗きこんだ後、俺に言うんだ。
 この便器のどこにクソがあるっていうんだ、クソ頭?
 こうしてクソに思いを馳せるたび、頭に浮かぶ映画がある――『グラマー・エンジェル危機一髪』だ。もし俺が映画批評家として最も偉大な映画作品を挙げろと問われたなら、シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン』やアノーチャ・スウィーチャーゴーンポンの『ありふれた話』と並んで、アメリカのドエロ聖人アンディ・シダリスによる傑作『グラマー・エンジェル危機一髪』を挙げる、間違いなく。今作はおっぱいもお尻も爆裂的にデカいエンジェルたちが、おっぱいもお尻も爆裂的にデカいマッチョマンたちと、おっぱいもお尻も爆裂的にデカい悪役たちの野望を粉砕するB級映画だ。世界中の皆がこの映画を観れば、誰もが互いに手を取りあい地球に恒久平和が訪れる、俺はそう思っている。
 正直、話の流れは忘れたが、強烈に印象に残っている場面がある。エンジェルたちが邸宅で銃撃戦を繰り広げている時、便器から白煙を噴出させながら突然大蛇が現れる。ズボボボボボボと轟音をあげ便器を破壊するその衝撃的な風景に、俺の魂は揺れた。一体何なんだこれは? だが次の瞬間、この大蛇と、俺のデカくて硬いクソが、脳の裏側で重なりあう。俺のクソはこの大蛇に負けていない。そう思えたんだった。
 昔の俺は、俺自身のクソに誇りを持っていた。それを示すもう1つの逸話がある。小学校1年生の頃、帰り道に便意を催した。珍しいことではないだろう。大抵は我慢しきるか、漏らすか、それだけだ。だが小学生の俺には向こう見ずな大胆さがあった。我慢しきれないと思った瞬間、野グソをかます決意ができた。それ以前に野グソをした記憶はないので、おそらくこれが初めての経験だ。だが初めてを恐れない蛮勇が、未だ残されていた。俺は野グソをした。これ自体の記憶は曖昧だ。代わりに覚えているのは翌日に同じ道を友人たちと歩いていたことだ。俺は彼らを野グソの現場に連れていった。そしてそれを見せびらかした、これが俺のクソだと。何故そうしたか、全く思いだせない。ただ即物的な行動の風景だけしか思いだすことができない。何故そうしたか、理解できない。この幼い故の図太い神経を、今では理解することができない。
 野グソをした場所について、明確に覚えている。トラックが群れで停まっている駐車場だ。横には引っ越し会社の寮が隣接している。この場所は小学校から実家の途中に位置する。俺は28年間ずっと実家住まいだ。今から歩いて3分で行けるのだ、実際。だがクローン病になった俺は、そこまで歩いていける体力すら持ちあわせない。いや、俺を歩かせないのは過去への恐怖なのか?
 今の俺はクソをよく漏らす。クローン病ゆえもあるが、それ以前から既にクソをよく漏らしていた。前に書いた通り、実家に寄生し働きもせず引きこもるなかで自尊心は擦り減っていき、それとともに不思議と肛門括約筋もだらしなく緩まっていった。不健全な精神が不健全な肉体を生む。そして俺はクソを漏らしていた。外を歩いていて、我慢できずに漏らす。家でも何となく便意を我慢し、限界を感じてトイレへ向かっている途中、ふとした瞬間に漏らす。もはや尊厳はない、感情は麻痺している。
 そして大腸も肛門も何もかもがボロボロな今、俺は更にクソを漏らす。クローン病による手術不可能な複雑性痔瘻、そこから溢れる膿のせいで俺は毎日生理用ナプキンを着けている。クソはそこに漏れるのだ。腹痛に苦しむ。トイレに向かう。クソを漏らす。トイレに入る。便器に下痢をブチ撒ける。ナプキンを汚したクソを見つめる。ナプキンをサニタリーボックスに捨てる。戸棚から新しいナプキンを出す。下着にナプキンを着ける。もう慣れた、別に恥ずかしくはない。だが侘しくなる。頭上では鮮烈な橙の電灯が輝いてる。だが俺は闇に包まれて、荒涼として独りだ。周りには誰もいない。
 今、自分のクソに誇りを持つことができないでいる。自分の肉体から排泄される、つまりは己の存在の一部分でありながら軽蔑を抑えることができない。それはこの黄土に輝く水のようなクソが、俺自身の惨めな人生の象徴に思えるからだ。自分のクソに誇りを持っていた小学生の俺が、今の俺を見たらどう思うだろうか。冷たい便器に座りながら、そう考える。多分、どうも思わないだろう。そして俺が未来の俺と思うこともない。彼は友人に路上へブチ撒けた野グソを自慢しながら、俺を過ぎ去る。遠くに消え去る。周りには誰もいない。
 なあ、俺を置いていかないでくれよ。

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【済藤鉄腸のすぐに使わざるを得ないルーマニア語講座その2】
Odată, rahatul meu era afurisit de uriaș și intens ca o anacondă.
オダータ、ラハトゥル・メウ・エラ・ウリアシュ・シ・インテンス・カ・オ・アナコンダ。

(昔、俺のクソはアナコンダみたいにクソデカくてクソ硬かったんだ)

☆ワンポイント・アドバイス☆
"Uriaș"と"și"にある"ș"は日本語で言うシャ行だけども、発音は異なるよ。舌を水平にしながら上の歯茎に近づけ、その隙間から息を吐きながら発音するshaだよ。"Uriaș"は"巨人の"という意味のルーマニア語で、かなりスラング寄りの単語だから、ルーマニア人の前で言うと結構喜ばれるぞ。さらに"Afurisit de"は英語で言う"fucking"/日本語で言う"クソ〇〇"的な、相当な度合いを示すスラング。ルーマニア人はもはやそんなに使わないから、どこの馬の骨とも知れぬ日本人が使ったら大ウケだね。この文章の使い方はこうだよ。ケツ穴から固形のクソが出なくなって、水のような下痢便だけが噴出するようになった時、もし君が固形のクソに甘やかな郷愁を感じたなら、便器に座りながらこう呟いてみればいいんだ。寂しさに包まれる。過去はもう戻らない。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。