コロナウイルス連作短編その20「このまま世界が終わればいいのに」

 刺すような暑さに、思わず私は目覚めてしまう。今はまだ五月なのに、妙に鋭さを増した暑さが雨のように町へと降ってきている。私には、全身の細胞が悲鳴をあげているのが聞こえる。こんな暑い日には出かけるべきだろうけども、今はコロナウイルスが猛威を振るっているから、どうしても躊躇ってしまう。だからしばらく私は家にいた。朝食を食べて、学校の宿題をして、Youtubeで動画を観る。だけど常に暑さはそこにあった。そして私に思わせぶりな視線を送ってくる。だから最後には我慢できなくなって、外へと出ようとする。
 自転車に乗った時、母さんが私に声をかけてくる。
「なに、どこ行くの?」
「別に。ただ運動するだけだよ」
 そうとだけ言って、私は走りだす。
 町は完全に静まりかえっている。コロナウイルスのせいで誰も外に出ていないからだ。まるで傲慢な神によって住民が全員虐殺されたかのような荒涼たる有り様だ。この前、町の長老のような存在だった百歳のお婆ちゃんがコロナウイルスで亡くなってしまった。それをきっかけに、町が活気を失ってしまったんだった。私としては別に悪くはないと思う。自由に自転車で辺りを走りまわることができる。変態に会うこともないだろう。私が走っていると、いきなり大地が揺れる。地震が起こっているようだった。最近、どうしてか地震が多くて、とても怖い。もし大地震が起きて、人々が避難所に密集したら、コロナでたくさんの人が死ぬかもしれない。それは避けるべき事態だと思えた。
 汗を拭うために自転車を停めた時、携帯が震えた。私の恋人である絢佳からメッセージが届いていた。だけどどんなものでも読む気がしなかった。私たちは同性の恋人同士で、色々な苦難も乗りこえてきたけれど、その関係性はそろそろ終りに近づいているように思えた。いつか彼女への愛は玉虫のように虹色だったけど、今では色褪せてしまっている。もう終らせるべきかもしれないのに、何故だか踏ん切りがつかなかった。それは別れようと思う時、絢佳が背中にキスしてくれた時の感触を思いだしてしまうからだ。ワインを含んだ綿が皮膚に触れるような、あの酩酊感を伴った感触。それを思い出しながら、私は肩甲骨がわなわなと震えるのを感じた。
 海に行く。コロナウイルスのせいで誰もいないかと思ったけれど、砂浜で何かしている女性がいるのを見つける。その真黒い肌の色だけで、彼女が誰だか分かった。彼女は私の高校で英語の教師をしているアレックスだ。黒人が日本の小さな田舎町に来たということで、彼女の来訪はとても話題になった。だけども性格が飄々としたもので、拙い日本語で軽やかに町民たちと打ちとけて、アレックスはすぐこの町に馴染んだ。私は彼女の授業を受けたことがないし、話したこともない。だけど壁に隠れながら、彼女のことを見ていた。息を潜めながら、彼女のことを見ていた。私の視線は彼女に釘付けだった。
 好奇心から、アレックスの方へ近づいてみる。砂を足で踏む感触は久しぶりで、自粛期間がいかに長かったかを思いしる。彼女は一心不乱に砂で何かを作っていた。私は唇を何度も舐めてから、彼女に英語で尋ねてみる。
「何を作ってるんですか」
 アレックスは私の方を見る。彼女は口に煙草を咥えていたのだけれど、その姿は野性的でとても格好よかった。アメリカのファッション誌にもいそうだ。
「砂の城、作ってるの」
 彼女は無表情でそう言った。だけど彼女の後ろにあるものは、明らかに砂の城ではなかった。かといって、これが何かを表現するのは難しい。いわゆる現代芸術というやつだろうか、それともただの下手くそな像か。私にはそれが何なのか分からなかった。それでも私はしばらく彼女のことを眺めていた。アレックスの肌の色は、私の黄色い肌と全然違った。本当にこんな色の肌を持つ人がいるなんて、と驚かされる。
 私はアレックスを見据える。私が特に魅了されたのはその首筋だった。とても滑らかで綺麗なのだ。そこに五月の日差しが当たることで、肌が艶やかに輝いている。私は息もせずに、彼女のことを見ていた。そして目を凝らすと、肌から汗の粒が現れはじめるのに気づく。ああ彼女も私と同じ暑さを感じているんだ、そう思うと何故だか興奮した。私が思わず唾を飲みこむと、視界が揺れはじめる。心の動揺かと思うけれども、それは地震だった。収まった後、アレックスに尋ねてみる。
「地震、怖くないんですか?」
「別に。日本には結構長く住んでるから慣れたよ。揺れの上でサーフィンができるくらい」
「ははあ」
 すると、突然彼女は私の横に座ってきて驚いてしまう。とても甘い匂い、まるでモンブランのような匂いが私の鼻に届いてくる。彼女の匂いってこんな風なのか。それが知れて、私はとても嬉しかった。
「ここの海って綺麗。タコの血液みたい」
「タコの血液?」
「そうだよ。海の近くに住んでるのに知らないの? タコの血って青くてすごく美しい。服にして着てみたい」
 しばらくの間、私たちは何も言わなかった。だけどその沈黙に包まれていると、とても幸せな気持ちになった。
「アレックスさんの故郷では、コロナ大丈夫ですか?」
「ブルックリンに住む叔母さんが亡くなったって」
「えっ。それはお気の毒に」
「アメリカはかなり酷いらしいよ」
「この町でも百歳のお婆ちゃんが死んじゃって」
「うん、知ってる。彼女いい人だったね。笑顔が鷹みたいでイカしてた」
「私たち、近づきすぎかもしれない」
「ノウコウセッショク?」
 彼女は日本語でそう言った。
「コロナで死ぬの怖い?」
 会話している時、アレックスは煙草を吸いまくっていた。そして何本目かの新しい煙草を吸いはじめる。彼女は海に向けて白煙をブチまける。まるで潮を吐きだす鯨のようだった。
「あなたも吸う?」
 彼女が煙草を手渡そうとしてきたので、驚いた。フィルターに濃厚な赤の口紅がついていた。私は何度も唇を舐めてから、それを咥えた。その緊張感に毛穴が開いて、そこから汗がダラダラ出てくるのを感じた。だけど頭に浮かぶのは絢佳の明るい笑顔だった。私の脳髄がグルグルと回っていた。
「ねえ私、あなたのこと知ってる」
 アレックスがそう言うので、私の心臓が爆発しそうになる。
「ずっと、私のこと見てたでしょ。蜜みたいな視線で、私のことを見てきて、それなのに臆病なリスみたいにずっと隠れてた」
 私は心を見透かされて、とても動揺する。そして彼女の鎖骨が目に入った。黒い肌と白い光が混じりあって、官能的な輝きを放っている。あの膨らみを触ってみたい。すると彼女は青いシャツを脱いだ。美しい裸体が露になった。奇妙な曲線が彼女を形作っていた。そして彼女は近づいてきて、私にキスをする。深い深いキスだった。私は吸いこまれていく。その時、携帯が震えた。絢佳からのメッセージだ。ああ、ごめんなさい。だけど今、すごく気持ちがいい。
 私の瞳は海を見ている。海が揺れはじめ、世界が揺れはじめる。このまま世界が終わってしまえばいいのに。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。