コロナウイルス連作短編その9「轢殺」

 コロナウイルスで学校が休みになったので、阪本颯は兄である阪本爽と自転車で町を走り回る。二人で春の風を切り裂いていくのは最高の気分だった。それに兄と一緒にいるのはいつだってそうだ。自転車を漕いでいる時もだが、一緒にゲームをしている時も晴れやかな気分になる。爽は『ポケットモンスター/ソード&シールド』がめっぽう強かった。彼が自分や友人たちに負けるところを見たことがない。勝機を見つけ出したとしても、いつもその戦略を乗り越えられてしまう。そして並みいる敵をみんな倒してしまうのだ。爽は颯にとって最強の存在であり、どんな人間にも好かれていた。
「おい、競争しようぜ!」
 兄からそう言われたら、断ることなどできない。黙示録映画のように人気のない道で、彼らは競争を始めた。颯は自転車を本気で漕ぐのだけども、やはり彼を抜かすことができない。彼は疾風それ自体のように素早かった。そして爽は後ろを向いて、こう叫んだ。
「俺の勝ちだ!」
 その瞬間、横から車が飛び出してきて、爽の自転車を轢いた。彼の身体はまるで一粒の埃のようにフワリと空に舞いあがった。颯は、爽は切り裂かれた赤い糸のようにそのまま遠くまで飛んでいってしまうのだと思った。だが実際にはグロテスクな音とともに爽はアスファルトの上に落ちた。と思うと、彼は黄色い泡を吹きながら、痙攣を始めたんだった。瀕死になったポケモンもこんな状態にはならない。だが爽を轢いた赤い車は逃げ出したんだった。その背中を眺めながら、急に恐怖が吐き気のようにこみあげてきた。
「助けて! 助けて! 助けて!」
 病院の待合室で、颯は両親とともに待ち続けた。父親である順次はヒステリックに歩き回る一方で、母親である摩季は颯の身体を抱きしめる。そんな状況がしばらく続いた後、彼らの目の前に医師が現れた。順次が彼女に駆けより話を聞くのだけども、最後には病院の床に崩れ落ちた。その姿を見ただけで、颯は最愛の兄である爽が亡くなったのだと分かった。順次は床を激しく叩きながら、泣きわめいた。しかし摩季は「大丈夫だから、大丈夫だから」と、颯の背中を撫で続けた。そんな中で、颯は病院の床を見た。その汚ならしいオレンジ色は腐った蜜柑にも似ていた。そこに一本、妙に太い灰色の埃の線がある。それはいつか爽と一緒に見たほうき星にも似ていた。おそらくその中の一つの星に爽は変身したのだろうと、颯は思ったんだった。
 颯は自分の部屋のベッドに横たわりながら、兄との思い出について考えた。電車の中で一緒に鼻をほじったこと(コロナウイルス禍の今では許されないことだろう)。運動会の二人三脚で一緒に走ったこと。アナと雪の女王の歌を一緒に歌ったこと。ポケモンで一緒に対戦したこと。そして彼がたらこスパゲッティが好きだったことを思い出した時、颯の瞳からは自然に涙が溢れた。それはいつにも増して塩辛く苦い味をしていた。彼は鼻水と一緒に、その涙を飲み続ける。
 涙が止まった後、颯は兄のモデルガンを触りに行く。爽は銃が大好きで、銃撃戦を観るためにアクション映画をたくさん観ていたし、モデルガンも収集していた。颯はその中の一つを手に取り、固く握りしめた。そして犯人について考えた。実はその犯人が誰であるかを颯は知っていた。彼は同じクラスの浅田穂のかという少女の父親である浅田勝だった。授業参観に来ていた時、彼の顔を見たのだが、それは運転席に座る犯人のものと同じだった。そして決意する。浅田勝という人殺しに復讐してやると。
 翌日、颯は勝が住んでいるマンションの前で張りこみを始めた。勝が自宅勤務でないことを願っていたのだが、幸運にもあの赤い車が現れる。運転席には勝が座っていた。颯はその車を追いかけていく。赤い車が切り裂いた風を感じながら走り続けるのは、ひどく不愉快なことだった。全身の毛穴がゲロを吐くようなそんな心地を味わう。周りの風景もいつもより不穏なものに見えた。空の色はタコの血のような、不気味な青だった。そして車がある場所に着く。それは何の変哲もない普通のビルだった。車から勝が出てきて、その中に入っていく。おそらく彼はここで働いているらしい。颯は待ち続けた。殺意が倦怠と不安を掻き消してくれた。数時間が経ち、勝がビルから出てきて車に乗りこむ。そして家へと向かうので、颯もそれを追いかけた。だが彼はただ追いかけるだけで何もすることができない。勝の前に現れる勇気を、彼は未だに持っていなかった。そして勝は自身のマンションに辿りつく。颯は何もしないまま、家に帰る。
 颯は両親と一緒に晩御飯を食べる。今日は麻婆豆腐と餃子だった。だが一家団欒というには程遠く、皆が無言だった。そんな乾いた静謐の中ではどんな料理にも味を感じることができなかった。と、いきなり父親である順次が突然泣き始めた。涙の粒が白米の山に落ちるところを颯は初めて見たんだった。
「爽を殺したやつはのうのうと生きてやがるのに……」
 そんな順次の背中を、摩季が優しく撫でる。
「俺たちが一体何をしたっていうんだよ……」
 その言葉を聞いて、摩季もまた泣き始めた。彼らの泣き声は耳障りで、颯は今すぐに自分の鼓膜を破ってやりたかった。だが彼は無言のままで料理を食べ続けたんだった。
 それから颯は何日も勝を追跡し続けた。自転車を漕いでいる時、ビルを眺めている時、颯は“殺してやる、殺してやる”と念じ続けたのだが、実際に殺す勇気が湧いてくる訳ではなかった。それでも颯は会社の前で待ち続ける。その時、彼は爽との暖かな思い出を心のなかで再生し続ける。そのたびに心地よい温もりが身体を包みこんでくれて、とても気持ちが良かった。爽は最高の兄だったと今でもそう思えたんだった。
 殺してやる、殺してやる、殺してやる。
 颯の日々はだんだんとそんな危険な思いに支配されていった。ベッドの上で眠っている時、無言で唐揚げを食べている時、トイレでおしっこをしている時、颯はずっと勝を殺すことを願い続けた。時おり、彼は引き裂かれた勝の死骸を想像した。脳髄は爆砕し、腹からは大腸がはみ出ている。顔は無惨にも潰され、四肢は完全に切断されている。今からこんな残酷な死骸を作るのだと、颯は自分を奮起させる。そしてその時は突然やってきたんだった。ある日、追跡を続けていた時、車が赤信号で止まった。この時“今しかない”という思いが颯の全身を駆けめぐった。沸騰する血潮のままに、颯は車のまえに躍り出て、懐からモデルガンを取りだした。勝は呆然としたような間抜けな表情を顔に浮かべていた。颯はモデルガンでフロントガラスを叩く。すると凄まじい音を立てて割れてしまったので驚かされる。
「出てこい、この人殺し!」
 馬鹿げた悲鳴とともに、勝は外に出てくる。颯は彼の頭をモデルガンで殴りつけ、地面に倒す。さらに脇腹を何度も蹴りとばした後、彼の口にモデルガンをブチこんだ。
「お前が兄ちゃんをブッ殺したんだな!」
 颯はそう叫んだ。
「何言ってんだよ、俺は何もしてない!」
 颯がモデルガンで喉の奥を突き刺すと、勝は餌づいた。
「俺じゃない、俺じゃない! 俺は何もしてない!」
「俺は知ってんだよ。お前が兄ちゃんを轢き殺したんだろ。兄ちゃんの自転車に突っこんで、吹っとばしたんだ!」
 勝は目を大きく開き、しばらく無言でいた。
「あれはわざとじゃないんだよ! あいつが飛び出してきたんだ!」
 そんな言葉を吐き散らかしてきたので、颯の頭には血がのぼり、モデルガンが勝の顔を殴りはじめる。唇から血潮がビチャビチャと音を立てて、ブチ撒かれる。勝の顔は鮮烈な赤に染まっていった。
「助けて! 助けて!」
 だが颯は止めることがなかった。ただただ勝の顔面を殴り続けた。面白いのは殴っているとどんどん勝の顔が変形していくことだった。まるで幼稚園の頃、粘土で遊んだ時のようだった。颯はその時、粘土でヒーローが持っている大きな剣を作ったのを思い出した。そして友達だった木坂藍人も同じような剣を作っていたので、一緒に戦ったのだった。藍人とは小学校まで一緒だったがそれ以降は全く会ったことがなかった。久しぶりに彼に会いたいと颯は思った。
 止めろ!
 突然そんな言葉が頭のなかに響きわたった。それは確かに兄である爽の声だった。颯は驚きとともに手を止めた。そして復讐は悪いことなのかもしれないという思いが彼の心に兆した。と、その隙に勝が颯からモデルガンを奪い取り、逆に殴り返してきた。すぐに颯の顔も真っ赤になった。
「これ本物じゃねーじゃねえか、俺をビビらせやがって!」
 そして勝はしばらく颯を殴りつづけるのだが、そのうち彼は全く動かなくなった。
「また殺しちまった。最低だよ」
 そう言ってから勝は車に乗りこみ、赤い車で颯の頭を轢きつぶした。勝は深く溜息をつき、それから車を発進させる。しばらく道を走った後、道を歩く幼稚園児たちの列が目に入った。なのでそこに突っこんだ。慎重に園児たちの身体を轢きつぶしてから、再び勝は車を発進させる。ドライブを楽しむのは久しぶりだったので、なかなか気持ちがよかった。

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