見出し画像

コロナウイルス連作短編その160「レトロネーザル経路」

 中村明日歌はカフェで恋人の林原嘉弘と話している。空気がなまぬるい、地球に首筋を舐められている気分だ。
「ウクライナで戦争とか起こってるなんて信じられないよな」
 嘉弘が抹茶ラテを飲みながらそう言う。カップを覆うその指は短く、黄色い。関節の周りにできた皺が薄気味悪い。
「でも、本当に起こってんだよな。毎日ニュースとかで戦争の映像やら、日本に住んでるウクライナの人のインタビューが流れてる。昨日もめっちゃ泣いて、目が赤くなってる女性のインタビュー観たよ。いや、本当に戦争って起こってるんだな」
 嘉弘の視線はスマートフォンの液晶に向かっている。
「ロシアって日本とも近いし、飛行機ですぐ行けるだろ、多分モスクワとか。北海道に近いよな、北方領土とかも占拠してる」
 こいつも平和ボケだわ、明日歌は心のなかでそう吐き捨てる。右膝が痒い。
 シリアとかミャンマーでも前から内戦が起こってて、平和が踏みにじられてる。人が無惨に虐殺されてる。それは都合よく忘れ去って、ロシアが戦争起こしてやっと対岸の火事じゃなくなったっていう。ミャンマーなんかアジアでより密接に軍事政権と日本が繋がってるのに、そんな肌の白いやつらのことが心配なのかよ。平和ボケで恥ずかしくないの?
 そうは言わない。このカフェのエスプレッソは旨い。激熱の氷像、そんな矛盾した比喩が浮かんでくる。このエスプレッソは飲む者を即席の詩人にさせる、嘉弘の奢りだ。

 彼と別れて家に帰る。地下鉄で最寄り駅まで20分ほどだ。隣接するコンビニで適当に晩御飯を見繕おうとする。惣菜コーナーにパスタが並んでいる。日本語が流暢なフランス人Youtuberがコンビニのパスタを食べて品評する動画を観たことがある。シェフでもある彼が通りいっぺんのお世辞でコンビニ飯の質の高さを褒め称え、コメント欄で日本人がそれを有難く崇め奉る。
 ウインナーとベーコン、ほうれん草入りのペペロンチーノ。Youtuberは5品のパスタをテーブルに用意していたが、他の4品を誉める一方でペペロンチーノには一切触れることがなかった。編集でそれを抹消する苦労すら惜しむほどの美味しさ。明日歌はこのペペロンチーノとラムネ味のチューハイを持ってレジへ向かう。
 店員は眼鏡をかけた、垢抜けない青年だ。眉毛が腐敗した柘榴のようだった。
 支払いをクオカードで行おうとする。だがカードを渡された店員は視線を支離滅裂に動かす、どう手続きを行えばいいのか分からないらしい。彼は別の店員、浅黒い肌をした女性にそれを渡す。彼女は愛想よく笑いながら、テキパキと支払い手続きを行う。その指は相当に太ましい。彼女のおかげでクオカードでの支払いが完了する。
 日本人は平和ボケしすぎなんだよ。
 明日歌はレジ横の焼き鳥を急に買いたくなるが、我慢する。
 日本語が喋れる日本国籍って特権的立場にあぐらかいてる。いつか能天気に寝てるところに銃ブッ放されて、顔面がグチャグチャにされる時が必ず来る。
 外に出る。夕方になると割合寒い、下半身でぬらぬらした劣情がのたうち回っているのに彼女自身気づいている。ビニール袋が右の指々に喰いこむ。

 家に着き、殺菌スプレーを身体中にかけ、洗面所で手を洗う。まだ鼻水は出ていない、瞳も血に染まっていない。だが花粉に顔面を蹂躙されるのも時間の問題だと思うと鬱々となる。免疫機能を御することが人間存在にはまだ困難だ。
 タブレットでYoutubeを鑑賞しながら、ペペロンチーノを喰らう。麺は油脂で壮絶なまでにギトギトになり、しかもニンニクの味や刺激が激烈だ。特に匂いが喉から鼻へと抜けていく時、その快感は最高潮になる。口と鼻中の皮膚をナイフで滅多刺しにされているような心地だ。旨かった。啜るたびに寿命が縮むような感覚が堪らない。
 観るのはロシア人Youtuberの動画だ。今現在“ロシア人Youtuber”でYoutubeを検索すると、彼らがウクライナ侵攻について語る動画が大量に現れる。いつもは日本人に媚びへつらい、注目を引こうとする浅ましい動画ばかりだった。サムネイルからして日本語にどういうフォントが適しているかすら理解せず、華やかさと派手さを履き違えた色使いを誇るものばかりだ。今はどうか、白い壁の前で神妙な顔つきをした白人が大量に並んでいる。それを見ながら食べる夕食はとても美味しかった。
 今日も別のロシア人Youtuberが動画をあげ、ロシアの悪質なプロパガンダ報道に関して日本人視聴者に訴えかけていた。彼らにロシアの成すこと全てを謝罪し、それでもロシアの人々を見捨てないで欲しいと涙ながらに訴えている。途中でCMが流れる、就活スーツの宣伝だった。CMが終わり、動画に戻る。そこに映る肌の色も壁の色もどこまでも白い。正確に表現するなら、人間の方は少し赤らんでいる。
 “美人さんにそんな顔をさせてしまう現実が憎いです(T-T)”
 コメント欄にはそんな日本語が並んでいた。匂いがキツい。
 筆舌に尽くしがたい濃密な感覚に、明日歌は圧倒される。思わずパスタを啜る勢いも猛烈になる。独りの部屋に野蛮な音が響き渡る。動画の下部にはオススメ動画が並んでいる、殆どの動画が日本語で活動する外国人Youtuberのものだった。メキシコの広大なスパへ旅行しているアメリカ人と日本人の国際カップルYoutuber、京都で観光しているデンマーク人Youtuber、遥々コロンビアまで行き遠距離恋愛中の恋人と会っているコロンビア系日本人Youtuber、皆幸せそうだった。その後に“ロシア人Youtuber”の検索結果ページに戻ると、全員が漏れなく神妙な顔つきをしている。
「ロシア人であることをせいぜい恨みなよ」
 それを実際に口にした後、パスタが気道に入ってしまい、思わず吹き出してしまう。そして右の鼻の穴からパスタが1本飛び出した。だが口にも鼻にも、ペペロンチーノの旨味が豊かに漂っている。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。