子供の頃、お前は一言多いと言われ続けてきたが

社会に出てから持ち前の着眼点は評価されることもそこそこあった。
むしろ多角的に物事を見て意見する必要がある場面も然り。
なのでこの手の話は耳半分で聞くようにしたいと思っている。
私の言葉が多いのではなく、相手の言葉(認識)が追いついていないケースだってあるはずである。
(気付いたことに言及し過ぎるのにも注意するようにはしている)

人にはそれぞれ世界を捉える目の細かさがあって(周りでは解像度と呼んでいる)、それがコミュニティ内で揃っていないと、そういう摩擦が起こると思う。
私と祖母は解像度の乖離が大きく、私と父は認識している事象の言語化習慣に差があった。
故にそれぞれ、別の形で摩擦が起こっていた。互いに…というより、私を含めて誰もその差が存在することを認識していなかった、というのも大きい。
今となっては「こういう事だったんだな」とわかる。

解像度の高低そのものに優劣をつけるのは選民思想になるので控えたいが、付き合う相手は自分が会話している時の居心地の良さで選んでいいと思う。選べない状況下であれば、相手に応じて気遣いの度合いをチューニングすべきと思う。すべきとは言ったが訓練や気付きが必要で、できなくても悪いということではない。
ただ、相手によって描写の精度を変えられるようになるとやり取りがスムーズで、嫌な思いをしなくて済む。

なぜこのような日記を書いているかというと、これ見よがしなタイトルで一言多い奴はダメ!というようなことを言っているメディアを見かけたからだ。コミュニケーションに絶対の定理はない。稚拙な見出し付けは客引きにはいいのだろうけど尊敬の念は抱けない。

おしまい

書いてる人はオタク以外の人間性を喪失した森羅万象へのオタ般人で、感情ジェットコースターにのるのが好きですが本文とはあまり関係ないこともあるかもしれません。思ったことがあるときだけ書きます。