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自己責任論による家畜化と分断統治

ニワトリの群れには順位があり、強い個体が弱い個体をつつくのだそうです。弱い個体はさらに弱い個体をつつく。それが際限なく続いていきます。

最近では、怒りの矛先が外側ではなく内側に向かっていて、仲間内でつぶしあっているだけ、という場面をよく目にします。

たとえば、「税金を払え」という言葉は、税金を徴収する側(国家)が発するもの。それなのに、税金を徴収される側(国民)の間で言い合っているのは、おかしいですね。自分より税を少なく払っている人、あるいは、何らかの事情で税金を払えない人に対して、「税金払え」と責め立てるとは……。そんな暇があったら、税を取る側に対して、「税金をもっと減らせ」とか「税金なんて無くせ」と訴える方がよいのでは?

私たちはすっかり飼いならされているのです。お上が「こうしなさい」と言えば従うし、従わない人間を自発的にやりこめたりする。弱い者は、自分を弱い立場に陥らせている権力に歯向かうことよりも、自分のすぐ下にいるさらに弱い者をいじめることで憂さ晴らしする。不毛ですね。

私たちを支配している大きな力に逆らうことは、すごく骨が折れるしリスクも高い。だからこそ弱い者にとって最適かつ唯一の戦略は、単独行動では決してないのです。最善の策は、みんなで寄り集まって大きな力に立ち向かうこと。それがいま、できなくなっている。

わたしたちは飼いならされ、分断され、力を奪われているから。


ときおり、たまりかねて単独で飛び出し、むごいことをする者がいるけれど、単独行動である限り、それは個人的な出来事として片付けられてしまいます。それらの出来事の背景に個人の事情を越えた社会問題があったとしても、そこに目を向けられることはありません。

私たちは社会問題を社会問題として立ち上げるすべを失っているのです。
どんなに困ったことが起きても個人の問題に帰して早々に片付け、何事もなかったかのようなふりをし続けるだけ。

社会全体で問題を共有し、考え、議論するのは、とても時間がかかります。だから、誰もまともに向き合おうとしなくなりました。忙しいから、と言ってね。いまや熱心に政治参加しているのは、現役を引退した高齢者くらいです。かつて社会活動の中心をなした学生たちですら、そんな余裕はないようです。

こうなると、「大きな問題は自分の手には負えないから身の回りのことだけ考えよう」「政治について語るのは野暮だし、投票に行っても何も変わらない」というように、無気力・無関心に陥ってしまいがち。でも、これはとても恐ろしいこと。無関心は政治の貧困をもたらし、全体主義を生む土壌となるからです

日々の生活と政治は地続きであり、自分たちの力で変えていけるのだ、という実感が薄いご時世なんですよね。そんな風に考えるのは面倒くさい、と感じる人が多いかもしれません。

でも、忙しいとか面倒だとか言っているうちに、取り返しがつかなくなる気がしてならないのです。とっくにそうなっているのかもしれませんけど。無関心と無気力に負けないためには、何が必要なんだろう?すぐには答えが出ないけど、この問いを手放さずにいようと思います。


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