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『不適切にもほどがある!』についてとりとめなく愛を込めて語る

放送開始からだいぶ遅れて見始めたドラマ『不適切にもほどがある!』の最終回を無限ループで何度となく見ている。何度でもおかわりできる。さすがクドカン。
脚本を書いたクドカンこと宮藤官九郎、主人公小川市郎を演じた阿部サダヲとは奇しくも同級生。あの時代に青春時代(私の場合はダサ過ぎて全く彩りないが時代の息吹は肌身で感じ取っていた)を過ごした私には昭和のあの時代に確かに実在した風潮、風俗が懐かしく、そして心地よく思い出される。



最終回では、令和から昭和に戻ってきた主人公小川市郎が、いかにもThe 昭和な風潮に「不適切」を感じまくる。

「男の挨拶と女のスカートは短い方がいい」だの
「デカすぎパイちゃん、校長先生にお酌して」だの、
今の時代に聞くと首を捻る言葉の数々。


でも、当時は当たり前だと真顔で思っていた。「連帯責任」でビンタされることもあったし、練習中に水を飲むことも許されなかった。違を唱えて泣きながら「おかしい」と先生に訴えていたそちらの男子の方をむしろ「おかしい」とさえ感じていた。竹刀を持つ先生やケツバットなども容易に想像がつく。

中学校が個性に富んだ共学の学校だったので、余計に経験値が上がる。さもありなんの相当不適切な事例ばかりなのに、少しの懐かしさを感じてしまうのはやはり不適切なのだろうか。

あれから約40年を生きてきて、さすがに「おかしい」と思う感覚は持ち合わせている。不登校を「登校拒否」と言い、なんとか登校した佐高くんを大騒ぎして歓迎する場面は心が痛んで再生する際はとばしてしまう。

そんな昭和時代を生き抜いてきた我々も知らないうちにアップデートされているようだ。


言葉使いが乱暴だが、いつも自分のことはそっちのけで他人のことを慮る。純子や渚のために骨を折る。小川市郎という人間はそういう人だ。他人のことを考えることが自分の気が済むことなのだろう。優しさとか自己犠牲とはちょっと違う、他人を思いやることが自分の在り方というか…うまくいえないのが歯痒い。

結局、昭和も令和も生きづらい。どちらか一方が特別に悪い、あるいはいい時代と決めつけることはできないだろう。ただ、公衆の面前で大っぴらに喫煙できなくなったことは、本当に、心底ありがたい。思想上の問題ではなく、体調の問題だ。喫煙シーンが昭和という時代、市郎という存在そのものを表す象徴として描かれているようにも見えたが、その点のみについては、賛同しかねる。喫煙は己にとっても他人にとっても害。カッコよさが先に立ち、肯定的に捉えられるとしたら、そこだけは考えが異なるかもしれない。
いやはや、喫煙について熱く語る場ではない。


毎回毎回、別々のストーリーとして独立しつつも、全体としては大きな流れとしてのストーリーの一部をなす。

一話の中でもすきゃんだるという共通の場を境界に誠に巧みにシーンシーンが切り替わる。昭和と令和。「和」でつながるタイスリップは何もかもがテンポよく鋭い視点で描かれる。

令和の縮こまった時代、炎上、誹謗中傷が怖くて思ったことを口に出すのも憚られる。そんな中、空気を読まない市郎さんが言いたくても言えないことをバシッと言ってくれる。市郎さん、言語化してくれてありがとう。

さて、このドラマのユニークなところは、毎回ミュージカルばりの歌がおもむろに始まるところだ。そんな擦られすぎたド定番のことを今さらだが。

何かと不思議な歌の場面だが、歌にして歌うことで、たとえ思っていないことでも口ずさんでしまうという効能があるのだと思う。思っていなくても曲とリズムに合わせ、踊りながら
「寛容になりましょう」
「大目に見ましょう」
「話し合いましょう」
と口ずさんでいれば、行動に移すことはなくても他人の耳には届き、何らかのサブリミナル効果?をもたらす可能性があるのかも知れない。

毎日何話かのおさらいをし、春休みにはなんと限られた時間で限られた場所のみロケ地を巡った。

クドカンのドラマに出てくる登場人物には確かに名前をはじめ性格、癖などが吹き込まれている。改めてクドカン先生、このドラマと出会わせてくれてありがとうございます。同じ時期を生きてきた一般人として、クドカンや阿部サダヲの姿を励みにこれからも生きていこうと思う。

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