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2020年から2030年へ.

これは、僕が27歳だった2020年に、
10年後の2030年に向けて書いた手記。
思考の記録として。

コロナで社会が大きく変わった2020年から、10年後の2030年へ。
まとまりきらない2020年の思考を、その答えを2030年に託す。
10年後、この思考を青いと思えたのなら、意味のある10年を歩めたんじゃないだろうか。

青いリンゴも、美味しいかもしれない.

忙殺の日常から1年経ち、一歩引いたところで全体を見渡す余裕ができた27歳。少し遅いかもしれないが、あらゆることへの興味が無尽蔵に湧き出てきている。
知らないことが多すぎて苦しいという感覚にさえなる。インプットすること、思考すること、Probe(探索)によりアナロジーを見つけること、そして表現すること。この一連の作業をようやく行えるようになってきた。

そんな中、最大の関心事は、この人生の目的地をどこに設定するのかということである。
(本来、高校生や大学生のときにやるべき作業だという見方もあるが、加速度的に変化する現代においては、途中で舵を切り直すことも当然なのかもしれない)


創造的人生の持ち時間は10年だ.

映画『風立ちぬ』より
カプローニ氏の言葉.

その言葉を信じるならば、それは今始まったのだと思う。
逆に言えば、2030年頃には終わってしまうと思っておいた方がいい。

40代からは後進の教育と投資に精力を出そうと考えている。感覚は必ず衰える。衰えていないつもりで、まだまだ若いと思ったとしても、20歳下の若者からすれば古い思考の人間だ。
40を超えて我が物顔で先陣に立つのはちょっとナンセンスなので、これからの未来をつくる後進世代を育て、彼らの原動力をサポートすべきだろう。
それがサステナブルな社会維持であり、健全なパラダイムシフトであるはずだ。

若さが未来をつくる.

というわけで、自分中心の物語の余命は、あと10年ほどになる。
10年を精一杯生きるために、その予想到達地点にフラッグを立てておきたい。闇雲に走らないように、時間を無駄にしないように…

さて、2020年はCOVID-19によって、新たな生活様式と価値観が生み出された。人はまた、自然という圧倒的な力の前にさらされ、変化を余儀なくされた。
対面コミュニケーションが大きく制限され、オーディオとビジュアルの伝送に依存した、オンラインコミュニケーションが主流となり、マスク、アルコール消毒、検温が日常化している。

時代を象徴する必需品.

社会構造の大きな変化は、生死に関わる外部からの強制力がなければ、短期的には起こらないのかもしれない。
ただ、こうした瞬間こそ、テクノロジーが人口に膾炙する起点になるのだと思う。
突然の地震によって生まれた裂け目を、そのズレを満たすように、テクノロジーが一般社会に溶け込んでいく。社会に溶け込んだときに初めて露呈する不都合が、さらなる技術革新を導く。そんな災害-技術史観的な見方もできそうだ。

リモートワークと外出制限が普及したことで感じたのは、五感の重要性だった。オーディオ、ビジュアルだけではない、匂い、手触り、空気感…
身体が存在する場所に発生する統合的な感覚が、世界の解像度を高めているのだということに気づいた。

これは対人、対自然両方で感じられる。
ネットワークに依存して途切れ途切れのリモート会議は解像感が薄いし、雑談のなくなった世界は人との距離を遠ざける。
マスクをして出歩く7月には夏の始まりの匂いがしないし、気づけば散っている桜は春をスキップさせた。

五感で感じる季節と、季節ごとにおかれた祝祭と、それに伴うコミュニケーションが一気に失われた、そんな平坦な2020年が、いつにも増して足早に過ぎ去っていった。

過ぎゆく季節とのディスタンス.

この意味において、2020年が残した興味の種は2つ。
1つはXRとその先にある、境界性がうすく、緩やかに全てが結合した世界。
もう1つは、この有限な身体が限りなく愛おしいという感覚、そして場所、コミュニティ、そこにある暮らしの意味である。

先に後者の話からすると、デジタルが加速することで浮き彫りになるアナログの価値、アナログへの郷愁をどう考えるかということ。
五感の話に近いが、身体  --この私の自我が存在している唯一の身体-- が生きることの本質を抱き込んでいるように思える。

我々は身体を移動させる範囲で日常を形成し、アイデンティティを形成し、コミュニティを形成している。
生活は、身体と、身体が存在する座標に大きく依存している。

これを一言で言えば、"暮らし"なのだと思う。

暮らすことは、生きることだ。
ローカルな土地とコミュニティの中で、自分の存在を確認すること。
日々を暮らすとは、そういうことなのだと思う。

人は一人では生きていけない。
どんなに孤独な人も、どんなに有名な人も、ローカルの中で人と関わり合いながら生きることで生を実感していることだろう。

2020年現在、人生の本質だと思うことの1つは「暮らすこと」だ。

五感で感じよう.

そして前者の方は、デジタルが調停する世界におけるスタンダードな価値観はどのようなものだろうかということ。
計算機が自然に溶け込んで、何が人工で何が自然かという議論に意味のない時代が来る。
自然と自然以外を分ける一線なんて、我々の認識の中にしかない。
何が現実なのかは誰もしらない。
五感で感じている目の前の世界の認識が現実なのであり、それ以上以下でもない。

人間とアンドロイドを区別する必要もなくなっているかもしれない。
新しい生態系の、ボーダレスな世界は、生きているうちにやってくるだろうか?
シンギュラリティと言われる2045年より15年前の2030年はどうなっているだろうか?収穫加速の法則を実感しているだろうか?
そんな未来でどんな価値観が社会を支えているのか、アイデンティティはその時、何に担保されているのか?

来たるべき次の世界に、期待が膨らむ。
そして、自分はその世界で何をしているべきだろうか?

その先に、何が見えるだろう.

少なくとも、テレビのコンテンツを作ってはいないんじゃないかと思う。
地上波とテレビ受像機に依存したプラットフォーム産業は、求心力を失う一途だ。
マスメディアの王座は20世紀と共に終焉を迎えた。
「コンテンツの民主化」の波の中で、クリエイティブはレッドオーシャンだということに気づかなければならない時代になっている。
ソフトを作るためのコストはあらゆる面で低下している。
誰もがクリエイターの時代に、新しいエンタメを提供するメディア分析力が必要だ。

プラットフォームとしてのテレビの価値は次のようなものに限定されていくのではないだろうか。

1つは、祝祭のオンラインイベント。
季節性、祝祭性のある特番の生放送を全国が同時に視聴するモニターとしての機能だ。言論空間はSNS、共有モニターはテレビ。
ここではリアルタイム性が重要で、街頭テレビへの回帰を思わせる。
レギュラー番組や、日常的な視聴習慣は、価値を下げていくだろう。

テレビがつくった時代.

もう1つは、特権的地位と規模を活かした報道機関としての価値。
アカウンタビリティのある、信頼性の担保されたメディアとして引き続き必要とされていくだろう。

だからこそ、このプラットフォームにこだわる意味はもはやない。
目指すべきはコンテンツの未来であり、新しいエンターテインメント体験の創出なのだ。

あえて目標とする肩書きを作るならば、コンテンツ・プロデューサーになるのだろう。
それも、世の中に最も影響を与える方法において、コンテンツを展開すること。

限られたプラットフォームの中で、新しいソフトを生み出すというレベルではなく、社会にインパクトのある"手段""道具"で、新たな体験価値を伴うコンテンツをつくりたい。
必ず、テクノロジーに立脚していて、それによってアップデートされた価値観を埋め込むこと。

エンターテインメントの未来を.

時代を経ても変わらない価値観と、時を経るごとに変わりゆく価値観。
そのアンビバレントな不易流行の狭間で、過去に学び、未来を作りながら、人生の本質を探すことに10年を費やそう。

10年後に、もう一度同じことを考えよう。
きっと今とは全然違う思考で頭がいっぱいになっているはずだ。

創造的人生の持ち時間は10年だ。
10年しかないのだ。

ここで跳ぶしかない。


この翌年、僕はNFTに出会っている。
NFTとコミュニティの新しいエンタメに費やした最初の3年だった。
この時には想像もしなかった未来だ。
またギアを入れて、次の飛躍を考えたい。

2024.02.24


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