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緊張し気を遣い自分を見失う

 入社一年目で、普段からよく仕事を一緒にする上司が二人います。どうも自分はこの二人と話すときは緊張するし発言に気を使いすぎるんですよね。年が近い人に対しては割と冗談を言い合ったりして楽しくコミュニケーションがとれるものの、どうも年が10くらい離れだすと緊張してしまう。上司の時間を取らせてはならないという気持ちが強くなりすぎて、ものすごくテンパっちゃうんです。雑談の一つでも、冗談の一つでも普段から言うようになれば、もっと距離が縮まりコミュニケーションも取りやすくなって仕事もはかどりそうなのに、いざ質問をしにいくと極力簡潔に話して終わらせられるようにと行動してしまう。同期が楽しそうに上司と話しているのを見ると羨ましく感じるし、自分にはできないなと卑屈になってしまいます。

 なんでなんだろう?同じ年上でも年齢が近いとそこまでの圧迫感は感じないのに、それなりに年が離れだすと冗談すら言うのをためらってくる。別にそんなお堅い人なわけでもないし、どちらかといえば結構フランクな類だと思うのですが、それでも何か怖いと感じてしまします。

 何個も原因が絡み合ってるかもしれないけど、理由の一つには、年が離れれば離れるほど能力だったり常識力が上がっていって、自分もそれに合わせようと思いっきり背伸びをしようとしているせいかもしれないな。。そもそも私は結構抜けている方なんで背伸び感半端ないんですけどね(笑)。非常識なやつだ、使えないやつだと思われて捨てられたり扱いが雑になるのが怖いのかもしれない。だからボロがでないように極力しっかりしている風を演じようとして、余談や冗談を言う余裕がないのかな。まあでも素がしっかりしてないからミスやらかしたり非常識な部分がバレたりしてボロは結局出ちゃってるんだけどね(笑)。だったら最初からダメダメですってさらけ出しておいたほうが、実際に失敗した時も、だろうねって感じでダメージ少ないのかもしれないなー。

 非常識だと思われたり使えないやつだと思われるのを恐れるのはなんでなんだろう。クビにされる可能性があるから?(法律的にクビには簡単にできなくても、居心地が悪くて自主退職の可能性はありそう、、) 
実家暮らしだし稼ぎがなくなる恐れはそんなにないんだけど、ただクビにされる=必要とされない=周りから惨めな人だと思われるみたいな恐怖はあるかも。ここの恐れのせいで自分をさらけ出せずに背伸びをし気を使い続けているのかもしれないですね。

 つまり自分をさらけ出してもっと気楽にコミュニケーションを取っていくようになるためには①必要とされないことに対する恐怖心と②周りの評価に対する恐怖心のそれぞれを解決してあげる必要がありそうです。

①必要とされないことの恐怖心
 誰でも多かれ少なかれ承認欲求ってあると思います。多分私はそれが強い方。だから必要とされないっていうのは認められてないわけだから、相当なショックを受けると思います。覚えていないだけで過去にそういう扱いをされてトラウマがあるのか、はたまたそういう扱いをされたらどうしようという妄想でなのかわからないですが、結構怖いです。
 人には得手不得手があって必要とされる環境と必要とされない環境はどうしても存在すると思います。だから承認欲求の幅というのを自分で作らないと、ずっと苦しい思いをしてしまうんだろうな。自分の不得意な環境で承認されようとするのはすごく難しい。だってそれが得意な人がいればその人と比べられるし、自分自身でも比べてしまう。努力で結果が出せているのであればそもそもそんなに不得意なものではないから、本当に不得意なものは努力量でカバーしようとするのが難しい。。それに人の何倍もの努力をして人並みに持っていくことは可能かもしれないけど、その努力量を自分の得意なことに使ったほうがもっと結果は出るはず。
 承認欲求を消すっていうのは言葉で言うのは簡単だけど、現実的には難しいと思います。だからこそどの場面では承認欲求を求めて、どの場面では承認欲求は諦めるのか、その線引きが必要なんじゃないかな。その線引きのためにも自分の得手不得手を把握する必要があると思います。
 例えば私の得手はアイディアを出すこと、すぐ行動にうつせること、原因分析と効率化を行えることで、逆に不得手は一般常識を知らないことや記憶力が低いこと、指示のもとで動くことです。それでいくとやはり今の職場環境は自分の不得意分野であり、もっと自分を活かせる分野は他にあって、そこを探していったほうがいい気がします。今の環境で認められようとするのは諦めて、自分にあった次の環境を見つけるまでのスキルアップのための環境として、今の環境を捉えていれば気持ちは楽になりそうです。実際に必要とされなくなったとしても、ここの環境ではしょうがないと割り切っている分、落ち込んで手がつけられなくなるといった事態は免れそう。そしてこの環境下では認められなくてもいいという割り切りが、気持ちを楽にして普段通りの自分になることができるんじゃないかなと思います。

②周りからの評価について
 私の今までの人生ををさらっとお話すると、そこそこの大学を出て、そこそこの資格を取得し、少し周りからすごいねといってもらえるような人生でした。それが会社員として通用しなかった奴だと認識されちゃうと、反動でかなり精神的にくるものがあります。それがとても怖いんだと思います。ただこれって過去に縛られて生きていることになりますよね。何かを辞め、何か次のステップに進むときには一回沈んでしまうことがあると思いますが、過去の栄光にしがみついている限り、過去の周りの評価にしがみついている限り、その沈みを恐れて新しいステップへの挑戦は難しくなるし、自分のこれからの人生を自由に生きていくことができない。自分の生きたいように生きる人生と、周りから惨めな奴だと思われることの天秤にかけたら、私の場合は惨めだと思われても自分の生きたいように生きる人生の方が大事です。であれば、自分が一回沈むときの捉え方を改めるべきなんだろうなと思います。
 例えば、会社員を辞めたときの一時点だけを見ると、ニートになって落ちぶれたかのように感じてしましますが、もう少し長期の5年〜10年くらいの目線で見たときは、会社員からフリーターや起業家、投資家といった新しいステップアップへの挑戦の時間を獲得したと感じることができそうです。そしたら仮に辞めた時点では周りに心配されたり惨めに思われたとしても、自分の中では次なる挑戦につながると捉えることができているので、精神的ダメージは低くなるのではないでしょうか。
 そして人はどれだけ過去に批難をしても、結果がでると手のひらを返すものです(嫌な言い方になってしまいますが)。だからこそ、周りの批判や評価を気にして行動できないのはもったいない。結果が出ればその批難や酷評も賞賛に変わるんだから。また、自分が沈んだ時ほど、誰が味方でいてくれて、誰が一生の仲間として大切にすべき人なのかがはっきりと見えてくるはずです。その人達のことを大切にして、その人達以外の批難・評価は基本無視する(SNS上でも避ける)ようにすれば、周囲の評価に恐れず、自分の生きたいように人生を生きれるのだと思います。

◆まとめ
緊張し気を使い自分を見失っていたのは、会社員としてやっていけなくなるかもしれない怖さを潜在的に感じていたからで、さらにその怖さを深ぼると、
①必要とされない恐怖
②周りからの評価の恐怖
の二つがありました。
①については得手不得手を把握して、認められようとする範囲を決めること、②については長期的な目線で物事見ることと本当に大切な人以外の評価は遮断することでそれぞれの怖さの原因解決につながると思いました。
不得手を克服するための努力や批難を受け入れ改善することも成長するために大切なことだと思いますが、自分の得意なことを伸ばし自分の大切な人達と生きていった方が、最後に自分の人生を振り返ったときに、楽しい人生だったなと私は感じると思います。今回の分析を活かして気楽に楽しく生きていこーっと!

<私のnoteでは日々の生活の中で感じたことを題材として、なんでその感情が起きるのかを分析し、また次からどういうアクションを起こしていくかということを検証していきます。個人的なものではありますが、なにかしら共感いただけたり、参考になるものがあれば嬉しく思います!また、アドバイス等もありましたらコメントいただけると幸いです!読んでくださりありがとうございました!>

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