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二千年と三百年前から愛してる -エジプトに散ったギリシャ人建築技師の生涯-後編

前編を未読の方はお先に前編からどうぞ.

3.クレオンの危機と家族の愛情

 プトレマイオス2世肝いりの大事業を期日までに仕上げることができなかったクレオンは,窮地に追い込まれます.夫の危機的な状況を知った妻は,慌てて手紙をしたためます.

〈欠損〉…あなた様は,私をお側においておきたかったでしょうし,私もすべてを残したまま〔そちらへ〕向かいたかった.しかし,いま私は恐怖の中です,あなた様と私たちはどのようになってしまうのかと.
 といいますのは,今朝早くこちらに来られましたキュネゴイ族[狩人の部族]が,あなた様に起こったことを私たちに報告されました,湖に行幸された王様が,〔完了していないお仕事をご覧になり〕あなた様に,厳しいお叱り〔のお言葉を〕〈…欠損…〉投げつけられたのだと,そして,〈…欠損…〉私は悲しいです〈…欠損…〉
http://aquila.zaw.uni-heidelberg.de/hgv/7666

   欠損の多いパピルスなのですが,夫を心配する妻の愛情と,クレオンの危機的な状況が,すなわち家族全体の危機であるということを私たちに教えてくれます.クレオンはどうなってしまうのでしょうか? 長男フィロニデスからの手紙がクレオンのもとへ届きました.

(※訳では代名詞〈あなた〉を〈お父様〉と訳しています) 
〈…欠損…〉ですからこのようにして,将来,お父様は〔再び〕王様のご慈悲を受けることになりますとも.
   私にとって,お父様の残りの人生を,まずお父様〔ご自身〕にとっても,また私にとっても相応しい方法で見守ることよりも重要なことなどございませんし,もし〔死すべき〕人々に起こるようなことが,〔万が一〕お父様に起こったときにも,全ての賞賛を得ることになるでしょう.私にとって最も重要なことは,お父様が神々のもとへ旅立つまでの間ずっと,お父様を見守ることでございます,まずはお仕事による全ての忙しさから,お父様を解放するようにしてください.             もしも,また〔それが〕不可能だと見て取るならば,せめて〔ナイル〕河〔の水位〕が後退しているとき,危険ではない期間ですから,テオドロス[副技師長]に代理をさせることで,〔私たちと〕暮らす時間ができることでしょう.
 お父様が嫉妬を受けることもございませんし,一方で,お父様には苦しみのない状態で,私がすべてを気にかけて差し上げることになるのでございます.
https://aquila.zaw.uni-heidelberg.de/ddb/P.Petr.;3;;42;;I

 目頭を熱くさせる手紙です.どうやら命は助かったようですね.よかったです.そしてまだファイユームでの水利事業に従事しているようですね.長男は父親の積年の疲れを気遣い,休暇をとってアレクサンドリアへ帰ってくるように言っています.この息子はナイル河の水位が低い間はお休みできるでしょうといっていることから,父親の仕事をよく知っているのでしょう.

 手紙の内容から推測すると,心身に不調を抱えてしまったのかもしれません.年齢的には60才程度と考えられますので,昔であれば十分に高齢です.

4.クレオンの最期

 その後,クレオンはしばらく休暇をとることになったようです.クレアンドロスという王の書記を務める高官に次のような手紙を送っています.

 私は副建築技師長のテオドロスのもとを離れます,堤防と水門の監視,〔アルシノエ〕県の公共工事の権限を彼自身に与えて. 〈…欠損…〉
https://aquila.zaw.uni-heidelberg.de/ddb/P.Petr.;2;;42;;(a)

 部下のテオドロスを「副」と呼んでいるのですから,クレオンはまだ建築技師長であったことが分かります.降格されることもなかったようですね.長男のすすめにしたがってアレクサンドリアに向かったのかもしれません.
 その後のクレオンの消息は分からなくなるようです.前252年にはテオドロスが「建築技師長」となっていることから,クレオンは完全に引退した,もしくは既に亡くなっていたのかもしれません.愛する家族に看取られながらの最後だったのでしょうか(そして次男は就職できたのでしょうか?).
 古代の偉大な学者,技術者たちは,ときに書簡を残しており,そこから彼らの私生活を垣間見ることができます.ですがそれらの書簡は写本として伝承されたものであり,後世の加筆や改ざん,さらには偽作まで混ざっています.
 ここで紹介した「クレオン文書」と呼ばれる一連のパピルスは,2300年前に生きていた人物の直筆です(代筆の可能性もあるかもしれませんが).現代と古代で,エジプトに移住したギリシャ人と私たちで,人のこころの何が変化し,何が変わっていないのかを考えるための,とても大切な史料だと思い,皆さまにご紹介することにしました.

5.書簡という「心の考古学」

 最後に古代人の残した「書簡」の中で邦訳のあるものを一部ご紹介いたします.

『世界の名著〈9〉ギリシアの科学 』中央公論社 ,1972年
アルキメデスの書簡が読めます.実は現存するアルキメデスの論文の大半は,アレクサンドリアの学者への書簡なのです.友人の死を嘆き,また自身の研究の理解者が少ないこと,一つの難問に何年も継続して取組み,やっと証明できたことなどが綴られています.

『プラトン全集14』(長坂 公一訳)岩波書店,1975年
プラトンの書簡が読めます.偽作も含まれておりますので,最初に解説を読みましょう.

ディオゲネス・ラエルティオス(加来 彰俊訳)『ギリシア哲学者列伝〈中〉』1989年
逍遙学派学頭の遺言状が読めます.もちろん偽作ではないとは言い切れないのですが,奉公してくれた奴隷や,残された家族への配慮について知ることは新鮮な驚きがあります.岩波書店はそろそろ重版したほうが良いのでは?

国原 吉之助『プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条 』講談社学術文庫,1999年
『博物誌』で有名な(大)プリニウスの甥の書簡です.正直私はあまり読んでいませんが,大プリニウスの死の様子を伝える貴重な証言です.豊かな老後の過ごし方など,胸を熱くさせる手紙も含まれています.

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