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2種類の「理解」

 日本語の「理解する」という動詞ついて言えば、その使われ方を観察すると、大きく分けて少なくとも2つの異なる意味で使われていることに気づく。

 ①(人や物事に対して)そこに至る因果の筋道を説明できる
 ②(人に対して)その立場に共感し、時にそれに配慮した行動をとる

 以下、①と②の意味の「理解」をそれぞれ「理解1」「理解2」とする。「エンジンの構造を理解する」とか「市場経済の仕組みが理解できない」という場合の「理解」が前者で、「上司はうちの家庭の事情に理解がある」とか「将来の夢について親が理解してくれない」という場合の「理解」が後者。そして、両者はかくも異なるにもかかわらず、普段我々が「理解」という言葉を使う際、どちらの意味で言っているのかたいてい曖昧にしている。意図してかせずしてか。
 それで、だいぶ前から思っていたのだが、いろいろな場面で「理解することが必要だ」「理解することが重要だ」などと耳にするけれど、それって理解1しろと言っているのか、それとも理解2しろと言っているのか。そこを曖昧にしたまま進める議論が実りあるものになるとは考えにくい。

 「私は十分理解1している」
 「いや、あなたはちっとも理解2していない」

というすれ違いが起こるのは容易に想像できる。
 その区別をはっきりさせた上で、理解1と理解2とがどのような関係にあるかを考えてみる。まず、理解1すればするほど理解2するのが困難になるというケースは少なくない。私の場合、最近の学生さんたちの言動について多くは一応理解1するが、理解1したことによりますます理解2できなくなったというケースも多い。知れば知るほど共感できなくなるというパターンだ。逆に、理解2が理解1を歪めることもありそうだ。贔屓する対象に対する評価が甘くなりがちなのが人情であり、それは都合の悪い理解1を無視することを誘発しかねない。いわば、理解1と理解2とは「あちらを立てればこちらが立たぬ」という関係になり得る。そうなった場合、「理解しよう」の「理解」をどちらの意味にとるにせよ、一方を取ればもう一方を捨てることになる。それを直視せず、2つの「理解」の区別すら曖昧にしたまま「理解しさえすれば万事うまくいく」などと考えるのはあまりにナイーブだろう。
 それどころか、むしろ理解しないほうがよいのではないかという反論もしたくなる。ある対象について、たとえその結果理解2できなくなる、すなわちその対象が嫌いになるとしても冷徹に理解1を深めていくのは研究者の仕事だが、一般の人にそれを求めるのは酷ではないか。一方、だからといって理解1を欠いたまま根拠なく理解2しようと努力することにどれほどの意味があるのか。それはあまりにも虚しい。

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