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言葉の暴力性

 人間が何かを利用する(=道具として使う)のは、人間の能力に限界があるからだ。たとえば、人間がナイフを使うのは、肉の塊を丸呑みにする能力が人間に具わっていないからだ。人間が言葉を使うのもおそらく同様だろう。世界を丸呑みにすることはできないから、あたかもナイフで肉の塊を切り分けて口に運ぶのと同じように、言葉で世界を切り分けて自分に取り込むのだ。
 言葉は世界を「切る」もの、刃物だ。「51対49」と「49対51」とを一刀両断し、前者に「勝ち」、後者に「負け」というラベルを容赦なく貼るのが言葉というものだ。ああなんという暴力性。そしてまさにこの暴力性こそが言葉の本質的特徴であり、存在意義であり、言葉を非常に強力な道具たらしめているのだ。丸呑みできない以上、どこかで切らざるを得ない。49と51を離れ離れにするのは未練が残るが、そんな未練をいつまでも抱えたまま生きていけるほど人間は強くない。そこで言葉のご登場。そうした未練を断ち切る上で、この上ない効果を発揮してくれる。
 だが、効きすぎる薬にはご用心。必ず副作用が付いてくるもの。言葉は、「51対49」と「49対51」とを一刀両断する暴力を行使するのに付随する形で、「1対99」と「49対51」とを同じ「負け」として一括りにしてしまうという別の暴力をも行使するのだ。食品に「福島産」とかそれ以外だとかのラベルを貼ることに一体何の意味があるのだ。まさか放射性物質が県境で一旦停止するとでも言うのか。だが、実際問題として、言葉というナイフで「福島」と「非福島」とを切り分けないと立ち行かないのが人間の社会。
 刃物は凶器。凶器を手にした人、特に凶器を手にした○○には気をつけないといけない。

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