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絶望しきったアラフォーは、緩やかにでも回復できるのか!?

齢30代後半。約40年間という、実に長いこと生きづらい中で過ごしてきた。

それは、中高辺りでの自尊心が決定的に傷ついた出来事(いじめや教師からの無関心・否定感…)があったことに端を発してはいるのだが、実際のそういったことを引き受ける土壌は、幼少期からの家庭教育でのプロセスがあったと確信している。

私は、ようやくではあるのだがAC(アダルト・チルドレン)であったことに、人生の大事な時期を苦悩で費やしてしまった果ての昨今になって、思い当たるに至った。

これが、私の約40年間で得た人生の成果である。

コミュニケーション障害も落ち込みやすい性格も他人の承認や顔色ばかり伺って右往左往してきたことも、それゆえ蓄積し続けた恥ずかしい自分やPTSDも。

何をしても何にトライしても、一向に好転する気配さえ感じられなかった、無駄にしか感じることができなかった人生の日々も。全てが「ああそうか…」と合点がいった。

「私は、ACだったのだ…」

あらゆる無駄と自傷行為のような時間と体験を経て辿り着いた、私の唯一ようやくの人生解である。

20代前半でリストカットをして以来、双極性障害の診断を受け、更には30代になってからADHDとASDの合いの子であることや、境界性やら自己愛性やらの人格障害であること、それらにあがなうことから対人恐怖症や社会不安障害と、あらゆる心疾患に関わる診断を享受してきた。

目先に現れ続けた苦しみの権化のように感じていたそれらは、二次障害・三次障害の付加物であったのだ。

本当の怨念と絶望とはこういうことかと、心から実感した底つき。

一分一秒“死にたい”がぼんやりと背景にある日々。

“死にたい”を日々心の中で唱える一方で、死ぬまでに一度でいいから“世界はそれなりに素敵なんだ”と心底感じてみたい。その日一日にワクワクしながら朝起きてみたい…と、同時にのたまう、もう一人の自分の存在を今だ認知するのは皮肉なことなのだろうか…

最初の投稿としては、我ながらどうかと思うほど辛気臭い内容であるのだが、今後、この絶望的な人生を少しでも回復させるための、アラフォーの小さな試行錯誤の蓄積を、人生アーカイブ的に文章化していけたらと考えております。

興味を持たれた奇特な方や心疾患で苦しんでおられる方、生きづらくも何とか日々生き永らえている人生サヴァイヴァーな方など、気が向いた折に覗いて頂けたら嬉しい限りです。

よろしければどうかお見知り置きを。

宜しくお願いいたします。


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