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諦め受け入れ、難事多き人生をメタ的に愉しむ。


生きづらさからの緩やかな回復を目指すアラフォーの試行錯誤として、少し何回かに渡り生きづらさについての過去回帰的な省察をアーカイブしていけたらと思う。

このnoteでは、これまでの過去を経て至った現在の状況を好転させるには、今がまさに最短かつ最善の条件であると仮定し、アラフォーが日常的に肯定的な行動を踏み出し習慣化することでの、微細な変化の記録を記述していくことを前提としたいと思う。


生きづらさの最初の発生を思う。

最初のガン化するかしないかの境界辺りでの、生きづらさの細胞片を想像する。

二次障害、三次障害発生に伴う苦悩への考察や回復のための試行錯誤は、次回以降での詳細な分析に負うこととして、私がアラフォーになるまでのたうち回ってきた根源、そうAC(アダルト・チルドレン)について深く思慮を掘り下げていくための第一歩となることを願う。

何かずっと、今集中すべきある一つの重要な事象に集中できず、あったかもしれない力を発揮やり抜くことができないことが連鎖してきた成れの果てが、“今”である。10代からのネガティブな負債として、雪だるま式に膨れ上がった結果としての今現在である。

それは、人生におけるあるネガティブな事象・経験が、日常的なPTSDとなることで、常に自身の集中力や出力を奪い続けるデフォルト・モード・ネットワーク化してしまっている感覚と言ってもいい。

目の前の絶対的に集中すべき事象に対し半信半疑の精神状態で、自分自身そのものを構成するアイデンティティーが、どこか他人事であるかのような無気力な感覚。学習性無力感が人生全体をぼんやり包んでいるような実感。

それ故、目に見える成果やフィードバックを得られるだけのポジティブな経験的データの蓄積となることが、常に難しい状況を強いられることになる。

つまり、モチベーションの在り処が不安定かつ不透明である状態で事象や対人に臨むため、ネガティブ体験を誘発する条件に常時晒されていた。

引き寄せの法則とは眉唾であるのだが、ネガティブなデフォルトモードが、次なるネガティブな経験や事象を誘発するということは、実経験を深く内省すればするほど、リアリティを増していった。


それは、他者とのコミュニケーションでの前線・現場においても言える。

嫌われていないか!?(そういったオドオドビクビクが、相手に反感や不快感を更に印象付けてしまってきたのだが…)、今の発言は文脈からそれていないか!?、空気感に添っているか!?などなど、他人の顔色を常に伺い、他者依存的な思考でもって、他者に自分の脳味噌を預けてしまっている状態でのコミュニケーションが、私にとっての“コミュニケーション”だった。

それゆえ、ワーキングメモリーの枯渇が異常に早く、コミュニケーション自体を重労働で億劫な作業であるという印象を、コミュニケーションを経験すればするほど蓄積してきた。


そうつまり、ACの苦悩とは、自分自身の不在感である。

常にハリボテ状態の自分自身を感じ、その不安感や恐怖感から自由になりたい一心で、自分のリアルな存在感を他者に聞いて周るという無限の循環の基、また他者依存的に振る舞う。その無限ネガティブループが、ACのアラフォーという、ACモンスターを構成するに至った。

常に不安感と焦燥感を前提とした“自分でありながら自分ではない”状態に、生き方そのものが置かれ続けていた。それは、日常の意思決定を要する事柄の細部にまで浸透しつくし、自身の人生をぼんやりと霧や薄い膜で覆いつくしている感覚のようであった。

それが、仕事や内発的自己が下した(かのように感じてきた…)の決定・結論を支配しながら何十年も続いてきた。

「人生の貴重な時間と労力とお金を、他人からの承認を得るためにのみ死に物狂いで投入してきた…」

そのことを突きつけられた時の絶望と相まった恐怖感の感触を、私は死ぬまで忘れることはないであろう。


絶望したアラフォーが、静かに緩やかに回復していく唯一の光明とは…

まず、生きづらさの根源としてのAC(アダルト・チルドレン)的な習性から、どのように自由になるか。

他者依存性からほんの少しずつでも自由になれる思考の習慣化は、どのようにしたら得ることができるのか。

私が悩みに悩んで辿り着いた結論は、まず常に外部へ向かい続けてきた意識のクセを、他者依存的思考のツタで覆われ忘却してきた自身のアイデンティティのコア層へたどり着くために、慣れないクロールで、もがきながらも前へ進もうとするように、そのツタを掻き分け未だみぬコアを見ようとし続ける行為。自己の意識を主体的に自発的に内部へ内省的に向かわせることからしか始まらない気がした。

「“私”は何が好きで何になら他者からの承認とは無縁の上で没頭でき、何を人生の根底にある“価値”として感じていたの?」

外界からの刺激から無垢だった幼少期の自分自身に会いに行くために、深く自己内的世界にダイブするかのように、メタな私が、“私”にひたすら問い続ける。

外界から意識のベクトルを内省方向へ意識的に向かわせる行為、内的世界へ没頭していく没頭せざるえない行動の必要性。

究極の自己理解へと続く問答。忘れてきた“自分”に出会う内省世界を旅をするような質を持った時間を、習慣的に持つことが何よりも重要に思えた。

「10代の内ににやっておけよ…」

といったツッコミが聞こえてきそうなものだが、私の人生は約20年遅れのうちにある。

遅れながらも未来を思考するような発想が、この先生きていくことを選択するのならば、必須になってくる。


私が出した結論。

そうそれは、瞑想、もしくは瞑想的に没頭していく行為・行動であった。

スピリテュアル系への固定観念としての胡散臭さなど構う余裕などあるわけもなく、スピリテュアル系でも宗教系でも自己回復に寄与するのであれば、何でもゴザレ状態だった私。

なんちゃってでも好転しているような気がするでもどうでもいい。とにかく自分の人生の重要問題に、ポジティブな方向で1mmでもコミットをスタートさせたかったのである。


次回より、瞑想を習慣化に至るまでのエピソードや模索。

瞑想やマインドフルな行動・活動が、アラフォーの人生変革に与えた・与えはじめた具体的な効果や変化について、少しずつでも表出できたらと考えている。

個人メモ的な文章となることをどうかお許し頂き、もし興味を持たれる奇特な方がおりましたら、どうか是非お付き合い頂ければと思う。



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