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【Column】劇場版『天気の子』についての話【幾星霜】

まずはじめに

この文章を書いたのは2年前だ。

『天気の子』を見た直後の熱量で書いていたもので、とある方に読んでもらった後に、「じゃあこれ、noteで載せてみますーー!」と言って幾星霜。

なんとフォルダのなかにずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと置かれっぱなしだったものです。

信じられないっすね。

そもそも『天気の子』レビューをあげたいなと思っていたし、いまさらながら2年のときを超えて載せようと思います。

・『災害のなかにあって、人間らがタフに生きている』『ぼくらは人間社会へと繋がり、戻っていくのだ』という導きとセカイ系の話について
・古典ともいえようストーリーラインの定型へのイジリかた
・自身の過去作品や影響を受けた作品をいかに引用し表現するか?

おおよそでいうと、この原稿では『天気の子』をこれらの視点で書いてます。

で、いまこの文章を載せようとおもったもう一つの理由は、最近話題の『シン・エヴァンゲリオン』を見たときに強烈な既視感を覚えたことになるんですよ。『天気の子』と似てるなぁと。

とはいえ、そう書いておいてなんですが、2年前の記事をちょこちょこ調整して載せているだけなので、シン・エヴァの話はしていないです。シン・エヴァはいつかどっかでします。

ではどうぞ

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「あの日私たちは、世界の形を決定的に変えてしまったんだ。」

本作の予告映像内やCMにおいて、何度なくつぶやかれるこのセンテンス。最初のうちは「何を言っているんだ」と小馬鹿にしそうなものだが、本作を最後まで見てしまえば、「本当にそのとおりだ」と頷かずにはいられない。

この言葉を素で読み解けば、「キミとボクの繋がりが、世界を大きく変えるキーになる」ということである。アニメ好事家ならおわかりの通り、これはセカイ系作品には重要な部分である。

今回は、「セカイ系」という部分に触れつつも、新海誠がいかに己を拡張し、もしくは破壊したかを書いていきたい。作画の素晴らしさ、または声優演技の良し悪しについては触れないで進めたい。

本作は非常にスリリングであり、かなりアクロバットなことに挑戦している。どのようにアクロバットなのか?それは一つの視座に立てば、大きく3つの事象を一気に突き刺し、更新しようとした点にある。

1つ、「セカイ系」と目されたストーリーラインをどう回収したかということ。
2つ、「ボーイミールガール」的作品としてどうリビルドしたか。
3つ、新海本人による新海作品の批評であること。

このアクロバティックさにある。

昔やったエロゲーや恋愛シュミレーションゲームを思い出す、というネタでツイッターが一部盛り上がっているが、それは彼が今回この3つのリビルドを巧みに起こしたという証左であろう。

今作を大衆向け・万人向けとは言えない、という論評もあるが、僕はそう思わない。

なぜならば、2000年代以降、もっといえばポスト・エヴァンゲリオン以降のMAG文化発作品群は、セカイ系やボーイミーツガールなストーリーラインからどうしようとも逃れられず、その作品性を20年近くに渡って流布し、とある世代以降の物語趣向に深く根ざしたからだ。

そして「君の名は。」でもなお起こってしまった批判を、今作でしっかりと拾い上げたのではないか。
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1.「セカイ系」と目されたストーリーラインを
どう回収したか


繰り返してしまうのだが、『君の名は。』では少し距離感を置いて制作していたものの、今作ではあえてセカイ系のストーリーラインに寄せて作っている。新海監督は映画パンフレット内で、

「『君の名は。』で怒った人が、もっと怒ってしまうような映画。それが今作の最初のイメージだったのかもしれません(笑)」

と語っている。

つまるところ、今作をとおして、新海誠は<あえて>作ったフシがあったのは明白である。それがどこまでが意識的で、どこからが事故的な無意識で生み出された部分かはわからないが、少なくともこのように語る直前に「タイムスリップで過去の災害をなかったことにする」ことの不誠実感への応答として、今作のラストでまざまざと表現されている点は、かなり意識的に描いたのはたしかであろう。

時間を『君の名は。』の頃に戻してみると、「新海誠は、セカイ系的なストーリーラインからは離れてしまったのだ」という筋の批評もあった覚えがある。

セカイ系について記述した前島賢氏の著書「セカイ系とは何か」では、新海誠の「ほしのこえ」についての論評が書かれているように、彼はそういった作風を得意としていたのは事実だろう。(同時に同書ではセカイ系を論ずることがいかに困難かについても書かれている)

今作ではセカイ系的なストーリーライン・・・・自分語りの多さと主人公とヒロインの恋愛が世界の行く末を決定づけるというラインを踏襲している。『君の名は。』では少し曖昧であった部分をハッキリとさせた。それも新海誠の「あえて」の策略なのだろう。

今作のラストを大雑把に言えば、帆高と陽菜の恋愛はうまく往き、世界の行く末は限定的に破滅の様相を呈している。今作がセカイ系であるというのをハッキリと示しているのは、このラストから呼び起されるイメージではないか。

先に述べた前島賢氏の著書「セカイ系とは何か」において、新海誠の作品内のセリフを引用している。

「世界っていう言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」(ほしのこえ The voices of a distant star)

今作において、世界(≒セカイ)とはどこまでの範囲を示していたのだろうか。

帆高はことあるごとにYahoo知恵袋で質問を送るが、ピンとくる答えを得ることなく、コミュニケーション不全を起こしてしまっている。逆に、陽菜と出会い、駆け巡り、次々と雨上がりの空を引き起こしていった東京の地のみが、彼と彼女にとっての世界(≒セカイ)であるともいえよう。

完全なネタバレになるのだが、世界(≒セカイ)が壊れるのは東京のみであり、その他の場所は平然として生活を送っている、むしろそんな東京でもうまくサバイブしてみせている表現もある。

ここで、首都機能はどこにいった?経済不況はどうなった?という疑問の声は、あまり意味を為していない。セカイ系作品の特徴である「社会の描写が排除されている」という部分がハッキリと描写されているからだ。

より距離感をミクロに見てみよう。

帆高と陽菜の恋愛模様、プラトトニックな距離感、メンタル・ディスタンスは「キミと僕」の世界観でありながら、今作は彼ら2人が貧困層にありながらいかに社会や大人らと格闘し、その距離を取るのか?という部分が随所にある。

セカイ系という語義に含まれている周囲社会との軋轢や断裂という手触りより、むしろこの作品は自身と周囲社会といかに接続していくか?について描かれている。2人とも家族などとは疎遠になり、金銭的に困窮し10代そこそこでアルバイトをし、まともな食事にありつけるかギリギリの生活を送る。ネガティブな場面を描くことはあれど、彼ら2人は終始ポジティブな表情でサバイブしてみせる。

こうして書いてみると、あえてセカイ系に寄せて描いてはいるものの、むしろ作風をもじりつつも社会とどのように繋がろうかと試み、その成功と失敗を交互に描いているようにも思える。「タイムスリップで過去の災害をなかったことにする」ことの不誠実感への応答を、リアリティ感ある言葉とストーリーでしっかりと返答しているのがよくわかってくる。

やはり新海誠は、セカイ系というもはや伽藍堂になったストーリー構造からは抜け出した作家だろう。

ココの点が、「『君の名は。』で怒った人が、もっと怒ってしまうような映画。それが今作の最初のイメージだったのかもしれません(笑)」という部分ではないかと思う。そして何より、これは君の名は。の世界線にも影響が出るのである。

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2.「ボーイミーツガール」的作品として
どうリビルドしたか

一旦違う部分に触れてみよう。

報われず、孤独と悲しみに苛まれ、優しさを与えてくれない周りの環境と人物たち。家族からうまく愛を受け止められず、Yahoo知恵袋は答えを教えてはくれない。そうした社会は、帆高と陽菜を捕まえようとする警察や、彼ら2人を見守る須賀圭介と夏美もなかば含まれる。

優しくしあえる存在としての互いを見つめあう陽菜と帆高は、まさに孤独を持ち寄って、癒やすようにして共に生きようとする。プラトトニックな距離感、メンタル・ディスタンスは徐々に近づいていく。

フィルムカップで育てるネギとかいわれ大根を食しつつ、カップ麺とポテチを大量に持ち寄って「御馳走」と宣って食べ合う描写を見たとき、その貧相さに少しの絶望感すら感じた。

おそらく実際、このような食生活を送る貧しい日本人の層がいるという事実を騙すことなく描いてみせたという点、それをこういった大衆向けアニメ作品のなかに描いた点、それは新海にとって大きなチャレンジなのだろう。ここは前作『君の名は。』とは大きく違う点なのは、先に述べたとおりだ。

2人の貧しさから救い出せない社会、その時点で社会というものは、2人の視点に立ってみれば「敵」となる。「社会の規範でいうならこうである」「こちらのほうが合理的である」「法律上それは許容できない」そのような表現とメッセージが、次々と帆高と陽菜に突き刺さる。

vs社会という構図は、大衆向けのボーイミーツガール作品でも頻繁に出てくる古き良き作品構造であろうし、わかりやすい対比構図であろう。

本作にとって疑問符が残る点として、「銃を持った子供が、なぜ鑑別所に行かないのか?」という点がある。「なにをアホなこと言ってんだ!!!!!アニメ作品にリアリティを持ち込むな!!!!!!」という返しもできる。

僕はこう返したい、なぜならそれはメタファーであるからだ。

「見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる」

これはTHE BLUE HEARTSの歌詞だが、帆高も、そして陽菜だって見えない銃を撃ちまくるし、帆高に至っては本物の銃を手にしてしまうわけだ。

自分たちの自由と解放のために、シャレでもなんでもなく人を殺すタイミングを得てしまう。その表現、これこそが本作における「あえての表現」なのだと悟れるだろうか。

自由と解放への渇望、このテーゼをリンクポイントにしているのが本作なのだろう。

ここまで見通してみせるところに、新海誠監督の深さを知れる。セカイ系っぽく見せておいて、、実は大衆向けなボーイミーツガール系のストーリーラインに連結していく。無論、エヴァンゲリオンの大ヒットのおかげですでに示されていた道筋でもあったのだと思えなくもないのだが。

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3.過去の自作品との対峙について

今作を見て、新海誠さんが誠実に自分と向き合ったことを理解しつつも、なんとも意地悪な方だと思わずにはいられなかった。

そもそもの話、あれだけの大ヒット作品の次作にあたる作品で、演出もプロットもストーリーラインも似通った作品を、なぜ「あえて」わざわざ作ったのか?という疑問である。

いかに素晴らしい映画監督だとしても、ここまでハッキリと似通った作品を2作続けて、しかも同じ世界線で作るものだろうか?と考えてしまった。そういった疑問に答えは、自分の中には思いつかない。ファンを喜ばせるためにあえてそうしたのだろうか?

とはいえハッキリしているのは、『天気の子』では、大きい点から小さな点にいたるまで、じつに様々な形で自分の作品と対峙し、引用し、活用し、対比してみせていることにある。現段階で僕が分かる範囲で箇条書していこう。

・『君の名は。』瀧と三葉がいることで、同じ世界線であることが明示されているし、場所も同じ東京都。本作ラストシーンでは卒業式の看板に令和6年の表示があるので、令和3年から3年間の話である。

・瀧と三葉が登場し、彼らの言葉に勇気づけられ、帆高は行動する。

・起承転結のキッチリとした区分けと、その合間にRADWIMPSのボーカル曲が差し込まれるという演出が、『君の名は。』と『天気の子』でほとんど同じ演出としてあげられる。

・『言の葉の庭』執拗なまでに雨の描写がある。これは今作で一躍評価された描写である。ラスト付近で、廃ビルの非常階段が崩れるというシーンがあるが、これは言の葉の庭においてのラストシーンが非常階段での告解と別れのシーンを強く思い出させてくれる。

・『雲のむこう、約束の場所』シナリオなどでは引用などは見受けられなかったが、タイトルそのものがすでに今作をメタファーしている。

・最も意識的に対比しようと試みたのは、『君の名は。』であろう。同一の世界線、巫女、空からやってくるものが世界を変える・・・という点など、だが2作品では決定的に異なる点もいくつかある。

・瀧と三葉にはタイムリープといえる力が限定的にあったが、帆高と陽菜は文字通りに世界を直接的にコントロールできる力・・・雨を止める力が備わっていたこと。

・瀧と三葉は理想的な家族に恵まれてはいるが、帆高と陽菜にはそういった描写が皆無であり、むしろ彼らは擬似的な家族として暮らす描写すらあるということ。

・自然災害というどうしようもない事象から逃れるために三葉を救うのが瀧であるが、陽菜を救うために世界の一部を破壊させてしまうのが帆高ということ。

この対比的な2組のカップルとストーリーラインを、新海監督は時間軸上において同居させたのである。なんと意地悪な・・・と思わずにはいられない。

『君の名は。』ラストで瀧と三葉が出会うのは2022年の春、今作天気の子の舞台は令和3年の2021年の夏だ。つまり、帆高と陽菜は決定的に世界を変えるのだから。このままいけば『君の名は。』のラストは到達しないのである。

そして僕が今作で一番に驚かされたのは、新海誠がこれまで丹念に描き続けてきた美しき新宿や東京の光景を、雨模様のなかで沈没させるということだ。

新海誠は、本作において『君の名は。』を、いやむしろ彼自身のフェチズムをうまく利用し、自身を否定して見せているのである。宮崎駿や、押井守や、庵野秀明が、細田守が、ここまで美しく描けないであろう東京を、何のこともなく破壊してみせる。

まるで「どうだい?これが見たかったんだろう?人を救えない社会なんて壊したいよな?」と言わんばかりに。

とはいえ、帆高や陽菜が苦しめられた貧しい世界を(もちろん東京のみだが)、ラストのラストで半ば沈没させ、新たにリスタートを切らせるという表現は、『君の名は。』でも表現されていたであろう「いかに困難な災害に合っても、うまくサヴァイヴし生き抜く」というメッセージを強固に再提示したのだと言えるのではないか。

「天気なんて、狂ったまんまでいいのさ」

映画途中から、一部のキャラクターはそんなように話すようになる。「本来私たち人間のあるべき姿とは?」という本質的な部分にまで思考を巡らすシーンもある。

東京という世界でも有数に調和の取れた世界を、調和もコントロールもできない天気災害でぶち壊し、予定調和も本来性も失ってしまった壊滅気味の世界へと落とし込みつつも、「それでもうまくサヴァイヴし、生き抜く」というメッセージに仕上げてみせる。

前作も今作も、同じように<空から降り注ぐ災害>が関係している作品ながら、その表現はかなり異なっているのが面白い。

いつ、どこで、なぜ、どのように、僕らが生きていくのか。彼はそういった表現を手に入れるために、過去の自分をも壊し、批判の声の先を「あえて」選んだ。もちろん、こういった批判を「あえて」逆撫でするような手法は、時として大きな物議を醸すだろう。それは2010年代の社会趨勢を見れば明らかだ。誰かがそのやり口を真似するだろうか。

だからこそ今作では、時として大胆に、時として慎重に、『あえての』表現されてもいる。しかしまぁ、意地悪だと思う。心底にそう思う


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