見出し画像

我が事としての発達障害

私のnoteは、元国家公務員でもある自分目線での公共政策に関することの発信を中心にしつつ、もう一つの軸として、我が事として、発達障害について考えたことや知ったことをまとめていきたいと思っています。
その一回目として、発達障害について考えるきっかけや今思うことをまとめていきます。今後は、これまでどういうことをしてきたのか、どういう場面でどういう困難があったのか、そしてそれを踏まえ今後具体的にどうしようとしているのか、といったことにも触れられたらと思います。


発達障害について考えるきっかけ

これまで、周囲に、発達障害と言われるような人はいなかったものの、私も(直接福祉や障害分野に携わったことはないながらも、)障害者福祉分野を所管する厚生労働省の職員であったこともあり、発達障害というものを深くは知らなくとも、
・そういうもの(あるいは、そうと認められる人)が近年増えている、
・一口に発達障害といっても特性の違いや障害の現れ方の違いで色々な人がいる
くらいのことはなんとなく理解はしていました。

そんな私ですが、2020年に第一子(男)が生まれ、彼が2歳になるくらいの頃に、妻が、息子は発達障害ではないかと強く気にしだしました。気づきのきっかけは、色々あったように思いますが、
・一つは癇癪やこだわりの強さ(モノを投げる、特定のおもちゃから離れられない等)、
・また一つは言葉の開始は比較的早かったけれど、他の子よりもどんどん遅れた(また、即時性又は遅延性のエコラリアで親の言葉などを場面と関係なく繰り返す)、
といったことがありました。

成長の速度は人それぞれと思いつつ、相談自体は早めに行った方がいいという思いから、主に妻が自治体などに相談をする形で対応を進めていきました。後に、小児心療科で、重度のASD(知的障害の有無は不明)という診断を貰うことになり、私にとっても発達障害が急に身近な、我がこととなりました。

自閉スペクトラム症(ASD)とは

 言葉や、言葉以外の方法、例えば、表情、視線、身振りなどから相手の考えていることを読み取ったり、自分の考えを伝えたりすることが不得手である、特定のことに強い興味や関心を持っていたり、こだわり行動があるといったことによって特徴付けられます。自閉スペクトラム症は、人生早期から認められる脳の働き方の違いによって起こるもので、親の子育てが原因となるわけではありません。

https://www.ncnp.go.jp/hospital/patient/disease06.html

今していること

発達障害(の傾向あり)と分かってから、すでに2年超経過しているので、その間色々な療育を試したり、そのたび色々な思いを抱いたり、困難にもそれなりにぶつかってきましたが、それらの挑戦や結果は、機会を改めて書くこととし、今回はまず今の状況について書きたいと思います。

本人の状況

少人数の私立の保育園に毎日楽しく通っています。
これに加えて、2歳代から障害児通所受給者証を得て、いわゆる療育を受けています。現在は、通園形式のものと訪問形式のものを使い分けながらやっています。

療育(発達支援)とは、障害のあるお子さまやその可能性のあるお子さまに対し、個々の発達の状態や障害特性に応じて、今の困りごとの解決と、将来の自立と社会参加を目指し支援をすることです。

https://junior.litalico.jp/about/hattatsu/nursi

発達・成長もある中なので、療育などでどんな「改善」に結びついたかの評価は難しいところ(もっと言えば、そもそもそういう評価の対象でないように思っています)ですが、私からは今は、以下のように見えています。
・以前より本人の心は安定し、こだわりや癇癪の頻度は控えめになった
・言葉の数やバリエーションは増えているが、未だにエコラリアが多く、いわゆる会話のキャッチボールにはなっていないこともいまだ多い
・伝えたいことは、言葉以外の身振りなども含めて一応、伝えられることが多くなった
・突発的な行動や「お調子者」な行動が増えた


親(妻や私)の状況

居住している自治体では、自治体と連携したNPOが運営している発達障害児の親のためのサロン(親のための休養の場)が週末に開催されており、よく子連れで参加しています。
また、私の友人の精神科医さんらが、オンラインで知的障害の方の家族や関心のある方等のためのサロンを同様に開催しており、そうしたところにも参加を始めました。
また、4歳ですが、就学に向けて、発達障害を持つ子供の受け入れに定評のある私立小学校や、公立の支援学級などの見学を始めました。


発達障害に思うこと

さて、この投稿の末尾として、発達障害について、今私が思っていることをまとめていきます。

  1. 発達障害で人生を決めさせたくない

  2. 発達障害が社会との摩擦を含む問題ならば、社会側の方向性を変えることで摩擦を緩和することはできるのではないか

1について、発達障害であることを息子の人生の制約にしたくない、と私は思っています。
何を制約というかも難しいところですが、例えば、(障害特性の程度により)通常学級に通えないなど選択肢が狭まるのではないか、と思われますが、これも他の子にもある制約などと本質的には変わらないのではないか、と思っています。
残念ながら、親の所得、家庭環境など、子どもの人生の選択肢を考える中では、様々な制約があると思います。いずれも子どもには責任のないことですが、そうした健常発達の場合にもあることと同じです。ことさらに「制約」であると取り上げることはないと感じています。

私の姿勢は、息子本人に対しては、「発達障害だから仕方ない」で、色々なことを許さない厳しい姿勢かもしれませんし、もっと重度の発達障害(や知的障害も伴うような)場合だったら、こういう考えに至らない可能性もありえますが、一方で、(できれば普通の子のように、)本人の人生の選択肢を親の手で狭めてしまうようには考えたくないという思いでもあります。


2について、発達障害の特性は、他者とのコミュニケーションや関係性の摩擦で強く発現するものだと思っています。そしてそうだとするなら、社会や周りの側が変わることで発達障害の方が生活しやすくなると思います。
1ともつながりますが、(私の認識や希望にかかわらず)息子にもいずれどういう形か様々な選択肢をしなければならない場面や、発達障害に伴い選択自体ができないことを悔やむ場面が実際には出てくると思います。
そうしたことを減らし、あるいは、乗り越えていくには、周りや社会の側も摩擦を軽減できるような仕組みに変えていく方がいいのではないか、と思っています。そうした「仕組み」の中では、周りや社会の側も発達障害の方と付き合いやすい世界が生まれるとも思います。

こういったことをどうしたら少しでも実現できるだろうと今、頭をひねっています。流行の言葉で言えば、DE&I(Diversity, Equity and Inclusion)なのですが、これを実現していく道を考えています。
ぜひ、他の人のアイデアや考えも聞いてみたいと思っています。

おわりに

以上、最後までありがとうございました。
まだまだ、私自身も発達障害について考え始めたところですので、周りの知恵やアイデアを聞きながら、何か息子や世の中のためにできることはないかと考えています。

ぜひ、コメントなどをお寄せください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?