見出し画像

二〇一九年、六月十日④

最初の話→赤に近い備忘録
前の話→二〇一九年、六月十日③

メモを読み終えて顔を上げると、リッコとカエデは眉を顰めながら、悲しそうにこちらを睨みつける。ただただ、重苦しいその空気に息が詰まる。喉の奥をゆっくりと唾が這っていく。声変わりを終えたばかりの新鮮な喉仏がゴクリと音を出しながら、上下する。


「このYってさ、アキラじゃないわよね?」


恐る恐るという言葉がこれ程しっくりくる話し方を俺は見たことがない。カエデは自分の耳を掻きながら、細々とした声でそう聞いてきた。静かな教室に緊張が張り詰める。


「いや、俺じゃないよ」


と言うものの、誰が信じるだろう。俺の名前は、鳥山義昭だ。由人にあだ名争いに負けるまでは「ヨッシー」と呼ばれていた男。間違いなくYから始まるこの名前の自分が、一体どうしてこの『赤に近い備忘録』を書いたYとは別人なんだと証明できよう。


「そうだよね。うん、そうだよ。アキラ君の訳ないって」


リッコの返事もどこか重りをつけたような、のそり、としたトーンの落ちたもので、目の前の2人は今にも泣きそうな顔をしている。


「もう嫌。ヨッシーもアキラも友達のはずなのに、Yから始まるってだけで疑っちゃう自分が嫌だよ」


震える声でカエデが言う。泣いてはいないものの、顔を手で覆い、肩を小刻みに揺らしている。もう泣いてしまう寸前と言ったところか。


「でも、由一さんって可能性もあるわけだろ?」


俺は絞り出すように言う。今の俺から出る発言は言い訳、責任逃れにしか聞こえない情けないものである。どこまで行っても疑わしいのだ。


「入学とか、やたら暑い春とか。それに花子さんの噂だって。こんなの学生にしか、しかも新入生にしか当てはまらない文章じゃない」


俺は口を噤む。


「私だって疑いたいわけじゃないの。でも2人が犯人じゃないって思える部分を探そうとして何度メモを読み返しても、どんどん2人が犯人なんじゃないかって疑念が増すだけ」


唇を噛み、机を見つめるカエデの目元には力が入り、赤く染まる。


「俺が由人を拐うわけないだろ?そんなことをする必要もない」


「そんなのわかってるよ! そういうことじゃない」


今まで押し黙っていたリッコが、我慢ならないという風に、強く鋭い声で俺の懸念を否定する。



「そんなのわかってる」という発言で、俺と目の前の2人の間で認識の齟齬が起きていることに気づく。俺としては、由人の行方を探すことに躍起になっている2人が、容疑者を目の前に構えて問い詰めているような感覚だったのだ。しかし、たった今その考えは否定された。「そんなのわかってる」とすれば、由人が行方不明だということ以外の何に怯えているのだろう。そもそも、このYが誰であろうと、ここまで感情的になる話なのだろうか。

俺はこれまでの台詞を整理しながら考える。森田由太のノートに登場する「あいつ」のように誰かに傷害を加えた訳でもないし、ましてや誰かに向かって暴言を吐いた訳でもない。落書きのような、至極幼稚で短絡的なイタズラをしただけなのだ。そう思えばこそ、不気味なメモではあれど、壁に手形をぺたぺたと付けただけの可愛らしい犯人像が浮かんでくる。それにしては2人の気持ちは強く、事件の大きさと天秤にかけるまでもなく、目盛りが振り切ってしまうほどの入りようだということが分かる。この違和感はなんだ?何が2人をここまで逼迫した精神状態たらしめるのだろう。


ふと、手元のメモを見ると、まだ後ろのページが残っていることに気づいた。なぜここまで気づかなかったかと言えば、それが手書きだったからだ。明朝体の立ち並ぶ文字よりも存在感は薄く、ボールペンの殴り書きによってページの端に書かれていた。


『復讐の1人目は殺した。あとは、もう1人。それで私の炎は消えるだろうか。』


メモを持っている手が震える。可愛らしいとまで思えた犯人像がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。たった今、俺の手の中にあるメモ帳は、本当の犯行予告として生まれ変わった。手に滲む汗が紙にシワを作る。そっと机の上にメモ帳を置くと、もう一度2人の顔を見る。私だって、とカエデが細々と呟き始める。


「私だって、初めは冗談だと思ったよ。昨日の夕方に急にリッコから電話が来て。何か慌てた様子でまとまりなく話すものだから、聞いているうちにお風呂に入るのも遅くなっちゃって。とにかくそんなのは、まだ大した事件も起きてないんだから騒ぐ必要も無いわよ、ってリッコを諭して、今朝一緒に職員室にメモ帳届けに行ったところまでは良かったの」


カエデは、朝の出来事を思い出すように、目線を上に向けて話している。リッコは下を向き頷きながら聞いている。


「そしたら職員室には事務員みたいな先生が数人しかいないし、それに警察官もいて。仕方がないから教室に引き返したんだけどね。何が何だか分からない、ただいつもとは違う異常な感じは肌身に伝わって来たの」


そういえば、朝のホームルームのときに何かザワザワとした空気を感じたような。それに先生が何か言っていた気もする。その時の俺はふわふわとした感覚の中で、ひたすらに由人が見つかることに全精力を傾けていたせいで、それ以上の情報が入ってきていない。


「ごめん、もしかしてホームルームで先生が何か言ってたことと関係があるのか?」


少し落ち着いた雰囲気を感じ取って、俺は遠慮がちに聞く。


「なんでちゃんと聞いてないの」


「なんとなく熱量が嚙み合わないと思ってたけど、朝からずっと何か考え事してたもんね、アキラ君。何も耳に入ってなかったんだ」


「そうは言っても、今回のことは聞いてない方がおかしいって」


あきれ返るカエデと、こちらを案じつつ、ため息をつくリッコ。どうやら俺はどうしようもなく周りが見えていなかったらしい。ぴんと張った糸のように張り詰めた空気感はたわんで緩む。緩んだ雰囲気を締めるようにカエデは低く声を出す。


「先生が何を言ってたか、つまり何が原因で職員室の様子が変だったのか。それはね……」


少し躊躇うように口を噤むと、一度気持ちを落ち着かせるために大きく息を吸い上げ、背筋を伸ばす。俺も、カエデの動きにシンクロするように大きく肩を使い呼吸をする。再び部室全体に緊張感が漂う。

「由一さんが亡くなったことよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?