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「弱い自分」を見つめるということ

通信制大学の後期の学習が再開し、先月末には初めてのスクーリング(面接授業)に出席して来ました。

行く前は、老眼や記憶力、理解力の低下が著しい自分が、丸1日×2日間の長時間の授業についていけるんだろうか、理解できるんだろうかとハラハラ心配していましたが、なんとか無事に参加、事後のレポート提出も無事終わり(単位が無事もらえるかどうかは置いといて)、今は各教科の中間の提出課題(中間試験みたいなもの)に取り組んでいる最中です。

今回はその面接授業の感想を…

心理検査には、知能検査、発達検査、パーソナリティ検査などなど多種多様なものがあるのですが、今回はそのうち代表的な検査の一部を何種類か組み合わせて、自ら被検者となって実施。ペアでやったり、自分自身でやったり、それをグループに分かれて互いにコメントしあったりするというような実習授業でしたが、ハードではあったけど得るところの大きい意義深い体験でした。

そのうち特に私にとってもっとも興味深く、一方で最もストレスフルだったのが、臨床現場でもよく使われているある知能検査の実習。
予想はしていましたが、やはり処理速度やワーキングメモリを測る課題には非常に心理的ストレスがかかり、自分としては成績も芳しくなく、改めて自分の苦手分野や弱い部分を再確認する機会となりました。

診断を受けたわけではないですが、数年前から私は不注意優勢型のADHD傾向が自分にあると自覚しています(多動傾向や衝動性はほとんどないと思っていますが)。
そのために人より行動や作業に時間がかかることや先延ばし癖があること、見通しを立てて動くのが苦手なこと、一方で周囲の空気を読みすぎる傾向や周囲の反応に対して必要以上に過敏なHSP傾向も同時にあり、若い頃不安傾向が強かったり生きづらさを抱えて来たのは、このアンバランスな特性によるものだったと思っています。(もちろん生い立ちなどの環境要因もありますが。)

昭和の頃には、まだ発達の特性が一因となって不適応を起こす人がいるということが、一部の専門家を除いて世間一般には知られておらず、私自身ももちろん今の仕事をするようになるまで、そういう知識はほとんどありませんでした。
そのため若い頃、いつも期限や時間がギリギリになったり、物の管理がちゃんとできずに周囲に心配や迷惑をかけたりするのは、自分が不誠実で怠慢な人間だからだと自己嫌悪や自信喪失状態に陥るばかりの日々でした。

当時そんな私を「天然」の2文字で寛容に受け止め許してくださっていた周囲の方々には本当に数知れないご迷惑をおかけし、今も頭が上がりません!

もっと若い頃に誰かがあなたはADHDの傾向が少しあるよと教えてくれていたら、対策本を読んだり自分なりにソーシャルトレーニングを積んだりして、あるいは専門機関にかかってアドバイスをもらうなどして、心配や怖れの中でビクビクすることなくもう少し楽に生きてこられたのに、と数年前に自分の特性を自覚して「あー、これが原因だったのか!」と生きづらさの理由が分かった時にはしみじみ思ったものでした。

私自身がそうだったように、生きづらさを抱えている人はみんな理由がほしいのだと思います。理由が分かればそれを手がかりに、自分を分析したり生きやすい方法を模索したりして前に進んでいくことができるので。
その一つの方策として、自己理解のために自ら色々な心理検査やパーソナリティ検査を受けて「自分を見つめる」ということは有効な方法かもしれません。

ちなみに知能検査はIQが高ければいいというものではなくて、各分野のバランスの問題が大事だと言われています。むしろIQが高いのに何かの分野がそれに対して極端に低い方が、かえってずっと本人のストレスは強いかもしれません。

たとえば作動記憶や処理速度の得点がめちゃめちゃ高いのに、言語理解の得点がそれに比べてだいぶ低かったり、その逆だったりといったようなアンバランスさを抱えていると、ストレスや生きづらさを抱えて不適応を起こす可能性が高くなってしまうんですね。
(そういう特性のある人にとって職業選択や伴侶選びなどの環境調整は、めちゃくちゃ大事です!)

私の場合は、作動記憶や処理速度が低めということは、あれもこれも同時にすばやくこなすマルチタスクが苦手ということ。
元来こういう苦手さを持った自分が「総合職」と呼ばれるような仕事に就くのは無理があったんだなあーと、あらためて思います。

教科指導に分掌の仕事、部活動の顧問など同時に何役もこなすことが求められていた教員時代と違って、一人一人の子ども達にじっくりゆっくり自分のペースで時間をかけて向き合える今の仕事に就いてからは、確かにストレスが激減、自己効力感も増して、本来の自分の持ち味を生かせているような気がしています。

なんだかとりとめのない独り言になってしまいましたが、自分にとって楽に生きやすい、自分の個性を生かせる場所を探すためには、「自分を知る」=「自分の弱さを知る」ということが大事なんだなーとあらためて思います。

コリント人への手紙 第二 12:9

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

若い頃、自分の「弱さ」が嫌で嫌で、その時出会ったこの聖書の言葉に慰められ、励まされたけれど、本当の意味では、なぜパウロが「弱さを誇ります。」だなんて言ったのか理解できていませんでした。

でも今ならそれがよく分かります。
自分の「弱さ」に気づかなければ見えないものがたくさんあることということ。
弱い自分だったからこそ主に「助けてください!」と叫ぶしかなかったから。
「欠け」だらけの自分でも丸ごと抱えてくださる主に出会うことができたから。

全ての人が本当の自分、本当の居場所、本当に帰るべき場所に辿り着くことができますように!