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象の踊り、虹の教え(1)

 部屋へ戻る頃には雨が道路を激しく鳴らすようになり、身体は完全に冷え切っていた。私はドアを開けると明りもつけずにシャワーを浴びた。首筋のしつこい固まりや、目の奥のふやけた痛みは、ぬるま湯でも癒えていかなかった。脇腹からにじみでる疲れがシャワーを真っ黒に染めていった。

 いっそ眠ってしまいたかった。眠って馬の夢でも見たいと思った。しかしそれはどうやら出来ないらしい。降りかかる水の間を縫って、外から音が聞こえるてくる。私は少し前から気付いていた。それは扉を叩く音だ。

 「早く開けろ」と老人は怒鳴った。「このくそったれめ早くドアを開けろ」
 薄っぺらい木の扉はめった叩きにされ、ねじが今にも弾け飛びそうだった。そのノックの仕方ときたらまるで牡牛の性交みたいで、私は風呂場から飛び出ると慌てて「やめて下さい」と怒鳴り返した。怒鳴る以外にどうしていいのかさっぱりわからなかった。しかし彼はやめなかった。
 「早く開けろ」と老人は繰り返した。「何を言っても無駄だぞ。儂は殴るのをやめんぞ」
 今度は壁が激しく蹴られ部屋全体が軋んだ。私は震え上がって、ただ自分の爪をひたすら噛み続けた。天井から埃が怯えたみたいに次々と落ちてきた。

 「なにをもたついとるんだ、迷っている余裕などないぞ。考えるな考えるな。今すぐ動け、ドアを開けんかこのうすのろが」

 私はドアを開け、こんばんは、とへらへら笑った。糞でも食らえ、と老人は私を平手打ちに殴り飛ばした。

 彼こそが蜂蜜老人だった。

  ■▲■

 私には一瞥もくれず、蜂蜜老人は荒らっぽく椅子へ座った。見た目にも彼は腹を立てていた。彼の占拠した椅子は部屋の唯一の椅子だったから、そこを塞れると、私は立っている以外になかった。老人はじっと私の足を見た。あまりに腹ただしいので私の足の骨を溶かしてやろうと念じている、そういう見つめ方だった。
「この杖でおまえを打つこともできたんだぞ」
 老人は静かに言った。
 私は黙っていた。
「この杖が見えるか?」と彼は言った。
 私は頷いた。赤茶く細い、二重螺旋の杖だった。
 老人は私が頷くのを見て、杖を左手に持ちかえた。「これはどうだ?」
「見えます」
「間にあったわけだな」
 私は曖昧に頷いた。意味がさっぱりわからなかった。
「死にたくなければ動け。おまえの行動は遅すぎる。現実的にも比喩的にも」
「意味がよく分かりません」
「意味など問わなくて良い」老人は言った。「意味を問う暇があったら他の疑問を問え」
 私は答えず黙っていた。

 しばらく沈黙が続いた。蜂蜜老人は椅子に腰掛けたまま、杖を顔の前に立てて向こうの空間を見つめていた。虚ろな目をする彼はもはや、ただの薄汚れた爺に過ぎない気がした。しかし彼は確かに蜂蜜老人なのだ。

 私はメグの教えてくれたことを思い出してみようとした。メグは確かに、蜂蜜老人についての重要な何かを私に忠告してくれた気がするのだ。だけど良く思い出せなかった。私の当てにならない記憶に比べたらふやけた足の皮のほうがずっとはっきりしていると思った。

 目の前に蜂蜜老人がいるのだと思うと、ひどく息が苦しくなった。知らない間に背中全体が汗で濡れ、打たれた頬がびりびり痛んだ。彼の10本の指は完全に干からびており、そもそも彼の全身が干からびていた。時計はどこだっけと思い、ぎこちなく辺りを見回し、そのあいだ老人はなにもしゃべらず、私もそうだった。

 ふと老人は、おまえは藤沢恵と何を話したのか、と私に聞いてきた。私は時計を探すのに専心していて、唐突な「藤沢恵」という名前をはじめ、聞き間違いだと思った。しかし私が聞き返すとそれはやはり「藤沢恵」のことだった。
「あなたは恵を知っているんですか?」びっくりして言った。
「うるさい」老人は杖で私の右足を思い切り殴った。「無駄口を叩くな」
「いろいろなことです」私は言った。「いろいろと、昔のこと」

「ほう?」

「恵は色々なことを教えてくれました.はっきりした事は分からないらしいのです.しかし沢山のヒントを...私がなんのことを言っているのだかわかりますか?」

「わからんわけはあるまい」

 私は怖くてたまらなかったので,無理に自分の口をしゃべらせて,部屋を賑やかにする腹づもりだった.こうして誰かが話している限り,老人がそれを勝手に差し押さえるという失礼を犯してまで,私を攻撃してくるわけがない,と信じていたのだ.

  ■▲■

確かに藤澤恵に関する情報は少なすぎます.あるいは私が彼女を追おうとすることじたい,すでに間違いなのかもしれません.しかし,私にも,私なりに少しづつ考えてきたことがあります.彼女が去って行った先も本当は見当がついているのです.しばらくしたら,いや,そう,明日!明日にでもさっそくそこへ尋ねていきましょう.彼女に会って,一言二言話しさえできれば,何もかもが分かるのです.私が抱えている悩みや謎なんて,そうするだけでたちまち解決してしまうくらいの性質だし,それは総て,今までの私の行動力の無さが厄いしたものなのです.彼女はそういう私に愛想をつかして出て行ってしまったのかもしれません.私はそう考えています.なぜなら私が動きさえすれば彼女に話しを聞ききにいくことが出来,私が動きさえすれば,ギーが心配してわざわざ私の所へ姉の消息を尋ねてくる必要もなかったのでしょうから.そういえば彼女は昔,よく,いらいらして私の足をふくらはぎの方から蹴ったものでした,遅い遅い,と言いながら!今思い直せばそういった彼女の行動は総て,私の行動力の無さに対する抗議の印,暗黙の反発だったのかもしれませんね....

  ■▲■

 「しゃべることは大切なことだ」老人は言った.「黙っているあいだにしゃべれ.決して考えるな.考える暇に動け.動け.動け.たえずしゃべっていろ.

 そしてこの儂は教えてやろう,きさまは今の所,完璧に間違っている.藤澤恵に関しておまえが考えていることの洗いざらい総ては,目下,今の所,ものの見事に的外れだ!」

 「どうしてそんなことがあなたに言えるんですか!」私は絶叫した.

 ■▲■

 愚かな昆虫みたいに上を向いてキィキィ鳴いたものだから,振動で埃がまた私の顔に振りかかってきた.それを見て蜂蜜老人は今度こそ本気で,私をぶった.杖で私の臑を折らんばかりに叩き殴った.私は言葉も出せずにその場にうずくまって泣いた.まったく酷い仕打ちだと思った.しかし怖くて口に出せなかった.

 「考えた罰じゃよ」老人は言った.「きさまのこすっからい,ちびた身体はものを考えるのにふさわしくない.せいぜい動け.動け.おまえにできるのはそのくらいだ.きさまは動くことで結果的にものを考えればよい.きさまにはそれしかできはしない.しかし動くことは難しい.動いて何も変えられんのならば,それは静止よりもよほどたちが悪い.儂はきさまにこの難しいことを断固要求する!」

 私はずっと泣いていた.もう老人の言うことなど聞きたくもない,ただ丸くなって眠りたい.しかし彼の前にひれ伏しながら,いつまでも泣いているわけにはいかない.老人はそのことを決して私に許したりはしないだろう.

 私は仕方なく,ひん曲がった臑を摩りつつ立ち上がり,意思も感情もすべて掌握され切った目で老人をおどおど見上げ,卑小に彼のことばを待った.老人は私がそうするのを無感動に眺めわたし,彼の関心事といえば,私を殴ったことで大切な杖が曲がったりはしていないか,ということだけだった.その証拠に彼は私をにらみつけていながら,杖の柄の部分を気にする素振りでしきりにちらちら盗み見しているのだ.

 ■▲■

 「それから?」しばらくして老人は聞いてきた.
 「それから...?」私は言った.しかし私にはもはや話すべき何も残っていない.私がまがりなりにも人に語って聞かせることの出来る話しの総てはもう,この老人に嘘だと言い渡されてしまった.

 あの日以来の私の生活総てとその生活の中で考えたこと総て.それらは何らかのかたちで藤澤恵に関連している.藤澤恵から紡いで出る糸の末端なのだ.目下,私が藤澤恵に関する総てのことがらにおいて見当違いをしでかしているのならば,もう私には夢も見ずに眠ること以外残っていない.夢さえ私にとっては彼女への手がかりなのだから.

 それでも私は,蜂蜜老人が激昂するのを恐れて必死で話題を探した.臑の痛みに震えながら,彼好みの,そしてわたくしの意見など微塵も入り込んでいない単純なおしゃべりの話題.彼の反感を招かない,決して私を追い詰めない無難な話題...

 やがて私は,藤澤恵がかつて私に語って聞かせた,不思議な話しを思い出した.この話しを思い出しながら,私は私の口にだけしゃべらせて,本人はその間眠ってしまおうと考えた.これは良い考えに思えた.もう2度と杖で臑をぶたれるのは嫌だ.これ以上ぶたれたら私はもう泣き止むことなど出来ないだろう.だから口だけにしゃべらせて,思考を止めてしまえば良いのだ.

 私がこのように計じていると,老人は床に杖を,こつ,と打ちつけて私を威嚇した.私は震え上がり,さあ今すぐにでも話し始めようと口を開いた.

「それから...突撃将軍のこと!」

 するとたちまち蜂蜜老人に奇蹟が起きた.老人は白目を剥いて笑い始めたのだ.

  ■▲■

 それはひどく甲高い雄叫びのような声で,彼はテーブルの上に飛び乗ったり,杖を四方に振りかざして自分の頭を激しく揺すったりした.部屋じゅうが激しく波打ち,硝子戸は割れそうに軋んだ.私はいきなりの異変に逃げられもせず,後ずさりながら彼の動作をただ凝視していた.

 いまや老人の口からは泡が噴き出し狭い床ぜんたいがもんどり打って喘いでいる.倒れかかってきた冷蔵庫を私はあわてて体ごとで支えた.私には彼が苦しがっているのか,そうでないのかが全くわからなかった.彼の手足は紙っペらのようにひらひら空中をさまよっているのに、そのくせ目の光は私をまっすぐにとらえているのだ。

 見ると少し開いた部屋のドアから奇妙な動物がこちらを覗いていた.片手をノブにかけたまま,私のことをじっと見て手招きしている.私はふらふらとそちらへ導かれた.新鮮な空気がたまらなく吸いたかった.ここから飛び出したい気持ちでいっぱいだった。しかしそうするとたちまち,老人の騒ぎが激しくなった.私のほうを向いて必死に口を動かし、喉の奥からすうすうと息を絞る,それはちょうど老人が私に向かって何かを伝えようとしているしぐさに違いなかった.

 大きく剥かれた目はこちらをまっすぐ見つめている.思わず駈け寄って助けようとしたとき,その動物は私の腕をふんづかみ,私を部屋から無理やり引きずり出した. 

  ■▲■

 動物は急いでドアを閉めると、腕を回して私を抱え,腹の中に私をしまいこんだ.そうして走り出したのだ.猛烈な早さで.私は途中,窒息して何度も気を失いかけた.しかしその度に奴は私の耳を噛んで目を覚まさせた.窒息しても苦しくはなかった.奴の強い後ろ足が地面を蹴る音は耳の奥に直接響き,それが意識と痛みの回路を少しずつ切り続けているからだ.

 それは柔らかい土の上を強靭に跳ねる疾走の音であり,脳の内奥を少しずつ殴りつけるためのゆるいハンマーだった.ハンマーによって意識がふやけ,何の感覚もないまま遠い気持ちになり,次に耳の痛みで目を覚ます,その繰り返し.動物の腹から解放されたとき,私はすっかりへとへとになっていた.

「おまえ,あぶないとこだったぜ」動物は言った.「奴につかまっちゃおしまいよ」
 私は地面に放り出された.虚ろだった.苦労してただわけもなく頷いた.頷くことが全く身体にこびりついていた.
 動物は後ろ足で,土の上に転がっている私を2,3度つついた.
「おい大丈夫かよ」奴はいった.
「そんなことじゃ突撃将軍に勝てやしないぜ」 

 畜生なんて一日だ!私は叫んだ.こいつも突撃将軍の関係者なのだ.

 続く。

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