見出し画像

鴉の蠱惑


 初秋の昼下がり。週末から、かろうじてコップの位置が変わったくらいしか変化のないワンルームの窓際で本を読んでいた。季節の移ろいと共に、哀愁に似た色気を帯びた風が、カーテンレースを揺らした。今、ハマっているのは「沖縄密貿易の女王 ナツコ」という、アメリカ統治時代の沖縄を描いたノンフィクション本だ。それに、その他にもまだ読みかけの本が十冊近くもあるので、少しでも読み進めたかった。
 ゴォー。
 エアコンの稼働音がいつにも増して耳障りだ。三十路に近付いてきて気付いたことだが、大人になると、自分の意思だけで身体が動いてくれることが減る。今日は典型的なそういう日らしく、つまり意気込んで早々に、集中力が切れてしまった。深呼吸の後に、鼻先で持て余した生命を霧散させるようにゆっくりと部屋を見渡し、広げたままの布団やシンクから覗くコップに刺さったお箸に目をやる。
 聴きたい音楽がある。描きたい絵も丘ほどある。家事は、山ほど残っている。
 あぁもう、お前らなんかもう知らない。世界を置き去りにしようとした、否、ふて寝をしようとしたその刹那。
 ヴァァァァ、ヴァァァァ。
 もはや鳴き声ではない、呻き声や嬌声にも聞こえる鴉の声が、住宅街を揺らした。半ば強制的に明るくなった意識を、窓の外で漂う鴉に委ねるように、横たわってみる。すっかり家事のことなど頭から弾き出された私の部屋に、突如として入り込んできたその、喜怒哀楽のよく分からない鳴き声は、不思議と心地よかった。普段は怖くて見つめることすらできないが、鴉は好きだ。特に声が好きだ。同じ鳴き声の者は一匹もいないのではないかと思うほど、多様で面白い。
 カーテンレースがふわりと膨らみ、ヴァー!と一際、大きな声が聞こえてくる。
 先週作った栗ご飯や、某揚げ菓子店のさつまいも味で、もうすでに季節を堪能した気になっていた私を嘲けるように、鴉は秋空を切り裂き飛び去っていった。

 あれは、夏鴉になるのだろうか。夏の鴉はいつもよりもひと周りくらい大きく見える。いつかの夏の日にたしかに感じた、熱気で滲む灰色の風景と、静寂な血気が生み出した亜空間を思い出す。そこでは、どこか焦点の合わない炯々とした瞳が浮かび上がり、軽やかな曲線が描いた漆黒は、照りつける陽をすべて飲み込む。コンクリートに佇むあの、妖しい存在には、街中の煌びやかな人々を差し置き、全神経を支配する罪深さがあった。
 …ァァアア。……ァァア…。
 恩師は元気だろうか。今は亡き祖父は、私の手紙を読んだのだろうか。そもそも、手紙はちゃんと施設に届いたのだろうか。記憶の中で繋がることしかできない人たちに、思いを馳せる。段々と、横たわる痩身が重みを増し、それに対応したウレタンが、グッと輪郭を濃くした。

 さっきまでの私はどうかしていた。あんなの、ただの黒い鳥じゃないか。
 ゴロッ。
 一物を消化したい腹が、大袈裟に鳴ってみせる。今日の予定は一日中、家に籠って、絵やら本やらに没頭つもりだったが、この今にも爆発してしまいそうなエネルギーを何とかすることが先決するべきことのように直感した。
 私はその無責任で衝動的な命の躍動に身を任せ、まるで最初からその予定だったかのようにサッと着替えると、小さなバッグに財布と携帯だけを入れて、そのまま外に飛び出した。

 こんなに気分がいいのに、傍から見れば異様な雰囲気を漂わせているらしい私の斜め前方を、若い女性が目を泳がせながらそそくさと通り過ぎた。
 あの人は、一体何を愛しているのだろう。一心不乱に、愛することが出来る人なのだろうか。"普通"の人が放っているあの、世界に対する圧倒的信頼感からくる無垢な息遣いは時に暴力的だ。やんわりと、しかし確実に、私の不安定な、そして異様な自我を跳ね返してくる。私はあれを憎みながらも、近付くことが出来ないそれに、強く憧れている。跳ね返され続ける欲望たちは、いつしかすすのように真っ黒く積もっていくが、しかし、シャワーの下で重たい表皮を撫でてみると意外にも、カラフルな顔を見せる。何だか愛おしくなってきて、時にはそのまま栓をしてズブズブと、全て終わらせてしまいたい衝動に駆られるが、それでも、醜いとも美しいとも形容することができないその液体たちを「ゆく河の流れは絶えずして」という究極のルサンチマンである有名な古典の一説を反芻しながら、私はただ眺め続けていることしかできない。いつだって、ルサンチマンの超克は忘れたころにやってくる。でもさ。
 いや。無心、無心、無心。
 はあぁぁあ。心が無い、とわざわざ言葉で残すなんて、人間はなんて愛おしい生き物だろう。大事な何かが閉じ込められた、六つの空洞を囲った線上で、欲望が右往左往しているその単語に支点を置き、少しだけすり足気味に足を運んだ。
 余談だが、私は幼少の頃からトリップ癖があり、いつしかその辻褄を合わせるための癖が、場面に応じてどんどん増えてきた。感情には理性で対応するように、頭には身体で対応する必要があるからだ。要するに、妖怪の一歩手前というわけである。
 気が付くと、私は駅前に着いていた。今日に限って人通りが少ない。ちなみに、先ほどの無心の呪文は生憎効果が出ず、つまり虫の居所が悪いので、着いて早々だがすぐにでもこの場を去りたくてウズウズしていた。瞬間、あまりの居心地の悪さにいっその事、電車に飛び込んでしまいたいと無意識に念じていたのだろうか。私の身体は無意識に視界に入ったセブンイレブンがある斜め右、四十度くらいに位置する駅のホームに向いており、そして手前の駐輪場で自転車に乗ったまま硬直している老人と数秒、目が合った。
 ガタンゴトン。
 ぺっ。
 なんと、目の前で痰を吐き捨てたではないか。こんなの…。こんなの、子泣き爺の方がよっぽどマシだ。泣くことも怒ることもできない左手がピクピクと二、三度痙攣した後でふと、先日、訪れた小豆島の妖怪美術館で見た子泣き爺の、不気味に浮き出た厚い瞼が脳裏に浮かんできた。太陽が照りつけるロング丈の髪の毛に熱を残したまま、表皮が体感、三度ほど下がる。暗闇の中で、一歩ずつ近付くにつれて陰影がはっきりと視界に収められたあの数秒の間、私は懐かしい感覚に狼狽えていた。年に数回、泊まっていた祖母の住むあの古いトタン屋根。真夜中に一人で、あの寒々しい半地下のようなトイレに向かう途中、ギシギシと軋む廊下と、鼠の鳴き声が招く世界。天井の高さも相まって、突然、異世界に迷い込んでしまったような気がした。そう。まさにそこでの体験は、このままこの時空に閉じ込められて、現実に戻って来れないのではと思いながら排泄していたあの盆と同じものだった。不本意に、モデルルームの正面に立つ低木のように照らされた重たいまぶたがより、哀愁を漂わせる。初めての離島旅ということで、かなり時間をかけて回ったはずが、子泣き爺の石像のインパクトでそれ以外の記憶はほとんど残らなかった。あの石像のほうが、よっぽど血が通っているのではないか。
 言葉にならない嫌悪感に支配された私は微動だにせず、その間に、自転車爺は去って行った。

 …あ、鴉。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?