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正解はない…のでしょうか、本当に?

さればこそ語についてくだした定義はすべて徒労である; ものを定義するにあたって,語から発するのは,よくない方法である.

ソシュール『一般言語学講義』小林訳, p. 27

このnoteは「ゆる言語学ラジオ」への批判ではありません。


前提

以前、「ゆる批判」の実践としてこういう記事を書いた:

このnoteの冒頭にも書いた通り、これはもともと “「ゆる言語学ラジオ」に望むこと、あるいは望まないこと” という記事の一部として書いたもので、長くなりすぎたので「おまけ」という形で別の記事に分けた。ただ、それ以前にも一度書こうと思って、もろもろ読み直したりしていたことがあり、前半部はそれが元になっている。

ここでその内容は繰り返さないので、未読の方にはまず上のリンクから進んで、読んでもらいたい。あるいは過去に読んだ方も、改めて読んでもらった方が話の流れが追いやすいかも知れない。読むのは前半部分だけで構わない。

読んでいただけただろうか。

さて、なぜ数ある動画の中からこの動画の内容を「ゆる批判」の対象に選んだかをここに述べておくと、まず一つには単純に私がプラトーン(そして当然作中のソークラテース)とソシュールが好きだから、言及されるのであれば正しく紹介され、正しく読まれてほしいというのがひとつ。

また、動画でのまとめ方をやや抽象的に一般化すると:

X : 「Pが正しいという人もいるし、Qが正しいという人もいるが、私にはどちらが正しいかわからない」
Y: 「Pが全くないというわけではないけれど、おおむねQが正しいと言える」

という元の内容から、太字の部分だけを抽出して、

X: 「Pが正しい」 vs. Y:「Qが正しい

という構図に落とし込んでいると言えると思うのだが、これが許されるのであれば、引用元の主張がなんであろうと、いかようにも捻じ曲げることができてしまう。これが問題視したもう一つの理由で、以上の二点から、少なくとも私にとっては全動画中最も問題のある、指摘すべき内容に思われたのだった。

kotoba 「萌える言語学」

『kotoba』という集英社から出ている季刊誌がある。この雑誌の2023年秋号の特集は「萌える言語学」ということで、言語学にスポットが当てられている(過去の号を読んでいないので把握できていないが、雑誌のタイトルからして「言語学」自体は恒久的なテーマなのかもしれない)。「ゆる言語学ラジオ」のお二人や、この番組のリスナーにはおなじみの先生方が寄稿されていたり、インタビューに答えたりしていて、なかなか豪華である。どれも読みごたえのあるものなので、広く言語学に興味がある人にはぜひ手に取ってほしい。電子版も購入できるようになった。

さて、その特集の頭を飾るのが「ゆる言語学ラジオ kotoba 編」と題された、水野さん堀元さんへのインタビュー記事である。「現在の言語学人気は「ゆる言語学ラジオ」を抜きにしては語れない」という言葉から始まっていることに象徴されるように、この特集全体が「ゆる言語学ラジオ」を中心に構成されているように見える。

その前半、堀元さんに対して「言語学はおもしろいんじゃないかと思ったきっかけは」という質問への回答として、件の動画「ソシュールVSソクラテス」が挙げられ(ちなみにインタビュー記事の題字の背景もこの動画中の一シーンの切り抜きである)、動画の内容が次のようにまとめられている:

〈内容〉
・古代ギリシャの時代から音に意味があるのかという議論はなされていた。ソクラテス(紀元前四七〇年頃~紀元前三九九年)は名前とそれが示す具体的な事物には必然的な結びつきがあると主張していた。
・「近代言語学の父」ソシュール(スイスの言語学者、一八五七~一九一三)の主張は、それらに必然的な結びつきはない。つまり、「音に意味がない」。
・音象徴によると母音「お・う・あ」は大きいイメージを、「え・い」は小さいイメージを与えるとされる。

正直に言うと、これを最初に読んだとき、私は強い脱力感に襲われた。そして、虚しくなってしまった。

と書くと、「ゆる言語学ラジオ」のファンの方々からは、「また批判か」と言われてしまいそうだ。しかし、冒頭に書いた通り、この記事の目的は批判ではないので、先んじて私なりに擁護を試みておこう。

このインタビュー記事で例の動画に言及しているのは先述の通り堀元さんだが、内容に関しては水野さんもチェックしているだろうから、ここでは二人を区別せず「ゆる言語学ラジオ」とまとめておく。「ゆる言語学ラジオ」による私の「ゆる批判の試み」記事の受け取られ方は次のいずれかと考えることができる:

  1. そもそも読まれていない。「本編」は読んでもらったが、「試み」記事の方は読まれていない可能性がある。読んでいないのだから、記事内で指摘したことは反映しようのないことである。

  2. 読んだけれど、忘れてしまった。最近の「ゆる言語学ラジオ」での話を聞いていると、お二人とも過去に自分が番組内で話した内容を覚えていないという話題が出てくる。私の記事も読んではもらったが、どんなことが指摘されていたかは忘れられてしまったのかもしれない。

  3. 読んだうえで、私の指摘は妥当ではない、動画の内容をそのまま踏襲しても問題ないと判断した。私だって無謬の絶対者ではないので、私の指摘が間違っている可能性はある。指摘を読んだうえで、なお、自分たちの動画の内容は問題ないという判断なのかもしれない。実際、このnote執筆時点でも、元の動画の方には特に訂正のコメントなどはついていない(そして再生回数は20万を超えている)。

もし、3. なのであれば、きちんと反論してほしかったというのが正直なところである。私の間違いが正されるし、私の記事を「信じてしまった」人を減らすことができる。1. または 2. であるならば、やはり指摘することの「虚しさ」を感じてしまうというのは素直な気持ちである。が、「目に入らない」のも仕方ないことだし、「忘れられてしまう」ことも仕方ないことではある。記憶力に関しては、私も他人のことは言えない。

さて、このnoteが「ゆる言語学ラジオ」への批判記事でないのなら、何のために書いているのか。一つには、今回の出来事をきっかけに、そもそも何のために「批判」をするのか、改めて自分なりに問い直し、ここに現時点での自分の考えをまとめておきたいと思ったからである。もう一つの理由は後述する。タイトルから示唆されるように、この記事は「正解はないけれど…」の続編である。

本題

批判は何のために行われるのか

「ゆる批判」関連の記事が多く読まれたことで、いろいろな指摘をいただき、反省すべき点もたくさんあったのだが、一方でまたうまく伝わっていないと感じたこともあり、「ゆる批判」概念について改めて次の記事にまとめなおした:

私はこの記事の中で“「ゆる批判」で避けるべきこと”として反応をもとめることをあげ、こう書いている:

あえて批判する人というのは、多少なりとも発信側に修正を期待したり、あるいはその批判が妥当でないという再批判を期待するのが人情であろうとも思うのだけれど、残念ながら、必ずしも反応があるとは限らないというのが実際のところだろう。

自分で書いて、自分が当てはまっているようでは世話はないが、虚しさを感じる一つの理由に「彼らに修正を期待していた」というのはあるだろう。しかし、それだけだろうか。先の引用個所に続けて私はこう書いた:

すべきことで述べたように、「ゆる批判」は批判対象だけではなく、その発信の受け取り手を含めた環境全体に益することを目的に据えたほうがよい。であれば、仮に批判を向けた相手から反応がなくても、その批判を公開することで、それが第三者の勉強になるのであれば、それだけで意義があると考えたほうが気が楽である。

なぜ批判するのか。批判は何のためになされるのか。その主たる目的は、俗説・謬説の発言者を糾弾し、罰するためではない(そういう意図の批判もないとは言わないが)。俗説・謬説の類を(学術的な裏付けのあるものとして)信じてしまった人たちの思い込みを修正するためであり、さらなる拡散、定着を防ぐためである。現時点での研究成果を一般の認識にも広めるということは、将来その専門分野に進むかもしれない人たちへの種まきでもある。

中には、そんなことは余計なお世話だという人もいるかもしれない。専門家でもない一般人が俗説・謬説を信じて何が悪いのか、少なくとも自分は気にしない、と。価値観は人それぞれであろうから、それをあえて否定しようとは思わない。一方で、専門家でなかろうと、自分が信じているものが間違っているのなら正しいことを知りたい、学術的にはどう説明されているのか知りたいという人が一定数いることもまた事実であると思う。専門家による批判というのはそういった人のために行われているとも言える。そもそも、世に俗説が広まっているときに、それをたださずに沈黙を貫いていたらいたで、「専門家の責務を果たせ」と言われてしまうのである。その指摘が自分に向けられていなくても「目に入っただけでうっとうしい」と思う人もいるかもしれない。自分が楽しんでいるものを「否定」されたら、楽しんでいる自分までもが否定されたかのような気になるのも理解できる。しかし批判の目的が広く一般に届けることである以上、「望んでいない人だけには届かないようにする」というのも無理な話だろう。

「ゆる批判の試み」記事に関しても、私はそう捉えている。「ゆる言語学ラジオ」が無反応だったとしても、この記事が届く人に届けば、無意味ではないだろう、と。

「ゆる言語学ラジオ」から学ぶこと

とはいえ、そこにはやはり厳然たる「影響力」の差がある。かたや登録者数20万のYouTubeチャンネルであり、それに対して私の「試み」記事のビュー数はせいぜい数千レベルのものである。そこに紙の雑誌が後押しするのである。『kotoba』の発行部数はわからないが、「紙の本」によるお墨付きが与えらえるのも影響は大きい気がする。

実のところ、私が「ゆる批判記事」を書いた時も、本人たちから何らかの反応があることを期待していたわけではなかった。当時からしてすでに彼らは強大なコンテンツになっており、あたかも象に向かって消しゴムを投げるような気持ちであった。しかし、結果として本人から反応をいただき、それがきっかけとも思われる変更点や新しい企画も発表された。それに関しては、もちろん「ゆる言語学ラジオ」のファン全員ではないだろうけれど、一部のファンからも好意的な反応が見られたこともあり、ある種の「成功体験」になっていたのかもしれない。

しかし実際には象がこちらを振り向いただけで、象を囲んでいる人たちにはまったく気づかれていないままだったのかもしれない。『kotoba』に校閲の類が入っているのかはわからないが、少なくとも私の記事は編集の目には入らなかった、あるいは目に入ったとしてもとるに足らぬものと判断されてしまったのだろう。

これは(おそらく)私の記事とはまったく別の文脈だが、「(ゆる言語学ラジオに)文句があるなら、まずは同じくらいの登録者がつくコンテンツをつくってから言え」という意見を目にしたことがある。たしかにそうなのかもしれない。

例の「ゆる批判の試み」の記事は、私の書いた note 記事の中では読まれている方ではあるけれど、それでも「本編」と比べると、ぐっと少ない。これは、本編からの誘導の仕方が悪かったということもあるかもしれないが、そもそも「本編」も記事を開いた人のうち最後まで読んだ人は存外に少なく、「ゆる批判の試み」記事と同じ程度ということなのかもしれない。

批判というのも、結局は読まれないと意味がない。そもそも、それはモグラたたきのようにキリのない、地道な作業ではあるけれども、読んでもらわないことには、人の目に入らないことには、存在しないも同然なのであり、つまり無力である。

ここでようやくこのnoteを書いた目的にたどり着く。なぜ、わざわざ「このnoteは「ゆる言語学ラジオ」への批判ではありません。」という前置きまでしながら、「ゆる言語学ラジオ」の話を繰り返しているのか。それは、ゆる批判の試み:ソシュールとソークラテースは対立するのか|を読んでほしいからである。そして、あわよくば、プラトーンの『クラテュロス』を、ソシュールの『一般言語学講義』の原書をみずからひもといて欲しいからである。

もし、あなたの周りに「ソクラテスは音に意味があるって主張したんだよね」「ソシュールはソクラテスに負けたんだよね」と言っている人がいたら、私の記事を紹介してあげてほしい。あるいはそれが嫌だというなら、自分なりに解説して、誤解を解いてあげてほしい。

正解を求めて

非専門家による発信が容易な世界で、専門家はそういったコンテンツとどうつきあっていくべきかなのか、というのは私がずっと抱えているテーマである。その問題意識について「正解はないけれど…」というタイトルで記事を書いた。(そうしたら、自分で「正解はない」と言っておきながらなぜ「ゆる言語学ラジオ」の「間違い」を指摘できるのだ、という反応をもらったりもした。難しい。)

結局のところ、俗説・謬説が視界に入ったら、そしてそれが一定の影響力を持って広がっていきそうであれば、できる範囲でその都度、訂正を試みていくしかないのだろうと思う。では、どうやって? できる範囲でとはどの程度? そういった問いへの私なりのひとつの回答が「ゆる批判」である。それは「正解」ではないかもしれない。しかし、それも求められているとは思う。実際、私の記事にもそういう旨のコメントを複数いただいた。

「批判」をするときには、俗説・謬説そのものを批判すればよいのであって、わざわざ発信者を名指しで晒し上げる必要はない、という意見もあるだろう。これはその通りである。批判者みずからが影響力、発信力を持っているなら、その方がよいと思う(明らかに特定の人が想定されているのに、あえて名前を伏せることが、かえって失礼に映る懸念もありはするが)。

けれど発信者と批判者との間に、大きな影響力・発信力の差がある場合、発信者の名を借りて、つまり発信者の影響力に便乗して、批判を発信するのも仕方ないかな、と考えるに至った。せっかくの批判も届いて欲しいところに届かなければ、存在しないのと同じなのであるから。そして、その俗説・謬説に触れた人が多いところ、情報拡散のハブになっている箇所に言及しておくのが一番効率がよいだろう。

私の例で言えば、この記事も含めて「ゆる言語学ラジオ」のネームバリューにただ乗りしている、という批判もあり得るだろう。正直なところ私も「ゆる言語学ラジオ」関連の記事ばかり読まれるのは、後ろめたさもあって素直に喜べないところがある。とはいえ、それを言い出したら、そもそも「ゆる言語学ラジオ」のコンテンツ自体が、言語学(や他の学問領域)の研究成果の積み重ねを利用して作られているわけで、それをまた言語学(や他の学問領域)の知識を伝えるために再利用させてもらうのは、見方によっては Win-Win と言えるかもしれない。

ここでも改めて繰り返すが(そしてこの先も何度もしつこく繰り返していかないといけないのだろうと考えるようになったが)、私は非専門家による発信には肯定的な立場である。自分のおもしろいと思ったものを人にも伝えようとするのは崇高な行いであり、また、他人に伝えようとすること自体が自身の勉強にもなる。学問そのものがそういった営みによって発展してきたと言ってよい。しかし、そういった場を健全に保つためには、批判し合える環境を維持することもまた必須だと考えている。

「ゆる言語学ラジオ」のような活動が、いままで言語学を知らなかったような層にも興味をもってもらうことにつながっている、つまり言語学の裾野を広げているんだ、という意見も目にする。そうだとしたらそれは素晴らしいことで、そういった活動には確かに価値がある。しかし、ただ裾野を広げるだけ広げて、その上への積み重ねがなければ、それはただもとある山を切り崩しただけのようなものである。裾野を広げたからにはその上に次のステップとなるような山を積み重ねて、道を整備しなくてはいけない。あるいは、これから言語学の山に登ろうという人が、その入り口で海へと顔を向けていたら、山へ向き直してもらわなくてはいけない。水着で山へ登ろうとしていたら、登山用の装備を整えてもらわなくてはいけない。批判とはそのために行われるもののうちの一つである。もしかしたら、本当に海へ行きたい人、あえて水着で山に登りたい人にも、批判は届いてしまうかもしれない。その際は、余計なお世話だと無視してもらえればよい。

補説

なんとも間の悪いことに、私がこのnoteの準備をしている間に、「ゆる言語学ラジオ」が悪い意味で話題になってしまった。中村さんによる「ぷぴちょ」説への批判である。私からすると、これはべつに「ゆる言語学ラジオ」が「炎上」しているわけではないと思うのだが、そう見えている人にはこの記事が「追い打ち」をかけているともとられかねないし、多少、この記事の内容とも関係するので、それにからめていくつかの論点について、改めて私の立場を書き留めておきたいと思う。もちろん、私は別に「専門家」側の代表ではないので、どこまでいっても私見に過ぎない。ほかの記事でも繰り返し述べているところではあるけれど、「専門家」の諸先生方のご意見ご批判を切に乞うところである。

意見は人様々

今回のことに限らず、またSNSに限らないことかもしれないけれど、「炎上」なり「BUZZ」なりと言われているものは、それが伝達される過程で、間に入る人たちが様々なコメントで肉付けしていくので、元の発言にはなかった文脈が雪だるま式に増えていく。その塊があたかも元の発言者の意図であるかのように誤解されたり、特定の集団の総意であるかのように受け取られてしまう。もちろん、実際にはそんなことはない。そして、あちらこちらで「そんなことは言っていない」ということが起きる。おそらく言っている人はいるのである。しかし、言っている人への反論が、言っていない人に届いてしまう。下記に続ける私のコメントは、なんとなく眺めていて目に入った意見への私なりの回答ないし解釈だが、実際にはそんなこと言っている人は私がたまたま目にしたその人だけかもしれないし、あるいは複数人の意見をまとめ上げた結果、その誰のものともずれた意見になっていることもあるかもしれない。

「ゆる言語学ラジオ」への批判が広まった時、そもそもこの活動に否定的な人はさておき、好意的な人たちの中でも様々な反応があり、大雑把に次のように3つに分けられる:

  1. より正確なことも知りたいので、補足的な批判はありがたい。こういう指摘をどんどん専門家側からしてほしい。

  2. 彼らの活動はあくまでアウトリーチなので正確性までは求めていない。無謬を求めるような批判は不要。

  3. 我々は別に言語学に興味があるわけではなく、エンタメとして楽しんでいるので一切の批判は不要。

もちろん、個々人で細かい違いがあるので、中間的な人もいるだろう。本題部分でも書いたことの繰り返しになるが、「批判」というのはこのうち 1. に当てはまる人たちの要望に応えるものである。もちろん、それ以外の人にも届いてほしいこともあるけれど、求めていない人がそれを受け入れるのは難しいだろう。だからと言って、2. や 3. の人が 1. の人の要求を邪魔してよいわけではない。

「批判」という言葉

この言葉が日常的には否定的なニュアンスを帯びているのは事実である。しかし、ここではあくまでも学術的な文脈での用い方を踏襲したい。つまり「よいものよいと評価し、悪いものは悪いと評価する」ことである。この意味で「建設的な議論」に供するものである。他方、相手の欠点を咎めたり、責めたりすることに特化した意味では「非難」という言葉を当てたい。しかし、そういった意味での「批判」でも、実際にはよい面については紙幅をさいて議論する必要はあまりないので、例えば「9割よいが1割まずい」といったものに対して、批判にさかれる分量は「1割褒めて、9割は問題点の議論」という配分になりやすい。論文誌に載るような学術書の書評などはそのよい例である(これは人文・社会系に顕著な傾向らしいと教えてもらった。他の分野ではそうでもないのかもしれない)。だからこそ「批判」そのものがネガティブな意味を帯びやすいとも言えるが、それはそういうものとして、批判中に言及されていない点は評価されているくらいに読み替えた方が精神衛生上良いかも知れない。

そういった意味で「批判」を使うのは勝手だが、問題にしているのは批判という体で発せられる「非難」あるいはそうとすら言えないただの悪口雑言の
類だ、という人もあるかもしれない。もちろん、その通りだとしたら、その「批判」に問題がある。それに対しては正々堂々と批判してほしい。少なくとももし私の発言がそうであるということであれば遠慮なく批判してもらいたい。

批判内容はもっともだが、「ゆる言語学ラジオ」側の気持ちも考えてほしいというような意見も目にする。発信者も一人の人間であるのだから、批判するにあたっても敬意を持って接すべきなのは当然である。ただ、同様に、学問にもそれを研究し、成果を積み重ねてきた多くの人たちがいることを忘れないでほしい。あらゆる言語にはその話者が、当事者がいるということにも同じように思いを馳せてほしい。

学術とは答えではなく方法論の集積

学問の究極的な目標を考えた時、その営みは「真理の探究」と言い換えることができると思うけれど、ここでいう「真理」とは到達したら全ての学問がそこで完成するというような最終目標である。果たして人類にそんな日が訪れるのかはわからない。よって、現実的には「より真理に近づいていく作業」の積み重ねが研究ということになる。この「より近づいていく」というのは「科学的な確らしさ」を上げていく作業と言いかえることができる。学問というのは、先人たちがこの確らしさを昨日より今日、今日より明日と少しずつ高めていくために編み出してきた方法論の集積である。

さて、例えば藤原不比等が生きていた当時、自身の名前をどう発音していたのか。実際のところはタイムマシンでも発明されない限りわからない。とはいえ我々は残された資料の分析によって、それなりに確からしい当時の「音韻体系」を再現することができる。そしてそこから物理的な「音声」を導き出すこともできなくはない。しかし歴史言語学において大事なのは、あくまで体系の確からしさであって、個別の音の具体的な実現は(体系の説明に関わらない限り)さほど重要ではない。言語学者が「プピティオ」なり「プピチョ」なりを批判するのは、それが「当時の発音として間違っている」からではない。先人たちが積み重ねてきた「方法論」を尊重すれば、そんな言説は簡単に出てこないし、あるいはその音が先行研究の説より確からしい音だとするならば、まずは「方法論」を批判してそれを乗り越えるのが筋だからである。

あるいはこうも言えるかもしれない。ある語の昔の発音はこうだった。この語の語源はどれそれである。というのをひとつひとつ覚えることは学問ではない。それは数学の問題集の答えをひとつひとつ途中式を理解することもなく覚えていく作業のようなものである。学術的な営みというのはむしろ方程式を作る作業である。つまり、現代の発音なり現代の語形なりを x に代入するとある時代の発音なり、ある時代の語形なりが y として現れるような方程式を作り、その精度を上げていく。ただ解答集を暗記しているだけでは、その参照している答えに誤りがあっても気づくことはない。学術的な方法論を理解していないからである。ここで問題視されているのは答えの「正誤」ではない。

語源や字源の話で批判されやすいのはこの辺りに原因がありそうだけれど、うまく方法論にフォーカスできていると思われる例もあって、例えば今井先生の言語習得にまつわる話などでは、単に答えを列挙することに終始せず、ちゃんと実験方法に触れ、なぜそう説明できるのかという方法論に言及している(これはもともと今井先生の書き方が上手いということもありそうだけど)。そういった「なぜそう言えるのか」に注目することで減らせる批判というものはある。

「ゆる」であれば批判をしなくてよいのか。

これは定義の問題、あるいは価値観の問題でもあるので、自ら「ゆる」を自称している人が「批判は一切無視する」という意味で使っているのならそれでもよい。が、当人に発信する自由があるのと同程度には、他者による批判の自由はあるだろう。実際のところ、最初期の「ゆる言語学ラジオ」は「言語学警察お断り」というような発言をしており、当初はそういったニュアンスも込められていたのかもしれない。しかし、これについては後の振り返りで撤回し、批判を歓迎する旨宣言されているし、水野さん自身も監修の先生方と「アウトリーチ」に関する発表を行ったり、サイエンスコミュニケーションの役割などについて語っているのだから、その活動のレベルに応じた批判は必要であると思う。批判というのは科学的なコミュニケーションである。批判を受け、それに対応することで専門家との繋がりが生まれる。批判を受け付けず専門家と没交渉になるとしたら、どうして専門家と非専門家の間に立つサイエンスコミュニケーターが務まるだろうか。

この辺り、「ゆる言語学ラジオ」を擁護している風の人でも、水野さんの希望を無視しているようにみえ、やや不可解である。他人が外から「変われ」というのは確かに暴力的なことだろうけれど、「変わるな」と望むことも同じくらい暴力的であることは意識した方がよい。変わるかどうかは本人が決めることである。

監修の先生がついていれば批判をしなくてよいのか

過去の批判に対しては謝罪したり訂正したりしているし、監修の先生をつけたりして確実に問題は減っているのだから、これ以上批判するのはかわいそうだという意見も目にした。もちろん、様々改善していることは評価すべきである。まぁ、しかし改善しているかどうかは全部と言わずともそれなりの活動を追っていないとわからないことではある。批判するなら全部見てから言え、というのも至極真っ当な意見ではあるけれども、その主張は「引用するなら全部読め」と形を変えてそのままゆる言語学ラジオにも刃を向けることになる気がする。

また、改善される前の「過去」の動画を掘り起こして批判することを問題視する意見もあったが、それが「現在公開されている」ものであれば、批判されて然るべきである。今まで一度も指摘されていないのであれば、誰かが指摘すべきだし、過去に指摘されていたにもかかわらず、公開を停止しない、修正を加えない、何らかの注意書きをしないのであれば、そしてそれを新たに見る人が増え続けるのであれば、それがいつ作られ、いつ公開されたかは問題ではない。ただ、この辺りは過去のものはできるだけ残すという活動方針なのかもしれず、動画というフォーマットである以上ピンポイントで修正するのが難しい、という技術的な困難もあるのは理解できる。少なくとも本人たちが内容に問題ありと認識しているものに関しては、初見の人にも(できれば過去に見た人にも)その問題内容を容易に確認しながら視聴できる手段が確立されてほしい。すごい人たちがたくさんいるというサポーターコミュニティの力で何とかならないだろうか。(自分に引き寄せて話すと、私も批判記事が多く読まれたことで様々な再批判・指摘を受けたが、その中には尤もだと思うものもあったので、いくらか自己批判という形で修正したり、「ゆる批判作法」という形でまとめ直したりしてみた。そちらは全然読まれず、いまだに過去の主張内容が批判されることがある。消すのも違うと思うので記事は残しつつ誘導リンクなどもつけてはいるが、どうするのがよいのか)

ともあれ、監修の先生がつけば、もう批判する必要はないだろうか。私はむしろ監修の先生がついたからこそ、より厳しく批判すべきように思う。ひとつにはそれは監修の先生方の名誉のためである。監修がつこうがつくまいが、批判を受けなくなれば、自ずと質は落ちていく。監修の先生がついてくれているという安心感がかえってそれを助長することすらあるかもしれない。とはいえ先生たちもそれぞれの専門から離れれば、わからないこと、気付けないことだらけである。そうして、ひとたび質の低いコンテンツが公開されれば、どうしても「監修がついてこのレベルなのか」「監修の先生も信用できない」ということになってしまう。協力してくれる先生方のためにも、コンテンツの質は維持しなくてはならない。むしろ、批判を受けた時にこそ、監修の先生の出番である。その批判がそもそも妥当なのか。妥当だとしてどこが問題だったのか、何を見直せばよいのか、どこまで対応すればよいのか。こういった時に専門的な意見を貰えるのは、一人で何もわからず批判を受けるより、はるかに勉強になるはずだし、その対応自体も学術的な価値のあるコンテンツになりうると思う。

正確性とエンタメ性はトレードオフか

批判する人たちはエンタメへの理解がない、エンタメ性に振っているのだから正確性が犠牲になるのも仕方ない、という主張も散見される。そういう人たちからすれば「面白くもない言語学を、彼らがエンタメ性を添えることで初めて一般ウケするものになっている」ということだろうか。しかし、エンタメのために正確性を犠牲にしてもよいというのは、野菜を食べさせるためには素材の味などいかさずに、とりあえず砂糖をまぶしておけば甘くなるだろう、と言っているように感じる。確かに雑学と下ネタを振り撒いておけば一部の人には面白がってもらえるかもしれない。でも果たしてそこに言語学の面白さは含まれているのだろうか。実際のところ、上でも言及したように、別に言語学の面白さなんて求めていない、二人が面白そうに話してればそれでいいんだ、という意見もよく目にする。しかし、それは「ゆる言語学ラジオ」が目指しているところなのだろうか。実はそのような意見の方がそんじょそこらの批判よりもよほど失礼なのではないか。

正確性と厳密性の違い

そもそも(ほとんどの)言語学者は言語学そのものが面白いと思って専門に研究している、つまり砂糖なんかまぶさなくても素材の味だけで十分美味しいと思っている。どんな学問でも、正確性、あるいは厳密性を備えた議論の上に面白さがあるものだと思うが、誰もがすぐそのレベルまで登っていけるかというとやはり難しいであろう。非専門家、初学者に理解してもらうために、多少かみくだいて説明する必要が生じることは当然ある。その時、犠牲にすべきは正確性ではなく厳密性ではないかと思う。これは多少言葉遊びになってしまうかもしれないが、ここでイメージしているのは次のような使い分けである。

赤い丸は説明対象、青い丸は説明が当てはまる領域を示している。理想的にはAのように両者がほぼピッタリ一致している、つまり正確かつ厳密であることが望ましいが、場合によってはそれは難しいだろう。Bは厳密性を犠牲にした場合である。例えば、英語の過去分詞の見分け方を「-edで終わっているもの」とだけ説明するような場合がこれにあたる。実際にはそうでない場合もあるが、ひとまずは説明の便のためにその他の場合は一旦ないものとして説明を進める。一方で、Cは正確性を犠牲にした場合である。例えば同様に過去分詞の見分け方を「-ing で終わるもの」と説明したような場合である。Bのような厳密性を犠牲にした説明は、実際によく行われる。これも理解を深めるごとに修正していくことが望ましいが、導入としては許容される。しかし、Cは問題外だろう。

無謬性を求められているか

これと近い問題で、「批判する人たちは無謬性を求めすぎる」という意見も見られる。しかし、これこそが学問に対する勘違いを含んでいるように思う。そもそも学問というのは「人は間違える」ということを前提に構築されている。だから、学術誌の掲載論文には査読が求められるし、お互いに批判しあうことが奨励される。どんな専門家が作ったって、間違いをゼロにすることなどできないだろう。だから、まともな研究者であれば「間違いをゼロにすること」つまり無謬性を求めたりはしない。もちろん、多すぎるのは問題である。しかし、実際には先述した通り、「正誤」が問題になっているというよりは、学術的な方法論への認識が欠如していることが批判の原因になっていることが多いように思う。これは正誤以前の問題である。

言語学と倫理の問題

そしてこれも直接的には正誤とは無関係な話題であるが、やはり「言語」の扱い方が問題視されることが多いように思う。少なくとも私の周りで、「ゆる言語学ラジオ」をよく思っていない人たちは大体ここを問題視している。だから私も、批判記事の中では真っ先にあげた。ここさえ気にしてくれれば、他の間違いなど些細な問題であるとすら思う。が、具体的な例を挙げなかったので伝わりにくかった面はあるかもしれない。しかし、そもそも具体例を出すこと自体がセンシティブすぎるのだ。

正直なところ、最も強調すべき話題だと認識していながら、最後まで書き上げるのに苦労したし、結局うまく書けたとは言えないし、いまだにどうまとめてよいのかよくわからない。下手に具体例を上げることが誰かのトラウマを刺激しかねない可能性があり、いくら慎重を期しても足りないくらいである。

言語学の話題は多少間違ったことを言っても生死に関わることはないから気楽だという意見も目にしたが、果たしてそうだろうか。言語は人の生死を左右するし、言葉が人を殺すこともあるのではないか? しばしば例えられるように、言葉は空気のようなものである。我々の周りを取り囲んでいるのが当たり前であり、普段はその存在を意識することすらない。しかし、奪われると窒息してしまう。

この辺りは私も全然勉強が足りない。どこから入るのがよいだろうか。ぱっと思いつくのはフィールド言語学の方法論や実践報告、あるいは文化人類学の参与観察もそれに近い問題意識がありそうだが、想定している状況が特殊すぎるかもしれない。オススメの入門書や論文などがあれば教えて欲しい。

ゆる言語学ラジオばかりが批判されているのか

なぜゆる言語学ラジオばかりがいつも批判されるのか、という疑問も見かけた。これには複数のバイアスが絡んでいそうである。

まず私の視点からだと、言語学の世界では常日頃からいろんなものが批判されている。「ゆる言語学ラジオ」は数あるうちの一つに過ぎない。今回も、あちこちで言及されていたので目にした人も多いかもしれないけれど、ここでも矢田先生の次の小論を紹介しておく:

この手の話は言語学に限らず、多かれ少なかれあらゆる学問が抱えている問題であり、それぞれで社会的役割が求められているのだろう。もちろん、その問題意識がそもそも妥当なのか、社会的役割の果たし方はそれであっているのか、という問いはありうる。私のnoteで繰り返し問うているのもそこに含まれる。

ともあれ、言語学に限っても、俗説・謬説の類は昔からずっとある。今に始まった事ではない。言語学者はそれらを(巧拙様々だろうけれど)綿々と批判してきた。そういった背景がある中で、「言語学の面白さをみんなに広めます!」と出てきた人が、俗説・謬説を再生産し始めたら、面白いから仕方ないね、ということにはならないだろう。

では、なぜ「ゆる言語学ラジオ」ばかりが批判されているように見えるのか。一つには単純に「ゆる言語学ラジオ」が人気だから、というのが考えられる。不正確な発信をしている人は他にもたくさんいる。けれど、そもそも影響力がなければ、専門家の目に入る機会も少ない。見えていないものは批判できない。そして、「ゆる言語学ラジオ」がYouTubeやPodcastを活動の舞台としているネットコンテンツであることも大きな要因になっていると思う。つまり、ファンがSNS上にたくさんいる。SNS上に批判が乗ると良くも悪くも拡散されやすい下地がある。

そして、最後に、そう感じる人自体が「ゆる言語学ラジオ」のことを気にしているからである。おそらくネット上には学術的でないものも含めて、あらゆる批判が毎日のように流れている。自分の知らない人に向けられた、自分と無関係の(と思い込んでいる)話題にはそもそも気が向かない。批判されていても気づかない。

結語

以上、本編とは無関係のおまけを長々と続けてきたが、この内容にもツッコミどころはたくさんあるだろう。何度も「このnoteは批判ではない」と繰り返しながら、この補説部分で結局「ゆる言語学ラジオ」批判じゃないかと思われること、あるいは実際になってしまっていることを恐れる。あくまで、私が目にした批判に対する反応への私なりの回答のつもりである。忌憚ないご批判を期待しつつ、それがさらにこの記事の主眼である「ゆる批判の試み」記事が読まれるきっかけに繋がれば幸いである。というわけで、最後にダメ押しでもう一度リンクを置いておく。

というわけで、おおクラテュロスよ、事実はもしかしたらこのとおりかも知れないし、もしかしたらそうでないかも知れない。だから君は、勇敢にそして十分に考察しなければならないのだ。安易に受け入れてはいけないのだ。なぜなら、君はまだ若くて、力盛んな年代にあるのだからね。そして考察した上で、もし発見したならば、ぼくにも分けて〔教えて〕くれ給え。

プラトーン『クラテュロス』440D, 水地訳

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