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「ゆる批判」作法試案

homines dum docent discunt

Seneca, Ad Lucilium Epistulae Morales, 7.8

件の記事で「ゆる批判」概念を提唱したはいいが、賛同はするものの実践となると難しいという反応も見られた。私の記事に対する批判や反省をふまえて、より一般的な、あるいはより具体的な、ほかの人にも参考にできる形での作法を考え、ここにまとめてみたいと思う。

この記事は私の考えの変化や周りからの指摘によって随時内容が更新される可能性がある。その意味で常に決定稿ではない。


「ゆる批判」の意義

そもそも「ゆる批判」とは何か。「ゆる」という呼称自体は、「ゆる言語学ラジオ」を初めとした「ゆる~」という名を関した活動に倣ってつけただけなので、必ずしもこの呼称にこだわりがあるわけではない。ただわざわざ「批判」から「ゆる批判」という概念をわけるのには理由がある。

「批判」の意義

改めて言うまでもなく、インターネットの普及と技術の進歩にともない、ブログや画像投稿サイト、音声・動画配信プラットフォームと、やる気さえあれば誰でも発信できる手段は日々増えており、それには当然良い面もあれば、一方で負の側面もある。

話を学術的なコンテンツに限って言えば、ある学問ジャンルに興味を持った人が気軽に学び始めることができたり、あるいはそもそも知りもしなかったジャンルに偶然出会ったことで興味をもつきっかけになったりしている、というのはまさしく良い面であろう。

他方、誰でも発信できるというのは、言い方を変えれば非専門家でも発信できるということであり、必ずしもその情報が正確であることを保証してくれない。場合によっては、悪意をもって誤った情報を流していることもないとは言えない。

ここでは便宜上「非専門家」と「専門家」という分け方を使うが、実際には両者の間にはグラデーションがあり、この二分法にも問題はあるかもしれない。

私自身は、「非専門家が発信する(できる)こと」を否定的にとらえているわけではなく、むしろそういったコンテンツが増えることを歓迎している。自分が勉強していること、研究していることを他者に伝えようとすることは、社会への還元にもなるし、何よりその行為自体が自身にとっての勉強になる。

一方で、それは手放しで何を言ってもよい、何をしてもよいということにはならない。学問というのは多くの人たちが力を出し合って積み上げてきたものであるからには、常に一定の敬意が求められるし、不正確な情報を広げることを(ゼロにはできないにしても)最小限に抑える努力、姿勢は必要である。

では発信する側は、具体的にどういう態度をとるべきなのか。少なくともその一つとして、常に「批判を受け入れる」ことが挙げられるのではないかと思う。ここで言う「批判」とはあくまで学問的な意味での「批判」である。学問の世界に限らず、何かをより良くしていくためには批判は欠かせないものである。

私自身は「誰でも(それこそ非専門家でも)自由に発信できる環境」を健全に維持するためには「誰でも自由に批判できる環境」が不可欠だと考える。この考え自体にも反論はあるかもしれない。ただ、少なくとも私が「ゆる批判」を提唱するのは、非専門家による発信を辞めさせたいからなのではなく、むしろ、発信できる環境を維持したいからであるというのは強調しておく。

「批判」の限界

それでは、なぜ単に「批判」ではなく「ゆる批判」なのか。それが学問の世界であれば、つまり専門家同士の議論であれば、当然ながらそれ相応の批判が求められる。

他者の主張を批判するからには、論理的な整合性は当然のこと、それを裏付けるに十分な証拠も用意しなくてはならない。先行研究の参照はもちろん、批判する相手の論旨も十分に読み込んで理解したうえで批判しなくてはならない。詰まるところ、これは大変骨が折れる。

誰でも自由に発信できる世界で、学術レベルの批判、いわば「ガチ批判」は、ありていに言えば割に合わない。発信する人のすべてとは言わないが、少なくない人が気軽に情報を発信するのであり、その一つ一つに真摯に向きあっていては時間がいくらあっても、体がいくつあっても足らない。これが限界のひとつ。

もう一つは、批判がガチであればあるほど、非専門家は発信しづらくなってしまう、つまり萎縮させてしまう、ということである。それでいいと考える人もいるかもしれない。その考え方自体を否定はしない。けれど、先述の通り、私は非専門家でも自由に発信できる環境を維持したいと思っているので、発信者を萎縮させることはできる限り避けるべきだと考える。

「ゆる」の意義

上記ふたつの問題点へのひとまずの解決策としての提案が「ゆる批判」である。

相手が専門家でない、あるいは、論文などのガチの学術媒体で発表されているわけではないのだから、批判するほうもそれに合わせたレベル感で、誤解を恐れずに言えば、気軽に批判してもよいであろうということ。

また、その批判の仕方にも、発信者を萎縮させないくらいのゆるさがあったほうがよいであろうということ。

ここで述べた「ゆる批判」こそが、唯一絶対の正しい態度であると主張するつもりはない。正直なところ何が正解なのかいまだによくわからない(という態度すら批判されてしまうのであるが)。ただ、賛同してくれる人も少なからずいるようではあるので、そういった方々の活動の参考にでもなれば、と、自分の反省も含めた具体的な作法を以下に列挙してみる。

「ゆる批判」ですべきこと

思いつくままに挙げていくが、それ自体が悪い見本かもしれないので、常に書き直す可能性がある。

論点を絞る

批判する対象の規模にもよるが、ひとつの批判記事(批判の方法もいろいろありうるが、ここではまとめて「記事」としておく)に、主要な批判はひとつに抑えておくのがよい。論点が多いというのは、単純に批判側の負担も大きくなるし、批判される側に与える心理的な影響も強くなる。第三者にとっても議論が追いにくくなる。

批判すべきと思われるポイントが多い場合、批判記事を分ける、優先順位をつけて低いものは思い切って省く、どうしても省けない場合は箇条書き程度の言及にとどめる、などの方法が考えられる。

短すぎないまとまりにする

これは直前の内容と矛盾するようであるが、一つの批判をある程度のまとまりとして提示した方がよいということである。具体的に言えば、Twitterで細切れに指摘するのはあまり勧めない。文字数の制限がある中で書かれた文だと、どうしても誤解される可能性が増えるし、意図しない切り取り方での議論に巻き込まれやすくなる。「全文読めばそんなこと言ってないというのはわかるでしょ」と言える体裁は重要。

また、毎回批判するほどではないけれど、同じような間違いが繰り返される場合、個別に指摘する側も疲れるし、第三者からみるとしつこい人だと思われてしまうかもしれない。それなら、まずは類例を集めた上で、まとめて指摘した方が効率的だし、第三者も参照しやすい。

具体例をあげる

批判されている主張が、どの記事(どのエピソード)のどの部分で言明されているかできるだけ具体的に示す。また、それに対する反証等も、具体例があることが望ましい。参照すべき研究データや先行研究をあげられるとなおよいが、ここを突き詰めるほどゆるくはなくなるので、つらくならない程度の匙加減でよい。

再批判を受け入れること

健全な批判は、それ自体が常に再批判の対象となる。それは「ゆる批判」でも変わらない。そのためには、やはり「ゆる批判」自体が第三者にも自由に読まれ、批判できる形で公開される必要がある。また、実際に「再批判」が来た際に真摯に対応する態度が求められる。(とはいえこれもどこかで線引きは必要ではある)

誰かのためになること

これは、前項にも関わることではあるけれど、「批判」は学問の健全な発展のためになされるものだし、「ゆる批判」も健全な環境維持のためになされるべきものである。つまり、単に発信者や、批判者のためだけでなく、情報の受け取り側を含めた環境全体に資するものであるべきである。そのため、第三者にもみられる形での公開が望ましいし、それ単独で読んでも第三者にとって勉強になるのであれば、それだけで意義のあるものといえる。

「ゆる批判」で避けるべきこと

「批判」が必要なものであると主張したところで、現実問題として「批判」という行為自体へのネガティブなイメージは厳然として存在し、いくら「ゆる批判」と言ったところで、その伝え方次第では余計な反発を生むだけで、一番伝えたいところがかすんでしまう。せっかく批判の正当性、正確性が妥当なものであっても、後続する議論の矛先がそれ以外のところに向いてしまうと勿体ない。(もちろん、これから挙げられるようなことのうち、特に最初の二つが実際に含まれるのであれば、それ自体が批判されるべきことであり、それも健全な環境の維持には必要である。)

攻撃的な言葉遣い

これは「ゆる批判」というより、対人関係の基本みたいな話ではあるけれども、意外と学術の世界では他意なく常用される表現でも、一般的な感覚からすると攻撃的な物言いとされることはあり、「批判」に対するネガティブなイメージも相まって、書き手が思う以上に「攻撃的」ととられる可能性がある。変にへりくだる必要もないが、それが論旨にかかわらないのであれば、攻撃的ととられかねない表現はできるだけ避けるに越したことはない。

個人攻撃

個人攻撃、人身攻撃、人格攻撃はしない。そうとられかねない表現もできるだけ避ける。態度や性格そのものが問題となる場合もあるかもしれないが、その場合は、それはそれで一つの批判として切り離したほうがよい。そうでないのであれば、批判の対象はあくまで主張されている内容のみにしぼり、その主張が誰によるものであれ、それに応じて内容が変わらないような批判が好ましい。

反応を求めること

あえて批判する人というのは、多少なりとも発信側に修正を期待したり、あるいはその批判が妥当でないという再批判を期待するのが人情であろうとも思うのだけれど、残念ながら、必ずしも反応があるとは限らないというのが実際のところだろう。人によっては、批判された時点で活動する意欲もなくして、そのまま雲隠れしてしまうかもしれない。あるいは、周りからの反響には一切興味がなく一方的に発信して満足している人もいるかもしれない。過度に返答を期待すると、かえって疲れてしまうということもある。

すべきことで述べたように、「ゆる批判」は批判対象だけではなく、その発信の受け取り手を含めた環境全体に益することを目的に据えたほうがよい。であれば、仮に批判を向けた相手から反応がなくても、その批判を公開することで、それが第三者の勉強になるのであれば、それだけで意義があると考えたほうが気が楽である。

議論すること

これは「避けなくてはいけない」ということでないが、特にリアルタイムで行われるような一問一答式の議論は、双方が共に得意というのでもなければ避けた方がいい。そもそも議論というのはそれ自体がかなり専門的な技術なので、それができるのであれば「ゆる批判」なんかしなくてもよいだろう。

上にも述べたとおり「短すぎないまとまりにする」ことで、それぞれが考える時間を確保でき、議論が迷子になって紛糾するのも防げるし、リアルタイムで追っていなかった人でも後から把握しやすくなる。そういう意味でも、発信者と一対一で直接やりとりするよりは、ブログ記事として公開するような間接的なやりとりの方がよいように思う。

ひとりで抱え込むこと

自分一人の力で完璧な批判をしようとしなくてもよい。もちろんそうできるのが理想ではあるけれど、もはやそれは「ゆる批判」ではない。誰かの発信を見聞きして、自分の知っている話と違うぞ?と思った時は、とりあえず「この人はこう言ってるけど、本当ですか?」とより詳しそうな人の目に触れるように投げかけてみるだけでもよい。そこから誰かがより正確な説明を公開してくれれば、他の人のためにもなる。ただ、晒し上げや陰口だと思われないように注意は必要である。批判しあえる土壌が育てば、そういった誤解も減っていくとは思うのだけれど。

また、その前の段階として「なんか違う気がするけど、自分も訂正できるほどの知識があるわけでもないしな〜」という悶々とした気持ちについても、ひとりで抱え込むことはない、と言えるかもしれない。溜め込まずに、とりあえず口に出してみる。誰かに聞いてみる。もし、間違って覚えていたのが自分だったとしても、それをきっかけに誤解が一つ解消されるなら儲けものである。

まとめに代えて

この記事自体がまた「どの口が言うのか」と言われてしまいそうではあるが、私の記事を丁寧に読んだうえで、賛同なり批判なりをしてくれた人がいる以上、それをなんらかの形で還元するのがひとつの恩返しかとも思う。

文中にも書いた通り、「ゆる批判」が唯一絶対の正解であるというような確信があるわけでもないし、また「ゆる批判」概念の提唱が間違っていなかったとしても、この記事に書かれたことが最適解であるという自信があるわけでもない。

この記事に対しても、各自批判的に吟味いただき、おのおののあるべき「(ゆる)批判」の形を構築、共有し、できれば実践いただけるとうれしい。

理性はどちらの側にも時間を与える。そして、自分にも決定延期を求めて、真実を突きとめるための猶予を得る。怒りは急ぐ。理性は実際に公正な判定を下すことを欲する。怒りは下した判定が公正に見えることを欲する。理性は扱われる論点以外、どこにも目をやらない。怒りは係争外のつまらぬことに動かされる。自信にみなぎる顔つきが、大きすぎる声が、率直すぎる話し方が、優美すぎる服装が、受けを狙いすぎる弁護が、民衆の人気が、怒りをかき立てる。しばしば弁護人に敵意を抱いて被告を断罪する。真実が目の前に示されても、誤りのほうを大事に守る。誤りを宣告されることを嫌い、以前の間違いについて、後悔するより固執するほうが格好いいと思っている。

セネカ『怒りについて』I, 18, 兼利訳

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