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ゆる批判の試み:ソシュールとソークラテースは対立するのか

だれであれ、どのようなことがらについてであろうと、それの始め〔出発点、原理〕が正しく置かれているかどうかという点に、その言論と考察の大半をふりむけなければならないのだよ。そして始めが十分に考究された上で、はじめて残余の部分がそれに随順して現れてくるよう配慮すべきなのだ。

プラトーン『クラテュロス』446D, 水地訳

この記事は、もともと次の記事の一部として書いていたものだが、いざ書き始めたら当初の想定以上に肥大化してしまったので、別の記事として独立させたものである。

そして、この記事に書かれている「ゆる批判」の実践でもある。一介の「ゆる言語学ラジオ」リスナーが、ゆるく批判する記事なので、厳密な考証は行っていない。でも、間違っていることがあれば、どしどし批判してもらいたい。

ソシュールとソークラテースは恣意性をめぐって対立していたか

動画の内容の簡単なまとめ

この動画は音象徴をテーマとして、タイトルにも「ソシュールVSソクラテス」が含まれ、サムネイル画像も「音に意味ない!」と主張するソシュールとそれに「あるわボケ!」と応答するソクラテスの構図を取っている。「恣意性(=音に意味はない)」と主張したソシュールに対して、実は遡ること2400年近くも前にソクラテスが「音に意味はある」と主張していた、という枠組みである。

また、これ以前の動画で紹介している日本語の「ひよこ」は「ぴよぴよ」、「光」は「ぴかぴか」から来ているという語源説を再び取り上げ、ソクラテス側の説を補強する。その他、音象徴にかかる実験をいろいろ紹介した上で、動画の最後には、ソシュールVSソクラテスの対立は後者に軍配が上がり、ソクラテスの偉大さが讃えられる。

この動画を見た人は、ここから、どういった感想を抱き、どういった知識を得るだろうか。

ソークラテースを語るときの大前提

古典ギリシア語や古典ラテン語は母音に長短の別がある。一般的に古代ギリシア・ローマの人名は長音を無視して表記される慣習があるが、個人的な方針で、以下基本的には長音を尊重したカナ転写をする。

ところで、この動画の中でも軽く触れられているように、歴史上のソークラテースは一切の著作を残していない。ソークラテースの処刑後、親交のあった人たちによって、判決が不当であったことを主張する多くの著作が発表された。これらのうち現代まで伝わっているのがプラトーンとクセノポーンの一連の著作であり、とりわけ現代のソークラテース像はプラトーンの対話篇によるところが大きい。つまり、大前提として、我々がソークラテースの言葉として目にするものは基本的には「プラトーンの作品内における」という留保がつく(その他にも後代の伝記から引用されるものもあるにはある)。ここにどの程度、歴史上のソークラテース本人の思想が反映されているかというのは、それだけで複雑な問題なのでこれ以上深入りしないが、「ソークラテース」の主張とされるものに触れる時には、常に念頭に入れておくべき前提である。

『クラテュロス』梗概

というわけで、この動画で言及されているソークラテースの言葉とされるものは、プラトーンの著作『クラテュロス』からの引用なのだが、まずはこの作品のあらすじをざっくりまとめると(以下のまとめは水地訳及びその解説を参照している):

ヘルモゲネースとクラテュロスが議論しているところにソークラテースが居合わせ、議論に加わるよう頼まれるところから作品が始まる。

二人の主張を簡単にまとめると、それぞれ以下のようになる:
ヘルモゲネース「名前の正しさとは各個人の自由な取りきめである」
クラテュロス「名前の正しさは本性的でなければならない(=名前は名づけられる事物の本性を表わすべきである)」

ヘルモゲネースに、彼自身は名前についてどう考えるか尋ねられたソークラテースは「ぼくは全然知らない」と答え、「力を合わせていっしょに研究することについては、喜んでお手伝いしたい」と三人で考察を続けることを提案する。これがいわばプロローグとなり、議論が展開される。

全編は大きく分けて二部に分かれ、第一部ではヘルモゲネースの制定任意説に対して、ソークラテースは名前は本性的でなければならないというクラテュロス的な説を論証しようとする。動画で引用されているソークラテースの主張は主にこの部分からのものである。

ソークラテースの名前本性説におおかた反駁されたヘルモゲネースは、ソークラテースが展開した本性説に賛成かどうかをクラテュロスに尋ねる。ソークラテースもそれに乗じて「いったいぼくは何を言っているのか、再吟味しなければならない」「自分が自分によってだまされるということは、何よりも危険なこと」として、それまで黙って聞いていたクラテュロスを巻き込み、第二部では、今まで自身が述べてきた本性説への再批判を始める。第一部とは打って変わってソークラテースはクラテュロスの本性説に対して名前の正しさはある程度取り決めに依存することを論証する

詳しいところは是非とも原著を読んでほしいのだけれど(ただし文庫化されていないのが難)、以上のまとめを読んで、ソークラテースの主張はどちらと思われるだろうか。そう、実はソークラテースはソシュールの登場を2300年待つまでもなく、同じ日に(同じ場面設定で)みずから展開したばかりの命名本性説を批判しているのである。

ソシュールは音象徴を全否定したか

一方でソシュールの立場はというと、彼が第一原理として「言語記号は恣意的である」(『一般言語学講義』小林訳、以下同様)と主張しているのは間違いがない。「記号の恣意性の原理にたいしては,異議を挟むものはない」とまで言い切っている。しかし、音が意味と結びつきうることが全くあり得ないと考えていたわけでもない。『講義』においては、この第一原理に対してなされうる反対説を二つあげており、そのひとつめを引用する:

 1. 能記の選択が必ずしも恣意的でないことをいおうとて,擬音語(onomatopée)を盾にとることもできよう.しかしながらそれはけっして言語体系の組織的要素ではない.その数からして存外に僅少である.fouetとかglasとかいった語は,なにか暗示的な響きをもって,ある人の耳を打たないともかぎらない;しかしながらそれらがはじめからそうした特質をもっていなかったことを知るには,それらのラテン形をさかのぼってみるだけでよい(fouetはfāgus「ぶな」から派生し,glass=classicum);それらの現代音の性質,というよりむしろ,それらにひとが帰属せしめるそれは,音韻進化の偶然の結果なのである.
 本式の擬音語(glou-glou, tic-tac型のもの)はどうかといえば,それらはただに少数であるのみならず,ある物音の近似的な・そしてすでに半ば制約的な模倣にすぎない以上,それらの選択はすでにいくぶんは恣意的である(フランス語のouaouaとドイツ語のwauwauとを比べてみよ).なおまた,それらもひとたび言語のなかに導入されるや,他の語もこうむる音韻進化や形態進化などのなかにどのみち引きずり込まれる(参照,pigeon,これは俗ラテン語のpīpiōに由来するが,後者そのものは擬音語から生じた):これは,それらがその最初の特質のいくぶんかを失ってほんらい無縁である言語記号一般の特質を具えるにいたったことの,明白な証拠である.

ソシュール『一般言語学講義』小林訳, pp. 99-100

pīpiōは「ひな鳥」ということで、pīpiāre「ピーピー鳴く」の派生語であり、これがオノマトペであることは我々でも納得できるだろう。この語の対格形 pīpiōnem が(おそらく *pivionem のような形を経由して)現代フランス語の pigeon「ハト」になったが、ここではもはや元の「ひな鳥」の意味は残っていない。これは音が変わってしまったから本来のオノマトペとしての意味が維持できなかったとも考えられるし、オノマトペであることが忘れられてしまったから元の音声、元の意味を維持できなかったとも考えられる。

語源がオノマトペであることは言語の恣意性を否定しない

動画で取り上げられている、「ひよこ」「光」の語源説も類例と言えるだろう。日本語のハ行音は遡ると [ha] < [ɸa] < *[pa] のように変わってきたと推定されるから、「ひよこ」はピヨピヨという擬音語、「ひかり」はピカという擬音語から来ている可能性は高いし、現代の我々にも納得感がある。一方で、我々は、ひな鳥の鳴き声を「ひよひよ」とは聞き做さないし、閃光を「ひか」と表わすことはしない。つまり、例え大昔に「ひよこ」が[piyoko]と読まれ、「ひかり」が[pikari]と読まれていたとしても、その発音が現代に受け継がれず、(他のハ行音で始まる語と同様に)音韻変化を被ったのは、まさにこれが恣意的な記号となったからである、と言える。そもそも、ひな鳥の鳴き声が「チヨチヨ」「ピュンピュン」とされてもよかったところを(単発的にはあったかもしれないが)、(ほぼ)「ピヨピヨ」のみが使用されていること自体が、ソシュールの言うところの「すでにいくぶんは恣意的」な選択なのである。

ついでに言えば、この一つ前の動画では、水野さんが語源辞典を読んできて、「ひよこ」や「光」の語源を開陳し、堀元さんに「へー」と言わせているのだが、我々が(そして堀元さんが)「へー」と驚けるのは、我々がそれらの語をもはやオノマトペだと意識せずに使っているからである。つまり堀元さんの「へー」こそがソシュールの「恣意性」説を補強していると言える。

恣意性の同時代的な意味あい

1866年から1877年にかけて刊行された『19世紀ラルース大辞典』には onomatopée の項に1ページを超える記述を割いているが、その最後は次のように締めくくられている。

Donner un plus grand rôle à l’onomatopée, ce serait détruire tout ce qui a été accompli depuis cinquante ans par Bopp, Humboldt, Grimm et les autres linguistes, renverser les lois phonétiques qu'ils ont coordonnées et rendues certaines et rejeter la science étymologique dans l'anarchie et le chaos. Au contraire, dès qu’on admet qu’il faut faire remonter tous les mots à des racines d’après des lois certaines, peu importe que ces racines soient des types phonétiques, comme les appellent les philologues allemands, ou bien des interjections ou des onomatopées.
(太字は原文イタリック)
[試訳] オノマトペに一層大きな役割を与えることは、ここ50年来、ボップ、フンボルト、グリムをはじめとする言語学者たちによって成し遂げられた全てを破壊すること、彼らが整理し確かなものとした音韻法則を覆すことであり、科学的な語源学をふたたび無秩序と混沌の中へと投げ捨てることである。対して、確かな法則に従って、全ての語を一定の語根に遡らせなくてはならないということを認めさえすれば、その語根が(ドイツの文献学者が言うところの)音韻法則タイプであるのか、間投詞やオノマトペであるのかはさして重要ではない。

Grand dictionnaire universel du XIXe siècle, onomatopée, p. 1335

ソシュールの登場以降、つまり近代言語学以降、音象徴の研究があまり行われていなかったのは事実である。しかし、それは「科学的な」比較言語学が確立される以前は、何でもかんでもオノマトペで説明しようとする、あるいはそれで説明したことになるかのような主張が氾濫していたことへの反動でもある。(ソシュールが共時態を重視したのも、「科学的な言語学」が通時研究に限定されていたという歴史的背景を含めて捉えないと理解しづらいかもしれない。)どんな学問でも振り子のように流行の揺り戻しというのはあるだろう。音象徴の研究が再び盛り上がっているのはそういった側面があるにせよ、ソシュール憎しで近代言語学以前にまで遡る必要はない。

さて、ここまで読んだ人は「ソシュールVSソクラテス」という構図がどう見えるだろうか。ちなみに、記事公開時にこの動画についてる番組からの訂正コメントは「×各界 → ○角回」のみである。

この動画の公開日は謝罪動画の直後とは言え、おそらく収録はそれより前なので、そんな古い動画を引っ張り出すのは意地悪だと言われてしまうかもしれない(とはいえこの動画はソシュールだけでなく、プラトーン(研究者)にも喧嘩を売ってると思う)ので、最近の動画からも一例を挙げる。

J は I より出でて I より長し?

「ゆる言語学ラジオ」の人気シリーズのひとつとなっている語源シリーズの(この記事公開時点での)最新話である。

英語の quality や quantity がラテン語の疑問詞に由来するという話から、フランス語の Que sais-je ? の話になり(水野さんは「クシジュ」と読んでいるが)、そこから突然水野さんが「ちなみになんでフランス語の je、英語は I なのかというと、I と je 、I から J ができているんですよね」と言い出す。

ラテン文字の J が I からできたというのは事実である。また、英語の I と、フランス語の je が、遡れば同語源であるのも事実である。しかし、それは印欧祖語まで遡った場合の話であり、I から J が生まれた話とは全く関係がない。この二つの使い分けはせいぜい15世紀に始まるに過ぎない。

ちなみにここでは「アルファベット」と言っているが、言語学において「アルファベット」とは、一つの文字がそれぞれ一つの母音もしくは一つの子音に対応している文字体系のことで、ギリシア文字で初めて採用されたことから、その初めの文字 α β をとってこう言われる。ラテン文字も「アルファベット」の一つである。もちろん一般的にはラテン文字のことをさして単に「アルファベット」と言われることは多い。ただ、言語や文字を扱うチャンネルである以上、発信側には意識してほしい点である。(これ自体もコンテンツになりそう)

J は I からできたけど

ラテン語において ‹I› と言う文字は、そのままずばり [i]「イ」または [iː] 「イー」と読まれていたが、他の母音の前に置かれるとヤ行子音のような半母音として、例えば IAM「すでに」は [jam]「ヤム」のように読まれた(これも厳密なことを言おうとすると単純ではないのだけれど)。

フランス語においては、ラテン語の母音としての [i] はその発音環境によって、[i] のままだったり [e] になったり、あるいは消えてしまった。一方で子音としての [j] はこれまた結果的に消えてしまったものもあるけれど、残ったものは [dʒ] のような音を経由して、現代語の [ʒ] の音になった(先程の IAM は、例えばフランス語の déjà /deʒa/「すでに」に残っている。「デジャヴュ」の「デジャ」である)。 [dʒ]への音変化は3世紀ごろ、さらに [ʒ] になったのは13世紀ごろと考えられているが、この音を表すために j の文字を使うようになったのはフランスでは16世紀ごろからになるので、それまでは desia, deia のように書かれていた。なぜ、そう書かれて続けていたかと言えば、それまでもそう書かれていたから、と言う慣習の問題に過ぎないが、[j] と読まれていた時代ならいざ知らず、さすがに [i] と [ʒ] を同じ文字で表すのは不便である。実際、紛らわしいこともあったろう。そこで、文字 ‹J› との使い分けが提案・導入されたのだが、ここで重要なのは、区別するために ‹I› を伸ばして、‹J› を発明したわけではない、と言うことである。この時 ‹J› は既にあった。既にあったものを利用したのである。

ローマ数字で、1, 2, 3 は I, II, III のように表すが、I が並ぶ時、最後の I を長めに書くことがあった。すなわち、XIIJ (13), vij (7) のように書かれることがあった。現代人からすると「I の代わりに J を使っている」ように思えてしまうが、区別がない時代の人からすれば、これはあくまで I の書き方の一つにすぎない。元々は手書きの習慣であろうが、この字形は活字にも用意されていた(初期の活版印刷は写本文化を引き継いでいるので、一つの文字に対して様々な字形や合字のバリエーションを含んでいた。et の合字である & はその生き残りである)。つまり、同じ I という文字に対して、‹I› と ‹J› という字形は既にあったのである。そして、(フランス語では)後者を [ʒ] を表す専用の文字に転用したのである。

遡って、ラテン語の子音としての I も J で表すことがある(先程の IAM であれば jam のように)が、これは当然、使い分けが生まれた15-16世紀以降の慣習である。U と V の関係も似たようなものである(ただし、しばしば言われるように古代には V しかなかったというよりは、碑文では直線的な字形に彫られることが多かったが、手書きでは丸く書かれることもあった、という方が正確なようである。小文字の v は語頭の形、u は語中の形であった)。

je を逐うものは

さて、フランス語の一人称代名詞主格形は je [ʒə] である。これはラテン語の ego に遡る。日本語にも入っている「エゴ」である。古仏語の時点で、母音間の g の音は既に落ちてしまっていたようで、eo, io, gie, ieo など様々なバリエーションがあるが、11世紀ごろには ie の形に落ち着き、ge などが併用されることもあったが、J の導入とともに現代の je という綴りが定着した。同じラテン語の ego に由来するイタリア語 io、スペイン語 yo、ポルトガル語 eu、ルーマニア語 eu と比較すると、フランス語の je が J をもちいて書かれることに特に必然性がないことがわかる。

ラテン語の ego は(形の似ている古代ギリシア語の ἐγώ [eɡɔ̌ː] も当然)さらに遡っていけば、印欧祖語の *éǵh₂ という再建形に至る。ここから、ゲルマン祖語の *ik, *ek を経由し、古英語の ih, ic [iç] を経由し、中英語の i [iː] が大母音推移を経て重母音化したのが、現代英語の I [aɪ̯] である。別にフランス語の対応語が je と表記されるから I と表記したわけではなく、単にそう発音されるからその通りに書いただけである。一方でフランス語の je も英語の対応語が I であることを考慮して、je の綴りを選択したわけではない。

軽く読んで伝える重さ

2022年最後の年末雑談回で、「読んだ本の内容は忘れたっていい」「理解できなくても、自分は読書に向いてないと思い悩む必要はない」というような話をしていて、これ自体はとてもいい話で、首肯するところ大なのだけれど、一方で、「学術的な本の読み方」もまた訓練しないと身につかないというところはあるだろう。

専門家でも、自分の研究に関係ありそうな本すべてを一字一句漏らさず読んでいるということはない。まずは流し読みして、面白そうなところを見つけてはそこだけ読むというのはよくある。が、面白いと思ったところだけを切り取って、前後の文脈を考慮せずに引用して、自説の補強に使うのであれば、それは単なる「チェリーピッキング」である。

もちろんここで取り上げた問題のある引用や勘違いが意図的なものであるとは思わない。けれど、意図的に視聴者を騙す目的で「チェリーピッキング」することも可能であるし、より悪質と言えるだろうけれども、騙される側からしてみればそれが意図的であるかどうかは関係ない。

我々が本を読むとき、全てを理解する必要はないし、面白いところだけ拾って読むのでも構わない。それを責めることは誰にもできない。けれど、発信する側、伝える側には、それ相応の責任が伴うことも認識すべきである。

なんて大袈裟なことを言いたかったわけではなくて、それならそれで批判しあえる空気を作れればいいかもしれないね、ってことで書き始めたのに、果たしてこの記事は「ゆる批判」の実践例としてふさわしいものになっているのだろうか…。その点も含めて批判してもらえると嬉しい。

さて、この点について事実はいったいこのとおりであるのか、それともあのようで、すなわち、ヘラクレイトスに従う人たちや他の多くの人たちが言っているようであるのか、これを見きわめるのは、おそらく容易なことではないだろうねえ。だが、そうではあっても他方また、次のようなふるまいも、十分に分別のある人間のすることではないように思うのだがねえ。すなわち、自分と自分の魂とを世話〔教育〕することを名前に委ねてしまい、それら〔名前〕とそれらを定めた者たちを信頼しきって、自分が何ごとかいっぱしのことを知っているかのように自信たっぷりに主張すること、[…]。

プラトーン『クラテュロス』440C, 水地訳

主要参考文献:
『プラトン全集 2 クラテュロス・テアイテトス』岩波書店
Saussure, Cours de linguistique générale, Payot
ソシュール『一般言語学講義』小林訳, 岩波書店
小林『ロマンスという言語』大阪公立大学共同出版会

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