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文章組手「七夕」1500字

 七夕。そう、七夕だ。どうしよう。完全になんの思い入れもない。小学生の頃は七夕が好きだった。なぜなら給食に給食でしか食えない味のケーキが出たからだ。あとは短冊に胡乱な願い事を書くだけか。

 曖昧な七夕の知識は男と女が川の両サイドにいて年に一回だけ会うことができるとかそんな感じ。

 ヤバイ。本当に七夕になんの興味もなくて、大好きな漫画「七夕の国」の話を書きたくなってきてしまっている。しかし私は逃げない。逃げない男は格好いいからだ。私も七夕みたく大きく強く優しい男でありたいよ。

 だめだ。逃げようとしている。こんなどうでもいい文章を書きながら文字数が進んでいることを喜んでいる。ノー。ノーである。

 会えない二人と言えば私の別れた恋人に3年間で4回しか会っていない人間がいた。いや、それを付き合っているのかと言われたら困るがたまにLINEで意思確認をすると向こうも付き合っている形は理解していた。
 ただ、会わない。というか誘ってもタイミングが合わない。「避けられているのでは?」と考えたりもしたが向こうからも誘ってきたりする。考えればこの状況、ほぼ年1でしか会わない状況は中々に七夕じみているではないか。

 しかし会わない状態でお互いの思いを保つのは中々だと思う。遠距離恋愛ならば覚悟も決まるだろう。だが私は同じ区内だった。織姫と彦星も似たような物だ。川を隔てた近い距離。それで会えないって消耗しますよ。いや、私の場合だけどさ。多分、七夕の二人も割と消耗していると思う。近い距離で会わないのはマズい。相手を疑うとかそういうのは通り越して「会おう」ってテンションにならない。
 会おうと思ったらいつでも会えるとなると妙にテンションが上がらず、尚且、変に冷めたりもしない。一応形としては付き合いの体だから良いかとなる。
 しかし、それが一番良くないのではないか?恋愛に何を求めるのかは人によってかなり違うと思うが、私が求めるのは安寧ではなく刺激だ。

「この人といたらなにか起こるor起こせる」

 それを最大重要視していたにも関わらずどうでも良くなってしまう。いっそのこと遠くに離れ、連絡も取らずにいられたらどれだけ楽か。だが、その決断をするまでにかなりの年月を浪費してしまった。恋愛感情はあったかと問われると、たまに連絡を取る時だけ燃え上がる程度だった。だが、その連絡の後ろには諦観があり、どうせ会えない日々がまた伸びると考えていた。

 年に1度しか会えないと、会ったところでお互いの一年を話して終わる。「お互いに溜まっているしソッコー性行為っしょ!」なんて妄想でしかない。離れていた時間を埋めるためにお互いの変化を言葉にして伝え合い離れていた時間を要所要所のパーツで歪に埋める。そして帰りの時間が近づくと「またすぐに会おうね」と約束して年単位の時間がすぎる。

 それに満足できている内は幸せなのかもしれない。夢うつつの世界で蜘蛛の糸より細い縁にすがって生きることができる。年に1度は儀礼的に愛した人に会うことができる。愛情からの行為が儀礼に落ちる。それは諦めと悲しみ。だが、愛情と寂しさの膜を突き破ることはできない。それが近くて遠いことの一番恐ろしい部分だと感じた。

 私は「もうこれって意味ねえな」の思いで関係を終わらせた。年齢などが作用した部分もある。しかし織姫と彦星はあとどれだけ粥のような粘度の関係を続けるのか。それを見守る私達が諦めるまでだろうか?か弱く細い祈りが、どうか変容しませんように。

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