紙の運転手
家の前でゆうちゃんちの赤い車から降りたら、ドアを閉める前におじぎをして、いう。
「どうもありがとうございました」
ゆうちゃんのママが運転席で、敬礼みたいに手を上げてくれた。助手席のゆうちゃんは「また月曜にね、サキ」と笑ってくれた。
わたしはにっこりしてドアを閉めると、ゆうちゃんちの車が走り出し、角を曲がるまで、手をふりながら見送った。
それから、家の門を開ける。横のガレージは空っぽだ。パパは土日も仕事。うちの車に乗っていった。
小さな庭をぬけて、玄関のドアまで急いだのに……。
「おお、サキちゃん、おかえり」
見つかってしまった。
となりのおじいちゃん、ナガナワさんだ。
うちの庭ととなりの庭は柵と生け垣で仕切られているけど、どちらも丈が低いからまる見えだし、ナガナワさんはしょっちゅう庭にいるのだ。今は、生け垣のそばの木の枝を切っているらしい。踏み台でもあるのかな。生け垣越しに、腰から上が見えるもん。
しかたないから、ペコッとおじぎしておく。
ナガナワさんちには、お孫さんの夫婦も住んでいる。平日はそれぞれ仕事に乗っていくから、ガレージは夜まで空っぽだけど、今日はだんなさんの黒くて大きい車と奥さんの青い軽自動車が停まっていた。
オトナはみんな自分の車を持っているし、かっこよく運転できるんじゃないの? ナガナワさんみたいなお年寄りは別だけどさ。
そんなことを考えていたせいかも。「ただいま」と玄関に入って、「おかえり」というママの声が聞こえたとたん、自分でもびっくりするほど、カーッと来た。
「ゆうちゃんのママにお礼をいってよ!」
「メールしておいたけど?」
ママは、キッチンにいるらしい。
「口でいって! おじぎもしてよ!」
「機嫌悪いね。映画、ハズレだった?」
アタリだよ! 大アタリだったけど!
足踏みするみたいに、スニーカーをぬぐ。早く二階に……自分の部屋に逃げこみたい。
ゆうちゃんは「サキは個室があっていいね」っていうけど、わたしは車でどこにでも連れていってもらえるゆうちゃんのほうが「ずっといいね」と思う。
今日は市民ホールで、大好きなアニメ映画が上映された。市民ホールへは自転車で一時間かかる。バスはとちゅうで乗り換えが要る。車ならスーッと行けるのに、うちでは無理。一台しかない車はパパが仕事に乗っていっちゃうし、もし家に置いてあっても同じ。
だって、ママは運転できないから!
うんと小さいときからそうだから、友だちのママたちはあたりまえのように「サキちゃん、うちの車にいっしょに乗っていきなさい」といってくれるけど。
お行儀よく乗って、降りたらお礼をいって……というのも上手にできるつもりだけど。
このごろはイライラする。わたしだけがいつも、友だちんちの車に乗せてもらうの、みじめなんだよ……。
スニーカーをぬぎ飛ばして、階段をあがろうとしたら、ママがろうかに出てきた。
「サキ、晩ごはん、何が食べたい?」
左手にはニット帽、右手には小さなリュック。あの中には、財布とか携帯電話とかエコバッグとかが入っている。そうか、スーパーに行くのか……自転車で。
「食べたいもの、ないの?」
ない。どうでもいい。それとも、自転車で運べないものをリクエストしちゃおうか。
「牛の丸焼き」
あーあ。
ママは運転しなくても困らないんだろう。パートで働くパン屋にも、スーパーにも郵便局にも銀行にも自転車で行けるし。市民ホールにだって、「自転車をこいで行ったよ」って自慢してたもんね。
7年も先だけど、わたしは18歳になったら、絶対、すぐに免許を取る。お年玉をためて、車も買う。
ママみたいになりたくないから!
「ママは、なんで免許を取らなかったの」
こらえきれずにぼそっといったら、驚いたようにママが答えた。
「運転免許? 取ったよ。持ってる」
うそ!
「結婚前に取ったの。お店は遠いしバスも少ない……お嫁に行くのはそういう町だって、わかってたからね。でも、町のあちこちが開けて、スーパーもコンビニもできたし、車がなくても困らなくなっちゃった」
「免許、持ってる……だけ?」
「ペーパードライバーっていうの。訳すと、紙の運転手。ぺらぺらな感じでかっこ悪いね」
笑いごとじゃないよ! 運転してよ!
って怒鳴ろうとしたら、バリバリ、がざざざっと音が聞こえてきた。爆発? 衝突? こんなの、聞いたことがない。
ママはハッと真顔になった。荷物をろうかに落とすと、
「サキは、ここにいなさい」
外に飛び出していった。
わたしはリビングに、電話の子機を取りにいった。助けを呼ばなくちゃと思ったのだ。だけど、誰に? パパ? 警察? わたしもようすを見にいったほうがいい?
ママが、玄関に飛び込んできた。何かいいかけていた口を閉じ、わたしから子機をひったくって、ボタンを押した。パパパッと3つ。
子機を耳に当てながら、ママが寝室のほうを指さす。
「サキ。毛布一枚」
わたしの足は、勝手に駆けだしていた。
ママのハキハキした声が、電話のむこうの誰かに、住所や名前を答えている。
「……ナガナワシンスケさんといいます。確か80歳です。えぇ、そうです……呼吸もしています。脚立から落ちたようで……」
わたしが毛布を抱えてもどると、ママは子機に話しながら、ろうかのリュックを手探りしていた。携帯電話をつかみ出し、指で操作しはじめた。
「お孫さん夫婦はお出かけのようですが、はい、連絡できますので……」
ひととおり話しおわったら、ママは子機をわたしに押しつけ、
「そこの角で、救急車を誘導してくるから」
毛布を取って、出ていった。
ひっぱられたように、わたしも外に出た。
柵を乗り越え、生け垣をかきわけて、ママはとなりの庭に入っていく。勢いよく毛布を広げ、ふわりと地面に降ろす。
そこにナガナワさんが倒れているの? 確かめにいきたいのに、ドアの前から動けない。
かがみこんでいたママは、まもなく立ちあがり、ナガナワさんの家の門から、道に駆け出していった。
子機を握ったまま、寒い風に吹かれながら立っていると、サイレンが聞こえてきた。
はじめは遠くで動いていた。だんだん近づいてきた。不意にサイレンは止まり、ナガナワさんちの前に、救急車がすべるようにやってきて停まった。
救急車についてきたママと、救急隊の男の人たちがナガナワさんのもとにむかう。
ホッとして気づいた。わたし、くつしたのままだ。でも、クツなんかどうでもいい。となりの庭を行き来する救急隊の人たちから、目が離せなかった。
お孫さん夫婦がバタバタと走ってきたのは、ナガナワさんが足のある細いベッドに寝かされたまま救急車に乗せられたときだった。おそろいのジャージを着ている。ランニングに行っていたらしい。
だんなさんが乗りこんで救急車が走り出し、奥さんが青い車で同じ方向に走り去っていくと、あちこちに葉っぱのついた毛布を抱えて、ママが帰ってきた。
ドアの前に立ちっぱなしのわたしを見て、携帯電話を握った手を小さく振った。
「お孫さんの番号、聞いといてよかった」
わたしは、かすれ声でいった。
「ナガナワさん、どうしたの?」
「脚立が倒れたのね。落ちて頭を打ったみたい。骨折とか、してないといいんだけど」
「ママ、もとは看護師さん? 救急隊員?」
「まさか」
ママはおどけたように笑った。それから、フーッと息をついた。
「お嫁に来て、すぐ、サキのおじいちゃんとおばあちゃんが続けて病気になったんだよね。一日じゅう……夜も昼も、目が離せなかったなぁ。救急車も、何度かお願いしたよ。だから、ちょっと慣れてるの」
それ、『介護』っていうんだよね。
「何年かのうちに、ひとりずつ亡くなって……まもなくおなかにサキができて……」
わたしは、おじいちゃんもおばあちゃんも写真でしか顔を見たことがない。
「そのうちに、運転の仕方を忘れちゃった」
『介護』も『育児』も、言葉は知っている。
だけど、ママが何をしてきたか、知らなかった、ちっとも。
「そろそろ運転を練習しようかな。サキだって、大きくなるほど行きたい場所も増えるだろうし、遠くなるだろうし」
ひとりごとのようにそういってから、ママは「よし!」と顔を上げた。
「まずはスーパーに行ってくる。牛の丸焼きは売ってなさそうだから、焼肉はどう?」
「……いいよ」
無理しなくてもいいよ。
紙の運転手でも、けっこうかっこよかったよ、ママ。
(愛知県教育振興会「子とともに ゆう&ゆう」2017年度11月号掲載)
※かなり自分がモデルの作品です。車社会の愛知県では「運転できないお母さん」は非常に少ないのです。わたしも諸事情(大した理由ではない)で運転しないままになりましたし、救急車の誘導はけっこううまい、かも? 「長縄」というのはこの地方でよく聞く姓で、なにげに地元密着型の作品群なのです。
※これらの作品群(ショート・ストーリー 子どもの季節)に関しては、最初の投稿をご覧ください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?