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藤堂豪の草野球読本 10 転職と草野球

10.転職と草野球

 長年、10年程勤め上げた会社を突然、でもありませんが半ばクビ同然に辞める事になりました。理由は辞める1年前位から突然給料の遅配が始まり、営業の責任者で少人数とは言え、実質ナンバー3・2の私は責任を取らされる形に。とはいえ、売上は挙げていたし、給料を払えない程売上が少ない、だなんて事は皆無でした。会社の金の使い方の問題だと今も思っていますが、当時はまだ建設不況で、建設業界に密接な関りのあるこの会社もその煽りは大いに受けていました。書き出せば限は無い位に色々事情はありましたが、兎に角無理無体な理由で銭を作らなければならない状況に追い込まれ、それが出来なくて私は会社を辞める事に。
 そこからの転職活動は大変でした。30代後半にもなると転職も簡単には出来ません。何とか滑り込んだ会社がインフラ企業にセールスプロジェクトチームを送り込む大手企業でしたがそこは契約社員。とは言え通常の正社員よりは確かに給料は良かったし、残業代もちゃんと支払われるだけ支払われていたのですが、いかんせん契約社員。課長職級の役割でしたが、それでも契約社員。この、契約社員と言うのが本当に嫌でした。
 理由は言わずもがな、妻子抱えている身だし、先の見えない割に糞みたいに忙しい。やる事は沢山あるけど、徒労感ばかりが強く、半年その仕事は続けたけど辞めました。これも今思えば正解だったのか、不正解だったのか、皆目見当はつきませんが、その後色々苦労して今の仕事に落ち着いたのは2年半後。その間、家にお金が無いと言う状態だけは避けたかったので兎に角出来る仕事は何でもこなしました。その間も実は草野球だけは辞めませんでした。辞められる訳がありません。息の抜きドコロがそこしかないので。  
 私は結婚してからは酒もギャンブルも女遊びもほぼしなくなっていました。何故かスパっと止める事が出来ました。若い頃は毎晩酒を飲み、それこそ社会人として若手であった頃は何人遊び相手がいたのか、覚えていませんが兎に角よく遊んでいました。朝迄その日に知り合った人と遊んだ後に草野球、とかもザラでした。よく「病気」にならなかったな、と今振り返ると思います。ただ、アホみたいに仕事もするので、それで帳消し位の感覚だったのかも知れません。ただ、余りにも寝ないので過労でぶっ倒れたのが27歳の頃でしたが、それがキッカケだったのかも知れません。元々遊び人だったそんな私を元妻は理解してくれていたのか、どうなのか今となっては知る由はありませんが、草野球に行く事だけは許してくれるようになっていました。とても有り難かったです。
 江東区のチームを監督と喧嘩して辞めたとほぼ同時期に、関草の仲間が俺らも40になるからそろそろチームを再結成するか、と言う事となり、私もそこに呼ばれるように。これには伏線があります。実は彼らの地元の足立区で自治体主催の連盟リーグに2年参加していました。前述の元々の仲間、と言うのがそれです。そこで最下部から2年連続優勝を重ね、これじゃ物足りないから久々に関草に行くか、となりました。この久々に、と言うのも伏線があります。この仲間と言うのは、関東草野球リーグで共に20代後半~30代に掛けて戦った掛け替えのない仲間であり、当時はあった関東草野球特別部(1部の更に上)に参戦したり、ストロングリーグのトーナメント、エアロックカップで関東の部で準決勝迄勝ち上がる等、所謂歴戦の雄、としてその名を残すチームでもありました。しかしチームは自然消滅的に一旦解散し、暫くまともな連絡すら取っていない状態だったのです。それが30代後半~40歳にみんななるタイミングで復活し、足立区の連盟に参戦、そこで2年連続下部リーグながらも優勝しました。
 その優勝していた間、私はエース投手としてリーグ戦を戦い抜きました。その時は私がスターターでもう一人、30代前半ながら派遣会社で社長を務める速球派、N君がリリーフに廻ってと言う流れでした。その時の流れは遅い球を打たせて取る、相手のミスショットを狙うような投球にする、時々気の抜けたシェイクに近い気の抜けたボールややイーファスト等を放る。キャッチャーの返球の方が投手の球よりも速い、お相手がその術中にはまるとランナーは貯まる。そこで私を含めたオッサンが踏ん張る。その繰り返しをしていくうちにお相手が根負けをする、と言う草野球らしい草野球試合で勝ち上がっていった経緯がありました。その上で40になるのだから、と関東草野球リーグ5部に参戦。この足立区のリーグ戦を戦い抜いている間、私はずっと転職活動をしていました。働きながら。
 当時はまだ転職に対する世間の風当たりは強い時期でした。今でこそ転職に対する世間の考え方は変わったと思いますが、転職活動をするだなんて・・・と言うのが一般的だったと思います。それこそ転職するだけで離婚の気持ち的な理由にはなりえる、と言う感じでした。そんな中、仕事が上手く行かず兎に角毎日転職サイトを眺め、履歴書を送り、仕事の後に面接に行って、と言う事を繰り返す夫の私に対して、元妻はどんな気持ちでいたのだろうか?それを考えると筆が全く進まない位に頭擡げます。そんな状態から更に関草に参加、となると普通ならもうブチ切れて勝手にしろ、となる所ですが、元妻はそんな状態でも我慢してくれていました。
 彼女が我慢出来た背景には、自分自身が実家で自営業、生活基盤も実家側には古くからの家なのでしっかりしていて、経済的な不安は少なかった、と言うのはとても大きいと思います。更に自分で稼ぐのは稼ぐので可処分所得も下手したら、家族分で金を使う私よりも遥かに多い。私の小遣いなど、実質的には月4万もあればいい方でした。家計のやりくりは私がしていましたが、元妻がこれを読んだら怒るかも知れないけど、本当に私が自由に使えるお金は4~5万位しか毎月無くて、あとは家族の為、と言うお金に割り振りをしていました。贅沢させてあげられなくてごめん、と毎月思いながら。それでも元妻の経済観念からすると、まだまだ余裕、何となれば実家に戻れば幾らでも自由に使える金はある、と言うのが本当の所だったと思います。
 これが元妻が普通の勤め人であったり、実家が関東ではない、遠くにある人であったなら、決してこうはならなかったと思います。もう、私のようなやり繰りしか出来ない男には三行半を叩き付けて離婚、実家に帰らさせて頂きます、となるのが普通です。
 ただ、元妻側の家庭の事情も折からの失われた三十年の間に環境はガラッと変わりました。残念ながら元妻側の実家稼業はその環境変化に特に対応する事はせず、そのまま商いをしています。実質は財産を切り崩しながら生活をする、と言う事が常態化しているように私には映りました。とは言えそれにしても都心から30分の場所に広大な敷地で工場も持っていたので(マンションに替えましたが)その財産だけでももう十二分に商売しなくとも生きていける、と言う実情があります。
 後に離婚した際、扶養控除の関係から子供の養育の手続きをしていた際、私よりも遥かに多くの納税をしている事が判りました。正直、ビックリしました。私も今は同年代の平均的な年収くらいはありますので、普通に所帯を養えるレベルになっていますが、それを遥かに超える額を納税していると言う事はそれだけ財産を保有している、と言う事に他なりません。
 そんな転職活動と普通の勤務、その二重生活を繰り返しながらの下部とは言えリーグ戦2連覇。土曜日も38歳の時がピークだったように、この頃が草野球選手としてもほぼピークだったと考えるべき所です。これで仕事が安定していたら、もっとやっていたかも、とは思いたい・・・けどやはりたらればですね(汗)

 そうして関東草野球リーグに40歳で参加。私は二番手・三番手投手と言う役割と野手メイン。投手は全部で3人。関東草野球リーグはご存じの方も多いと思いますが、日刊スポーツ主催で関東だけで下部リーグ迄合わせると7部位迄あり、年間10試合のリーグ戦を戦い抜かなければなりません。5部は下っ端ではあるものの、毎年立ち上がりのチームも同じリーグで対戦相手となる事もあり、地味に戦いづらいクラスだと思います。因みにエース投手は先に記載した歴戦の雄。それこそこのチームメンバーが皆関東草野球リーグ特別部でやっていた頃のダブルエースの一人でした。年齢は我々よりも5歳くらいだったか、下なので身体もまだ動くし何より投球術が素晴らしい。球も速く重い。打ちづらい。変化球は5種類位投げる筈。彼を中心としたチーム構築で、見事、第25回関東草野球リーグ5部、総合優勝をしました。私は1試合だけ投げました。たまたまその投げた試合の時に取材の山崎さんが来られて、私を取り上げて下さりましたが、私は40歳不惑のエース、ではありません。しかし、クライマックスシリーズの時にも不惑のエースの私がどこまで・・・と言うような事が書かれていたりして、何ともむず痒い気持ちになっていました。最後、西武ドームのマウンドに立ち1回を3人で抑えた事が、今では草野球の中での一番の思い出となっています。

 余談ですが、その西武ドームの2週間前、クライマックスシリーズの最終戦で、私は肩の靭帯を何本か切りました。2週で治せるか、自信は無かったのですが、そこで生まれて初めてペインクリニックに4回ほど通い、痛み止めをひたすら打ちまくりました。その昔、飲み過ぎで胃に穴を開けた事のあったボルタレンを改めて毎日飲み、下痢に苦しみ下痢からくる高熱、34度にも満たない低体温や嘔吐、あとはそんな状態でも今の仕事で遠方に出向かねばならず、毎日200km近く運転する長時間労働、そんな最悪な状態で迎えた西武ドームでの決勝戦でした。あの試合、打球が来なかった事だけが唯一の救いです。あれで守っていたレフトに飛球されたら、もうゲームはその瞬間終わっていたと思います。投げられない事がばれたら集中的に狙われるのは間違いないですから。

 試合前にウォーミングアップをする際、西武ドームの観客席を走ってみましたが、走るだけで肩にズンズン痛みが響きました。元妻と子供を連れて車で西武ドームに向かう際にも、ボルタレンとロキソニンをダブルで飲んで、その副作用からか、眠気と胃の痛みがダブルで襲いました。運転している間はまだ良かったのですが、西所沢駅近くの開かずの踏切に当たってしまった時は、もうその苦痛がマックスに達して頭の中がおかしくなりそうでした。
 それでも西武ドーム、プロスタの魔術なのでしょうか、モチベーションは上がりまくり、マウンドに立った瞬間、球速は下手したら70キロ台、60キロ台でしょうか、通常放る3種類の変化球もストレートしかほぼ放れない筈なのに、カーブも、ツーシームも、イーファストも全部使って1対0の緊張した場面でリリーフに立ち、打者を3人で抑えました。もう1イニング、行きたかったなぁ。
 投げ終わって翌日から3日間、また激し過ぎる痛みに苛まれ、実際に靭帯が治った、痛みが治まった、と感じたのは翌年の2月位まで待たなければならない程の状態でした。

 大の大人、否普通のおっさんが、ここ迄して取り組む草野球って一体何なのでしょうね。


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