"見られる"についての私観

人に一挙手一投足を見られるのが苦手だ。別に実際に見られていなかったとしても、見られる可能性がある感覚をあまり好まない。今日、休憩中に上司が近くにいたのがあまり気分が良くなかった。私はただ本を読んでいただけだが、至近距離に居られると読みにくい。見られていないのに見られている気になってしまう。

「人からの注目を浴びるのを気にしない」、といったような設問が心理テストには頻出するが、私はいつも悩む。例えば道中で関わる必要のない人に見られるのは気にしないが、その後も関わる人に観察されるのは心的負荷が高く、パフォーマンスが悪くなる。
しかし私も、実家に住んでいる時は常に妹と弟を厳しく監視し、何かあればすぐ注意していた。そのため、二人とも私を怯えていた。それはいまだに名残があり、時たま彼らの行動に怯えの名残を感じる。当時の私の「躾」の厳しさが今になり申し訳なくなる。監視されたくないのに監視してしまうこの自己矛盾に気付いたから、私は独居を始めたのかもしれない。

モデルをする、つまり他人に撮影されるのが苦手なのも、この監視に理由があるのだろう。挙動の細部に亘り、賢愚、美醜、正否を正確に図られ続ける。これが非常にuncomfortableなのである。自撮りと他撮りで随分と表情の気楽さが違うのは誰しもが知るところである。
思えば私は優秀な被写体ではいが、優秀なパフォーマーではあるかもしれない。だからこそGothmuraが現れた。
Gothmuraは暗黒の衣を纏い、黒翳の双眸をぐるりと廻し、大股で街を闊歩し人を魅了する。その活発で自信に満ちた表現は宛ら河邑に直結しているように思えるが、その実これは私の変身願望の表れであり、Gothmuraは謂わば私であって私でない。Gothmuraは、日本という相互監視社会における外れ値の存在、陰湿な監視から逃れ、注目の的、驚嘆の極みとなる理想の分人なのである。
すると昨年のF606の撮影で能面を付けたときの私の開放的な人格も、Gothmuraだといえるだろう。モードファッションに身を包み、能面を被った人体が舞う暗黒舞踏、そのエンターテイメント性と芸術性はGothmuraと同じ発出である。

私は以前、変身願望は性別への抵抗感に由来していると推測し、記事にして公開した(今は下書きに戻している)。男性でいる私を自覚したくないがために、ティムバートン映画のジョニーデップのように、本人としての魅力を超えた一個のキャラクターに変身することを求めた。しかしその考察は今思えばやや的確ではなく、より正確さを期すれば、私という個体を、諸条件を以て一般論で判断されることを嫌ったためだといえる。その条件の一つが男性としての身体であり、先天的に付与された変更不可能な私のレッテルである。ジェンダーロールの規定が如何に人間の可能性を狭めているかを書くには余りにも言葉を費やさねばならないため、ここでは深く追わないが、これも監視によるものであることは言を俟たない。

私の人生のテーゼは、この相互監視社会下に生きることへの抵抗である。日本に生まれてこの方、私はこの日本人的気質を愛したことはなく、この巨悪なる羈絆に抗うべく過ごしてきた。
監視する者は、見ることで対象を束縛する。その結果を以て対象の属性を分析し、行動を解釈し、その先を予測する。対象はその予測に即した行動を取らなければ、この村社会では秩序を乱すものとして(民俗学風にいえば病原菌をもたらす存在として)攻撃対象になる。それは村八分といった行動に現れることもあるが、基本的には陰湿な〈区別〉の眼差しを向けられることになる。
しかも、監視する者の多くはその観察眼は浅はかで、用いる尺度は、村社会と書いたように、価値観が余りにも古い。マスメディアが植え付けた通俗的な謬説を尺度にし、未だにジェンダーロールを私に与えようとする者もいる。反対に、深い観察眼を持つ者も、用いる尺度が「社会規範」や「性悪説」の場合は、私のフリースピリットを浅薄で怠惰だと受け取る。慥かに私は幼稚であり完璧な人間ではないが、粗を探そうと性悪説を以て監視をする彼らの視線を私は峻拒せねばならない。

だからこそ、あらゆる個人を図る指標を持たない人間になりたかった(それがすでに相対的であるのだが)。全ての行動が、監視する彼らにとって予想外であればあるほど好い。彼らの常識にコペルニクス的転回を引き起こし、価値観を変化せしめれば彼らはいずれ予測をやめ、解釈をやめ、監視もやめるだろうという性善説ならではの思い込みがあった。
身体表現において"Timeless, Stateless, Genderless"を掲げるのはこれが発端である。私は、所属がはっきりせず、分類不能な存在であるような表現を好む。これは図らずも足穂のいうところの「男女未分化の人間への憧れ」、「中性の憧憬」と同一のものであり、つまり「宇宙的郷愁」、私の理想とする人間像である。そしてGothmuraとしてこの理想像を表現してきたつもりである。

私は、監視という行為を逆手に取りGothmuraという人格を生み出し、監視されることによってその異質な存在を際立たせることを試みた(そもそも他者からの視線がなければゴスだって際立ちはしないだろう)。では、秘匿したい河邑は何なのだろうか。
私は、己の挙動から、意図を読み取られることが得意でない。浅はかな人には誤解され、目敏い人には幼稚だとあしらわれるのが怖い。私はおそらく、自分の能力、存在を過小に(過大に)評価されることを恐れている。ということは、「自分が理解する(したい)自分」があり、それをそのまま歪みなく相手に理解されたいのだろう。そしてその時初めて、"見つめる"行為を許せるようになるのである。

私は、人に"見つめられたい"という欲望を持っている。どうも私は強い瞳で見つめられることに執着があるらしい。生まれもった力強い瞳で見つめられると、圧倒され、羞恥と高揚で心が亂され快感を覚える。
これは監視を避けるのと背中合わせの感情である。
私は本当は、強烈に、灼かれるほど見つめられたい。黒目と白目の辺縁が際立った力強い瞳に見つめられたいのである。これは一種の性的倒錯といってよい。

しかし、見られるということは、通常私の男性としての存在を見られることにもなる。その拒否感が為に、"見つめられたいけれど見つめられたくない"といった相反する感情を抱いているのである。
だからこそ、「自分が理解する(したい)自分」を見てくれる相手にだけ見つめることを許したいのだろう。
そしてその者が、私を相対的な監視社会下の存在から絶対的な自由な存在へと導いてくれる、私の絶対者なのではないか。


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