俳句作品《禍殃絵図》の解説

第2回カクヨム短歌・俳句コンテストに応募した作品《禍殃絵図》の解説

作品ページ↓



タイトル:禍殃絵図クワアウヱズ


これらの一聯いちれんは、〈わざわい〉、つまり禍殃かおうを予言的に絵図としてしたためた作品である。

人類は未だに争いを絶やさないでいる。連日報道されるパレスチナ人の虐殺問題やウクライナへの侵攻問題は日本にとっても遠い話ではない。
わが国は目下、反民主主義的傾向や、反知性主義的腐敗、政治への無関心、そしてスピリチュアルの面をしたネトウヨ化に直面している。これらはそれぞれがつまるところ他国排斥、非多様化社会に突き進む因子である。
この行先に控えているのは日本が引き起こす ・・・・・・・・民族虐殺や核戦争である。
それらを〈負への永劫回帰〉──つまり繰り返しても良くなるどころか悪い方向へと物事が傾いていく負の連鎖として、批判的、寓話的に描いている。モティーフは原子力/核、生死、来世、負数、混乱、争い、虐殺、吸血鬼といったフランス象徴主義的な題材を用いて悲劇的に提示させた。

今回の連作の季語はすべて歳時記の《冬》の項目から採取している。《冬》にも初冬、仲冬、晩冬(と三冬)とあるが、それらを逆順で配置した。これは伝統的な配置ではないが、負数の循環が一つのテーマであるためだと無理やり意味づけしている。
また、タイトルの絵図えずもそれを表している。これは、『異時同図法』と呼ばれる、いくつかの出来事を同時的に一枚に宿す表現方法に倣っている。例えば源氏物語の絵巻やヒエロニムス・ボスの絵画を見れば、同じ画面内に同一人物が複数回登場していることがわかる。それらと同様に、この一聯では作品を通して俯瞰的に人の愚行を眺められることから〈絵図〉という言葉を用いた。それにより季語の順序の問題を少しく解消させたつもりである。
その出来不出来については、上記リンク先や作品解説を読み、各自判断してもらいたい。



↓以下が各句の解説↓


参宿オライヲンねむる原子炉踏みしだく

おらいおん ねむるげんしろ ふみしだく

季語……オリオン

オリオン座が東の空から昇り、眠りについている原子炉を踏む様子。人類文明最悪の嫡子である原子力と、ギリシア神話の狩人オリオンの対比は人間の想像力の両極性を描いている。
人間は古来より寓話や物語で世界を変えてきたが、近代においては核を用いて物理的に世界を変革させてしまう力も持ち合わせてしまった。
この連作における批評精神を神話的に提示している。

夜半の冬タービン廻るまはるかな

よわのふゆ たーびんまわる まわるかな

季語……夜半の冬/星月の見える空気の冴えた冬の夜

タービンとは原子炉には欠かせない動力である。
寒く静かな冬の夜にタービンの廻る音が響く不気味な風景。自然界と無機質な人工物の対比。
また、「廻るまはる」は、原子力を止められない人間の愚かさと、以後テーマの中心となる負への悪循環、負数の永劫回帰を表している。

生物屑デトリトゥス地を降る夜あけ核の冬

でとりとぅす ちをふるよあけ かくのふゆ

季語……なし (強いて言えば冬)

深海に沈澱する微生物の死骸をデトリトゥスと呼ぶ。それらが夜明けの空から地を降るさまを描いた。生態系が完全に破壊された世界。核の冬とは言葉の通り、核戦争がもたらす暗い冬を意味している。黙示録アポカリプス的近未来、つまり生物が屑となって地に降る世界崩壊後の地球の姿である。

日脚伸ぶみどりごに悪生れし日を

ひあしのぶ みどりごにあく あれしひを

季語……日脚伸ぶ/日脚が伸びて春に向かっている様子

平易な口語訳をすれば「幼い子の中に悪が芽生えた日、日脚は伸びていく」となる。
日脚が伸び、暖かくなっていく予感がするのは人の活動にとっては(少なくとも私にとっては)喜ばしいことであるが、ここでは、時と共に幼い子供に芽生えた悪が顕著になっていく様を示唆している。また、現代社会の悪行が未来の世代に及ぼす影響の暗示でもある。

寒鴉ああ来世といふくわよと鳴け

かんがらす ああらいせという かよとなけ

季語……寒鴉(かんがらす/かんあ)

寒鴉が来世の災いを予告するかのように鳴く。未来に対する絶望や生の不安の象徴。
「禍」の読み方は字数的に「か」を選択したが、旧かな表記で「くわ」になることで、鳥の鳴き声を想起させる力作。

負数のみゑがく縄跳び断つまじや

ふすうのみ えがくなわとび たつまじや

季語……縄跳び

口語訳すれば「負数のみ描く縄跳びを(私は)断つことはできないだろう」となる。
負数とは、0より小さい数(のことだろう、算数はできない)。縄跳びとは、ここでは自らを律し続ける円、宿命を意味している。
負数を描く縄跳びを断つことができない状況とは、つまり、負の連鎖や循環から逃れられない絶望感の象徴である。この句から以後実際の負の連鎖が可視化されていく。

含嗽のたび赤黒きつらら吐く

がんそうの たびあかぐろき つららはく

季語……つらら

含嗽がんそうとは、うがいのこと。
うがいのたびに赤黒い氷柱を吐く光景がグロテスクでもあり美しい句。喀血や吐血は被曝の症状の一つ。ここに描かれているのは個人の病苦と、またはそれをもたらした社会に対する虚無的な視点である。つららを喀血するというメタファーは鋭く痛々しい。

火の鳥やたがふ両翼黒みぞれ

ひとりや たがうりょうよく くろみぞれ

季語……みぞれ

手塚治虫の《火の鳥》をここ最近読んでおり、生命流転、諸行無常、このスケール感のテーマを扱いたかった。火の鳥は不死、再生、あるいは希望を象徴する生き物だが、両翼をたがえることによって、それが歪められている様子を現す。そこに左翼右翼の政治的な対立を暗示している。
「黒い雨」という言葉が原爆後の雨を表すように、「黒みぞれ」には戦争を想起させる。それは政治的混乱、対立の結果としての絶望、暗い未来を象徴する。
また、雪と雨の混交であるみぞれはそれ自体が混迷の象徴である。
正直意味を詰め込みすぎているが、まあ良しとしよう。

旗ふりし手も失せゐしに悴むよ

はたふりし てもうせいしに かじかむよ

季語……かじかむ

口語訳すれば「旗を振っていた手ももう失ってしまったのに、かじかむよ」となる。旗は民衆を先導する騎兵の旗か、あるいは戦勝を讃える凱旋の旗か、はたまた許しを乞う白旗だろうか。それらの手が何らかの原因で喪われてしまった哀しみと無力感を描いている。「火の鳥や〜」後の世界。

冬ざれにむくろ躍れど不死ならず

ふゆざれに むくろおどれど ふしならず

季語……冬ざれ/冬の荒涼とした草木や原

冬の荒れ果てた土地に骸骨が起き上がって躍る。しかし彼らは不死ではない。人に踏み荒らされて動くのか、風の吹くためか、あるいは幻視か。
むくろが起き上がるのは死から生への時間の逆行も想起させる。それは不死の暗示かと思えば、その実、不死ではないようだ。たとえしかばねが動いたところで屍は屍である。不死を目論む虚しさも同時に表している。

深雪晴れ民族浄化果てにけり

みゆきばれ みんぞくじょうか はてにけり

季語……深雪晴/雪の深く積もった次の朝の晴れた様子

雪の積もった次の日の朝、蒼穹の青と雪後の純白の清々しい世界に、虐殺された人の血があたりに撒き散らされているのが見える。その残酷さの対比。美しい朝の静謐は大量虐殺によってもたらされた、その悲劇的な静寂。

この句を以てテーマは戦争や虐殺に移行する。以下に続く連作の中で、この句は虐殺後から始まる。

磔刑を黒天鵝しろく迎へ入る

たっけいを こくちょうしろく むかえいる

季語……黒鳥/ブラックスワン

黒鳥は漆黒の身体に純白の羽を折りたたんで隠しもつオーストラリアなどに実在する白鳥の一種。
黒鳥は羽を広げると黒白のコントラストになるが、その十字架の様を磔刑に喩えた。死を迎え入れていく様子がドラマティック。
白は羽の色であると同時に、無実の罪(潔白)を意味し、この虐殺が不公平な裁きであることを嘆いている。

雪しまき護国といへば侵攻は

ゆきしまき ごこくといえば しんこうは

季語……雪しまき/地吹雪や吹雪のこと

猛吹雪の中で、護国と謳いつつ侵攻を行う矛盾を象徴している。ロシア軍、イスラエルは国を護るためと称して他国や民俗を進行、迫害している。この姿に100年前の日本軍を層ねてもよいだろう。彼らの暴力性を雪の比喩を用いて批判した一句。
現代の日本においても、陰謀論が他国排斥につながりかねない。その影響力を危惧している中、護国という言葉を思いつきすぐさま完成した。

「○○は」で終わらせる句は「や/かな」のような切れがないが、次に続く言葉を言い残すことでより訴えかけている印象が得られるのではないか。


英霊のこゑ逆巻ける狩場かな

えいれいの こえさかまける かりばかな

季語……狩場

戦場で逆巻く英霊(戦死者)の声は、戦争や虐殺が繰り返された悲惨さ、嘆きを象徴している。英霊は特に日本兵を表す言葉であるため、前段より続くこの虐殺の加害者は日本で、それはこの国の近い未来ではないかと解釈もできる。
戦死者の霊が虐殺の最中騒ぎ立てる様子はおどろおどろしいこと極まりない。
「逆巻く」というのも時間が巻き戻る、負数のイメージを意識させる。

殺戮ののち煤払ふニケの頸

さつりくの のちすすはらう にけのくび

季語……煤払う

勝利の女神ニケ、つまりサモトラケのニケ像のくびを掃除する様だが、それは殺戮を終えたあとの、凱旋としての掃除である。人を残虐非道に殺した後に既に壊れた彫像を丁寧に手入れする様子がなんともグロテスクではないだろうか。虐殺の批判。

霜降るる汝は独房を祖国とす

しもおるる なはどくぼうを そこくとす

季語……霜

霜が降りるなれとは、霜が降りるまで倒れ続ける人のイメージ。その人には祖国があるが、それは独房、つまり他国との関わりを断ち切った祖国である。政治の腐敗が進み鎖国状態に陥る日本の近未来か。
異国の地で倒れるおそらく徴兵されたその人は、死ぬ間際に祖国を怨むのだろうか。

絵屏風や美しき南蛮吸血鬼

えびょうぶや はしきなんばん きゅうけつき

季語……絵屏風

南蛮屏風が大好きなので入れてしまった初期作。南蛮屏風に描かれた吸血鬼というテーマは私がインスピレーションとしてよく用いる設定。
金屏風に描かれた悉皆黒服の南蛮人に混ざる吸血鬼、彼らの肌の白さと血の匂いは金屏風にコントラストをもたらす。その色彩の絢爛さはまさしくGothmuraの世界観ではないだろうか。
正直この連作ではこのテーマは浮いていることを認めざるを得ないが、タイトルを《禍殃絵図》にしたことで作品全体の絵画的アプローチを押し出し、無理やり集録した。結果的にモティーフとしての南蛮屏風が明記されることで、上記作品群を絵図的、寓話的にまとめる助けにもなっている。連作だからこその相乗効果もあれば嬉しい。
この句は、以下の三句と共に吸血鬼を匂わす四曲一双の連作となる。

美男子の血吸へどかわく憂国忌

びなんしの ちすえどかわく ゆうこくき

季語……憂国忌/三島由紀夫の自決した11/25の呼び名。

三島由紀夫の持つ同性愛的耽美世界に、吸血鬼の耽美さを掛け合わせた一句。
血を吸っても渇く吸血鬼とは、つまり終わらない欲望と不死であることの虚しさを描いている。また、「憂国」という言葉が英霊や護国と共鳴する。憂国の行き着く先の社会から自分を切り離して、例えば古城に籠って美男子らを犯し続ける一種の厭世的、flamboyantな情景を描いている。

千年の渇水期、午后の<悪習>

せんねんの かっすいき ごごのあくしゅう

季語……渇水期

千年と午後の時間の対比が美しくて好きな一句。〈悪習〉とは三島の『仮面の告白』で自慰行為を表す言葉。
千年の渇水期の中で繰り返されるひとときの快楽とは、人類が渇望し続けるバタイユの禁止に対する侵犯的な世界の象徴。いくら快楽を得てもこれからも渇き続ける人間の業や虚しさを描いている。

息しろし陽を享くる頭ゆ灰となる

いきしろし ひをうくるずゆ はいとなる

季語……息白し

陽を浴びて灰となっていく吸血鬼。
本連作では能動的に世界を変革するのではなく、受動的に悲劇に絡め取られる残酷な運命を描いているが、連作を締めくくるこの句はそれを自ら断ち切る様子を描いた。
もしこの連作に主観を持つ存在があるとすれば、その者はこのようにして負の連鎖を断ったのである。

おまけ

旧かな旧字体でこの作品を読めばより凄みが出るので本当はこちらで投稿したかったが、あまりにも堀田季何フォロワーすぎるので控えた。おまけとしてここに掲載させてもらいたい。

禍殃繪圖クワアウヱズ

參宿オライヲンねむる原子爐踏みしだく
夜半の冬タービン廻るまはるかな
生物屑デトリトゥス地を降る夜あけ核の冬
日脚伸ぶみどりごに惡れし日を
寒鴉ああ來世といふくわよと鳴け
負數のみゑがく繩跳び斷つまじや
含嗽のたび赤黑きつらら吐く
火の鳥やたがふ兩翼黑みぞれ
旗ふりし手も失せゐしに悴むよ
冬ざれにむくろ躍れど不死ならず
深雪晴れ民族淨化果てにけり
磔刑を黑天鵝こくちやうしろく迎へ入る
雪しまき護國といへば侵攻は
英靈のこゑ逆卷ける狩場かな
殺戮ののち煤拂ふニケの頸
るる汝は獨房を祖國とす
繪屏風や美しき南蠻吸血鬼
美男子の血吸へどかわく憂國忌
千年の渴水期、午后の<惡習>
息しろし陽を享くる頭ゆ灰となる

後記


正直力みすぎているのも自覚している。
俳句というのは季語をハッシュタグとして、その季語に対する最高の解釈を目指す詩型だと考えているが(おそらく違うが二週間の私にはそう見える)、私は象徴主義的な作風への系統から、わざと季語に悪意をもって対峙した。そのために季語が主役にならず、描きたい世界の補佐として季語を用いている。だからこその情報量であり、省略の美学からはほど遠い。

今回俳句に挑戦したのは、選考員の堀田季何さんへの敬愛からであった。私にはまだ堀田さんのような叙情の品格を湛えた作品は作れないだろう。重々承知である。
その一方で、作品を通して通底するマキシマリズムの傾向は俳句歴二週間とは思えぬクオリティで提示できてはいないだろうか。
普段からGothmuraを見てくれているGothmura Watcherの方々にとっては、この一聯は正しく私らしい作品だと思ってもらえると信じている。最近は公開して文章を書く機会をとっていなかったが、またこの二十句連作をもって、私の一貫した美学の編集力を感じてもらえれば幸いである。

常に私の目指すのは見られることよりも見ることであり、詩人、アーティストとして世界の見方を提示し続けていくことである。
その先にある"正しく理解されたい"という私の最大の欲望のために、今後も私は創作を続けていくしかないのだろう。