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伝説のレコード・ディレクター「我がロック革命」

石坂敬一氏と言えば、僕が高校生になるのと前後して洋楽に興味を持ち、あっという間にのめり込んでいった時期、FMや雑誌、TV等でお馴染みだった人物だが、「それはビートルズから始まった」と副題にあるが如し、63年に「プリーズ・プリーズ・ミー」でショックを受け、66年の来日公演を観て人生が決まったという氏のレコード・ディレクター/プロデューサーとしての数々の弩級エピソードと強い信念に引き込まれ、あっという間に完読した。2016年に惜しくも他界してしまったが、まさに自ら名乗るような「ハード・ドライヴィング」な人生だったのだろう。

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そんな彼の「仕事」のなかで、ビートルズ・ファンとして気づくのは、70年代中頃の所謂「国旗帯」こそ、日本にビートルズが根付いた最も大きな理由なのだと知った。LPからCD時代となり、さらにサブスクと、現代も過去も同じ土壌で手軽に接することが出来る今でこそいわゆる「カタログ・ビジネス」は普通になったが、ビートルズ解散後の70年代にいち早くそれに取り組んだのが、石坂さんだった。ビートルズをもう一度捉え直し、英国盤のファースト・アルバムから系統立てて聴いていこうと、ファンを啓蒙した。

ビートルズ現役時代にはジャケットも含め、オリジナルの形で日本で発売されていなかった初期の英国盤をまず、きっちりと出し直した。リアルタイムで聴いていたオールドファンにもアピールしただろうし、ライナーノーツにレコードの感想以上の意味を持たせ、同時にディスコグラフィーを整理し、さらにビートルズの基礎知識を説明した冊子を作るなどして、現役時代を知らない新しいファンにも親切で興味を引く入り口を作ったと言える。実際、僕もそうだが、アフター・ザ・ビートルズ世代は研究熱心だから、そういうアプローチが功を奏したはずだ。英国盤だけではない。アメリカのキャピトル盤やドイツ、オランダ、イタリア、そして何より日本と各国盤も充実させた。その結果、日本におけるビートルズのレコードセールスは現役時代の60年代より、70年代の方が大きかったという。

読んでいて、あの70年代の洋楽の情報が限られていたがゆえに、リスナー(当時、そういう呼び方は存在しなかったが)とミュージシャンを繋ぐレコードをさらに翻訳して伝える役割として、レコード・ディレクターや評論家には有名人が何人もいたのを思い出したが、石坂さんは飛び抜けて、イタコかソムリエかというくらいその役を最大限MAXに務めたと思う。「原子心母」に代表されるロックの「邦題」に関しても「日本の洋楽」というコンセプトで独特の付加価値を与えていたんだということもよくわかったし、後の日本の音楽業界に重要な役割を果たした人物も多数登場して、タイムマシンに乗ったような感覚に襲われた。そして80年暮れ、師と仰いだジョンの暗殺により、東芝EMIを離れ、邦楽に打ち込んでいくくだりには、あの「カバーズ」問題についても書かれているが、「ハード・ドライヴィング・ビジネスマン」と称し、組織を登り詰めていく様は壮絶なものを感じた。読みながら傍線引きたくなる箇所がいっぱいな本だ。

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