ドサクサ日記 1/3-9 2022

3日。
諸用でショッピングモールまで自動車で出かけて、カフェで残念なサンドイッチを齧って帰ってきた。ショッピングモールの駐車場にはいろいろな車が停まっていた。プラモデルみたいな艶消しブラックの車とか、スバルのスポーツカーとか、名前も知らないメーカーの車とか、人の趣味は多種多様で、見ているだけで楽しい。80年代のホンダのシビックや、ゴルフ2のようなフォルムの車が好きだ。

4日。
どっぷりとYouTubeを観たあとは、決まって不安になる。Googleに何もかも巻き上げられたうえに、すっぽりと時間をどこかに落としてきたような気分になるからだ。多くの人が一攫千金を夢見てYouTuberを目指す。この先にあるのは焼け野原か、あるいは新しい肥沃な大地か、それはよくわからない。本を読んだり映画を見たり、そんな時間にしてもよかったと思うけれど、何となく観ちゃう怖さ。

5日。
ギターの練習。練習は楽しいときと楽しくないときがある。技術なり、知識なり、何かが身に付くと感じられる練習は楽しい。けれども、決められた何かに達するための練習は辛い。例えば、明日の録音で絶対に弾かないといけないフレーズの練習。そのフレーズを考え出すための練習は楽しかったのに、どうしてだろう。「何かをしたい」と「何かをしなくては」のバランスの問題かもしれない。

6日。
ギターの録音。楽しい。ひたすらに楽しい。ここ数年の間に集めたペダルが見事に活躍する。数十個のペダルのなから、これだというものを選び、その選択がこれぞという音色に結びついたときの快感は、何ものにも代え難い。ギターなんてダサい、みたいなムードは繰り返しやってくる。音楽にはトレンドがあるから仕方がない。けれども、俺はギターという楽器と、それにまつわる機材がとても好きだ。

7日。
朝に七草粥を食べる。無病息災を願う風習というだけでなく、本当かどうかは知らないが、年末年始の飲食で忙しかった胃腸を休めるという目的や効果もあるらしい。ランチはカレー饂飩を食べた。饂飩だけで十分なはずなのに、カレーの入った出汁が「ご飯はどこですか?」と俺に問う。うっかりライスを注文する。胃腸を休めるはずだった七草粥も、小腸のあたりでため息をついているだろう。

8日。
送っていただいた『tattva』という雑誌のデヴィッド・バーンのインタビューを読む。彼は言う、音楽の持つ力について「音楽には人を孤独から遠ざける力がある」と。ゆえに「歌は希望や精神的援助を提示」することがでるとも。同意する。こんなことを思っているのは自分だけじゃなかったと、共感とはまた違う肯定感をいくつかの音楽から得て、自分はここに何とか立っている。素敵な力だと思う。

9日。
続く。音楽に社会を変える力は、残念ながらほとんどないのではないかと俺は思う。しかし、たった独り、暗闇のなかで萎れてしまう何かや、自らたたき折ってしまう何かを、優しく照らしたり、そうした暗闇のなかにいる人々を繋ぎ合わせたり、それぞれの暗闇の隔たりから些細で愛おしい共通項を見せてくれたりする。その担い手たちが、そうした力を社会に投げ出すことについて、デヴィッドは「市民として、社会的かつ政治的な活動に参加する義務があると、僕は心から信じている」と言う。まったく同意しかない。このあとに拙い自分の考えを付け加えるとしたら、自分の場所で行うということが大事なのではないかと最近はよく考える。誰かの用意した何かに無闇に乗り込むのではなく、独立独歩のまま、通じ合える仲間たちと場を作ること。私が私であることを、手放さないこと。