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Around The Lives By The Sea #3

 3回目はM2の「Nothing But Love」について。

丸裸のまま生き直すこと

 2011年以降、俺は新しい人生を生きている。1,000年に一度の震災、大袈裟な言い回しではなく、「運良く生き延びただけだ」と感じた。人生にリセットボタンはないけれど、死んだ気になって生き直したいと思った。

 震災後は、どこへ行っても丸裸の自分を試されているようだった。避難所の仮設のステージでは、自分に張り付いているバイアスや、これまでの自己評価の類はほとんど無効で、ありのままの自分の、持っているだけの音楽的な能力しか使えるものがなかった。生き方そのものを問われているような体験だった。

余計な何かを着込んで、自分をよく見せようとしても(卑下するように悪く見せることも同じ)、ここぞというときには全てが露見してしまう。生き方や考え方と表現を分けることなんて不可能で、不可分だと俺は思った。ステージの上ではすべてが問われる。

「やりたくねえ事やってる暇はねえ」。THE BLUE HARTSの「ブルースをけとばせ」の歌詞が沁みた。あっという間に、そのときはやってくる。余計な何かを脱ぎ捨てれば自由だし、いくらか身も心も軽くなった。朗らかに、切実に生きていこうと思った。

 そうやって暮らしていると仲間にも恵まれるもので、一緒に居て気持ちのいい人が集まってくる確率が上がるように思う。

仲間からの嬉しいプレゼント

 震災以降に親しくなった仲間のひとりであるシモリョーが、ある日、俺にプレゼントしてくれたのが「Nothing But Love」のトラックだった。

 ちょうど自身のバンドthe chef cook meの傑作アルバム『Feeling』を作り終えた時期で、シェフの新作の雰囲気には馴染まなかったが、俺のソロが目指す方向性にマッチしているのではないかと送ってくれたのだった。

 一聴して、素晴らしいと思った。こんなにいい感じのトラックをひとに与えてしまっていいのだろうかとも思ったけれど、これはシングル曲ができると俺は盛り上がって、シモリョーの気が変わらないうちに作業せねばと思った(インストをラジオ番組のSEに使いたいという連絡が来たときには「やめて!」と焦った。笑)。

 まずは楽器ごとに分けて送ってもらったトラックを分割し、メロディを考えながら構成を少し変えた。そして、Pro Toolsのセッションファイルや各トラックの音源ファイルのやりとりをしながら、詩とメロディを固めて、アレンジをブラッシュアップしてもらった。デモ音源と考えるのではなく、完成形を想定して、そのまま使える音として作業を進めたところが今の時代っぽい作り方だなと思う。

2019年の最大の衝撃

 録音はZakさんのスタジオで行った。

 日暮愛葉さんの仕事で使わせてもらったZakさんのスタジオの印象がとても良かったし、「愛葉セッション」の良いバイブスを保ったまま新曲の録音をしたいという思いもあった。エンジニアは愛葉さんのアルバムと同じく、岩谷啓士郎。2019年のディープインパクト、skillkillsの弘中兄弟に会いたいという気持ちも強かった。

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 弘中兄弟は、夕方にふらっと入店した居酒屋の店員に「もう閉店です」を告げられたことのあるくらい、なかなかクセの強い風貌だけれど、音楽的なアイデアと技術、人柄、どこを切っても最高で、気持ちがいい。腹が捩れるくらい笑いながら緊張感のあるアルバムを作るというアンビバレントな作業が成立したのは、彼らの活躍によるところが大きい。

 シモリョーが組んだドラムはDAWで音符を細かく分割したもので、独特のヨレがあるテクニカルなフレーズだった。ビートさとしはそれをほとんど完璧に再現してくれた。

 もっとも、skillkillsは兄であるスグル君(GuruConnect)が組み上げた変態的/ユニークなビートを、ビートさとしの技術を用いて人力再現するという構造になっている。シモリョーのビートアレンジが進んだトラックを聴いて、頭に浮かんだドラマーがビートさとしだった。彼なら生音で再現できると思った。

 ほぼ何でも叩ける技術、努力家。そのうえ、朗らかときている。ありとあらゆる音楽の現場に呼ばれるべき人材だろう。繊細かつ大胆、「余人をもって代え難い」というのはこういう人のことを言うのだと思う。

もうひとりの異能の人

 ギターはもうひとりの異能の人、Turntable Films井上陽介。彼が一度デモに当てたフレーズをシモリョーがチョップして編集し、難易度が高くなったフレーズを耳コピして再現するという、なかなかシビれる方法で録音した。

 HIP HOPやビートミュージック的な楽曲が多い俺の3rdアルバムでは、そうした音楽への接近や越境が表のテーマだとすると、「ギターをどう配置するのか」というのが裏テーマでもあったと思う。そのあたり、かなり工夫してくれたと思う。

 とにかく年中いろいろな音楽を掘り下げて聴いていて、引き出しが多い。会うたびに違う音楽の本を読んでいる勉強家でもある。彼の音楽的知性はいつも俺を助けてくれる。2020年はBill Frisellなんかをよく聴いていたとのこと。

 俺のアルバムに先駆けて発売されたTurntable Filmsのアルバムは、サウンドデザインが秀逸なので是非聴いてみてほしい。インディ・フォーク/ロックを標榜するバンドなどは大変に参考になると思う。

生者の魂を鎮める歌

 歌の録音はそのままZakさんのスタジオで。Zakさんに借りた300万円くらいする高額なTubeのマイクと、買ったばかりのCHANDLERのREDDを立てて録音。Cold Brain Studioでのエディットとミックスでは、その両方を混ぜ合わせて使用した。

 クワイアの録音は、青葉台スタジオにて。エンジニアはアジカンの作品でもお馴染みの中村研一さん。クワイアはTokyo Embassy Choirにお願いした。4名でブースに入ってもらって複数のテイクを収録、ミックスで人数感を演出した。

 クワイアの雰囲気はメロディを考えているときから頭のなかで漠然とイメージしていたもので、彼らの協力によって実現できて嬉しかった。クワイアによる多人数感は、悲しいメロディに宿る喪失感を包むようだと思う。優しい。

 教会やゴスペルの雰囲気を感じる音楽からは、なんらかの癒しというか、安堵のような感覚や、生への祝福、つまり生きていることを肯定してくれるようなフィーリングを受け取る。ここ数年は、そういう音楽が妙に肌身に合った。宗教性に宿る祈りのような感覚を求めていたんだと思う。

 ある意味で、あるいはある分野と地域で、人間と科学は神殺しに成功したのかもしれない。人間とお金が神様になり、いずれ未踏の場所の全てを我々が正しくマッピングするのだと言わんがばかりの傲慢さで闊歩する。俺も多かれ少なかれ、その傲慢さの一部なんだと思う。

 すがるものが愛しかないのは、きっとさもしいことだ。

 その場合の愛とは、愛のイメージがひどく限定された場合についてだと願いたい(例えば、それは性愛と欲望)。本来、愛には見返りのない思いや、祈りが含まれていた。死者ではなく、残された生者にこそ鎮魂が必要なのかもしれないと、俺は思う。

 何もない。けれども、愛。

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