![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/121572301/rectangle_large_type_2_3f3d2af9e6cfd1d740a02a34c3072d52.jpeg?width=800)
社会というものを、一人ひとりの人間の、切れば血のでるような<人生>のひしめきとして捉えたい
柄谷行人氏、見田宗介氏がどうしてその仕事に辿り着き、先見的・先進的な思想に辿り着いたのかを大澤真幸さんが問うインタビュー集『戦後思想の到達点』(NHK出版)から。
柄谷行人氏が提唱している「交換様式D」についての考察を深めるべく手に取った本。電気が走るように駆け抜けたのは、社会学者・見田宗介の言葉だった。
社会学を仕事としようとしたときに最初に思ったのは、社会というものを、上流、中流、下流とか、資本家階級と労働者階級とか、都市と農村というように、構造としてとらえることももちろん大切だけれども、それよりも根本的なところで、社会というものを、一人ひとりの人間の、切れば血のでるような<人生>のひしめきとして捉えたい、ということでした。
不意のパンチライン。自分の興味は社会の様々なあり方を土台として規定する「交換様式」にあるのだけれど、それを考える前提として、どういう態度で臨むのかということについて、とても考えさせられる一文だと思う。
構造を考える上でのラベリング(都市、農村、家族、etc.)は、思考の整理に役立つ。しかし、それぞれの人生からは遠ざかるような側面も持っている。教科書に書かれる太文字の歴史は、多くの場合において、庶民の歴史<民俗史>まではカバーしていない。民俗史がそれぞれの個人の歴史=人生の集積を丸っと表すのは、その紙幅(情報量)が許さないが、その眼差しの向きの違いについて、考える必要はあると思う。
個別の人生から遠ざかることなく「社会」を考えること。理解のために論理を整理するとき、誰かをのっぺらぼうにしたり、踏みつけたりしている可能性について省みる態度を、忘れずにいたいと思う。