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ドサクサ日記 4/17-23 2023

17日。
右の腕がバキバキなのでせんねん灸を使って自分で治療する。熱いというか痛いと感じたら即座に外すのがポイントだ。ずっと前に、こんなに熱く感じるのはきっと腕が相当疲れているからで、良薬口に苦し的なかたちで効果を皮膚が感じているのだろうと思っていたら、きっちりと火傷をした。水脹れができて、今でもその痕が残っている。それ以来、お灸と張り合うのはやめた。自己流でも意外と楽になる。

18日。
作曲について考える。「曲を書く」という言葉をよく使う。けれども、自分の仕事は多くの場合、曲を書いているというよりは歌を作っている。Musicでもあるけれど、紛れもないSongだ。Musicの地平は広い。現代音楽を経て、五線譜や平均律の外にまで広がっている。地平というか宇宙かもしれない。その直中で、歌の持っている役割や性質にフォーカスするのは骨が折れる。けれども、面白い。楽理も習わずに、ほとんど出鱈目の地平から、情熱だけを頼りに歩んで来た。音楽家だなんて言うと笑われるかもしれないが、音楽はプロフェッショナルと言われている人たちの所有物ではない。俺には俺の詩情があり、この身体や命を通してしか発露されない歌がある。それはまったく採譜すらできない、ただの鼻歌かもしれない。それで何が悪い。Music is all we got。歌だってノイズだって、それは俺たちのもの。

19日。
坂本さんと一緒に始めたD2021という集いの、神宮外苑の木々の伐採に反対する集会についての話し合いが続いている。NO NUKESというフェスの終盤、若い世代に広がりを欠く活動に坂本さんは問題意識を持っていた。世代を超えて、より良い社会に向けて声を上げる人たちを増やさなければ、そんな思いで20代や30代のメンバーを集めて再結合するようにD2021はスタートした。当時は集いに名前すらなかった。俺たちは坂本さんを囲んで、名前を考えるところから始めたのだ。柄谷行人さんの「交換様式D」から着想を得て、「D」という名前になった。貨幣と商品の交換という様式(交換様式C)のなかで、私たちの身体や魂までもが商品にされようとしている。森の木が開発ために切られることと、横たわることのできない排除設備としての公園のベンチはとても似ている。そうした社会の性質を変えるためには、交換様式も含めて、新しい発想が必要だと思う。Cの先のDを考える。もちろん、簡単ではない。柄谷さんは「贈与と返礼(交換様式A)の高次元での回復」だと言う。抽象的な表現で戸惑う。しかし、これをどうやって実践してみせるのか、それはどういうことなのか、学者とは別の目線で、現場でやってみる以外に社会を変える術はない。変化とは、誰かに教えてもらうことではなくて、私自身が変化の一部になってみせることなのだから。小さくても、教授の想いに連なりたい。

20日。
ネットでの炎上を考えると、ギューっと背中の奥のほうが縮む感じがする。どちらかと言えばタフな人間だと思うし、炎上の原因は他ならぬ自分であるのだから仕方ないと考えていても、精神がギリギリと削られる感じがする。身を持って学ぶとはこういうことだろう。一方で、私たちは常々、別のものを見ている。違う文脈の、違う言葉を読んでいる。そうした世界の複雑さに目を向けたい。どん詰まりだと思われる環境に身を置いたとしても、それは世界の細胞のひとつにしか過ぎず、地球の裏側には出会うこともないスペイン語のコミュニティがあり、それとまったく違わない距離感で、いくつものコミュニティが自宅の壁の向こうにも存在する。あなたや私を生かす(やり直すでもいい)場所が無数にあるのだ。そしてそういう未知の領域は誰にでもある。近しい誰かでも、知っていることは驚くほど少ない。

21日。
サーフブンガクカマクラの作業が大詰め。自分のスタジオを持ち(賃貸だけど)、自分で納品できるクオリティの録音ができるようになったのは大きい。ミックスまで漕ぎ着けた楽曲に足したいことや、変更したいことがあった場合でも、即座に対応できる。音楽の仕事は他にも山積みで、一緒に作品を作っているバンドのエディットやミキシングも同時進行。エンジニアの仕事にはもっと陽が当たってほしい。

22日。
神宮外苑前には、入れ替わり立ち替わりで数千人が集まってくれた。樹木の伐採に反対する声は、他の人たちのほうが切実なメッセージも持っていると思ったのもあるし、俺は坂本さんのことや彼の意志についてを話さねばならないと思って、スピーチをして、「夜を越えて」を歌った。自分が音楽について考えている思いは、CINRAの記事に丸っとスピーチの文章が掲載されている。原稿は用意せず、普段から考えていることをその場で考えて(というか自動操縦で)話したので、支離滅裂だった嫌だなと思ったけれど、記事を読む限りではまとまっていて良かった。もっとも、支離滅裂な言葉でも、言葉には音があり、身振りがあり、そこには言語化できないフィールがあり、私たちは他愛のない言葉で埋め尽くされたような友人たちとの談笑に、言葉以外のなにかをキャッチして、それだけで生き延びたりできる。

代読した、いとうせいこうさんの文章(というか美しい詩でもある)を掲載しておく。とても素晴らしい言葉だと思う。そして、同じく読ませてもらった、坂本さんの言葉も。

一本の樹木は森である

一本の樹木にもよく見れば小さなクモやアリ、あるいはもっと小さなコケや菌類などがたくさん宿っており、そこに蝶がかすめ飛び、鳥が休み、時にはタヌキなどが木の実を食べに訪れます。つまり一本の樹木はひとつの森のような存在なのです。
したがってひとつの樹木を伐ることは、ひとつの森を滅ぼすことです。
十本の樹木なら十の森、百本なら百の森、三千本ならば三千の森を私たちは潰してしまうのです。
鎮守の森というように、私たちは森に神社を造り、長い寿命を持つ樹木から仏像を彫り出し、暮らしの原点である里山を樹木のもとにこしらえてきました。
ゆえに一部の限られた人々の経済的利益のために多くの森を破壊することは、日本文化の自滅です。
どうか木々を救っていただきますよう、私たち自身で救えますよう、強く願っています。

いとうせいこう

いとうせいこう「一本の樹木は森である」

私のように多少名前が世に知られた者の声ではなく、市民ひとりひとりがこの問題を知り、直視し、将来はどのような姿であって欲しいのか、それぞれが声を上げるべきだと思います。日々の生活でたった今・この時に声を上げることが難しい場合でも、次の選挙で意向を投影することは可能です。
選挙も消費行動も等しい力を持って1票になると思います。

共同通信社のメールインタビューより

23日。
余韻のなかで仕事。友人たちとの録音作業はとても楽しい。やっぱり自分は音楽の人で、こうして音楽の仕事ができているのは幸せなことだ。「無駄を愛でよ」。坂本さんの言葉だという。確かに、ある角度から見れば、音楽は無駄だろう。けれども、こうした無駄が社会の潤滑油になっている。友人が書いた1行の歌詞にハッとして、奇跡のバランスで成り立つアンサンブルに驚く。矛盾しているが、無駄こそが必要だなと思う。こういう矛盾こそが人間らしさではないかと思う。ゆえに、パキパキと何かを整理整頓していくとき、整理することに気持ちよさを感じる反面、断捨離みたいなやり方に、なんとも言えない違和感を感じることがある。思い出の服や、読み漁った本を処分するときの、なんとも言えない気持ち。本棚や箪笥はいっぱいで、仕方のないことだけれど、こういう気持ちは捨ててはいけないと思う。