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ドライブ・イン・フェスの未来を妄想する

 ソーシャル・ディスタンスを守るために、ドイツやアメリカで車で参加できるドライブ・イン形式のレイブやフェスが開催されるのだという記事をいくつか読んだ。

 フェスが開催できるのはいいことだなと思いつつ、全世界から入るであろう無数のツッコミのうちのいくつかが俺の内心で盛り上がって発露させたくなる。けれども、それは誰しもが思うことであって特段に珍しいものではなく、ここに書くだけカロリーの無駄なので割愛したい。

 なので、どうやったらその無数のツッコミを突き破って、開催する意味や意義にまで漕ぎ着けるのかということに糖分を使いたいと思う。

 最初に断っておくと、新型コロナウイルスが今後どのように社会に位置付けられていくのかというのはわからない。

 インフルエンザのように社会生活のなかに組み込まれて、予防や対策、症状緩和や治療薬が開発され、「共生」と呼んでいいのかは分からないが、「受容」に近いかたちにならなければ「ドライブ・イン・フェス」も厳しいところがあるし、あるいは完全に受容されてしまえば「ドライブ・イン・フェス」そのものの必要性がなくなるかもしれない。

 それも端に置きたい。

 というか、何もかもを端に置いたひとが荒唐無稽な妄想を開陳している。と思って読み進めてほしい。ロックミュージシャンが書く雑文など、そんなものだろう。

「走る電池」としての電気自動車

 フェスに集う自動車のすべてが電気自動車ならば、とても面白いことになると思う。

 電気自動車は電気をバカバカ使う悪の権化ではなくて、端的に言えば「走る電池」だ。

 電気というのは貯めておくことが難しい。作ったそばから使わねばということで、需要に合わせて電力会社は出力の調整を行なっている。それはとても難しい技術で、再生可能エネルギーの導入を拒むひとつの理由としても挙げられている(太陽光発電の不安定さは、多くの人が知っているとおり)。

 揚水発電はあまったエネルギーで水を高いところに汲み上げて、そのエネルギーを保存して再利用する仕組みだと思うけれど、巨大な電池だと考えることができる。

 これを個人のレベルにまで分散できるひとつの好例が電気自動車だろう。誰しもがエネルギーを自宅や職場などで自動車に蓄えることができる。もちろん、使用することもできる。インフラさえ整えば、網の目のように各自動車が繋がりあって、融通し合うよいうな仕組みができあがる。つまりシェアできる。エネルギーのロスが減る。とてもエコロジカルな発明だと俺は考えている。

 観客のいくらかが電気自動車で集まる。

 駐車場の駐車スペースではそれぞれの車がフェス会場の電力網に接続して、蓄えた電力によって会場の電力が賄われる。楽器もスクリーンも、皆が持ち寄った電気が使われる。

 そうなったら面白い。

 車そのものにも、太陽光などから直接蓄電する機能が標準装備される時代が来るかもしれない。車が走行する振動などを電力に変換する装置も発明されるだろう。

 たとえば、アジカンのツアーでは、楽器や音響の電力をすでに太陽光発電と蓄電池で賄っている。トラック一台分の機材が必要で、持ち運びには経費がかかるが、音のヌケが良くなる(これは俺たちの現場での感覚だけれども)というメリットもある。

 フェスだけでなく、それぞれの街でも、電気自動車が走る電池となり、供給過多のクッションになり、需要に対しては供給源となる。発電はなるべく環境に優しいものが選ばれる。それを僕たちは自然なかたちで、特別な思考も必要もなく利用する。そんな未来を夢想する。

 電気自動車で来場すると、使われた分の電気が払い戻されたり、チケット代や飲食代が割引になるようなサービスが行われたりするかもしれない。

 そう考えると、「ドライブ・イン・フェス」も悪くない。