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小説「ころがる彼女」・第11話

「ベスや。そろそろお部屋へ行こうか」
 夜十一時。ウイスキーのグラスを片づけた邦春は、居間のベッドで寝ている愛犬に声をかけた。隣にある六畳の和室が彼らの寝室になっており、そこには邦春とベス、それぞれのベッドが並んで置かれている。朝までの睡眠は、愛犬もそこで取るのだ。
 居間の電気を消した邦春は、ベスを抱いて、和室へ。愛犬が床に就いたのを確認した彼は、パジャマに着替え、壁に掛けてある敬子の遺影に手を合わせたのち、ベッドに入った。
 だが、就寝して三十分も経たないうちに、彼の眠りは破られた。部屋の入口に設置された、インターホンが鳴ったのだ。
 誰だ? こんな時間に。
 寝ぼけた頭のままでいると、またしても鳴った。ようやくベッドから起き出そうとすると、さらに鳴ったので、腹立たしく思いながらも、入口まで歩いて行き、通話ボタンを押した。
「私だよ」
 邦春は耳を疑った。それは弓子の声だったからだ。
「寒いよ。早くなかへ入れて」
 急いで玄関へ行き、ドアを開けると、門灯の光のなかに、彼女の姿が浮かび上がった。雨が降っているのか、レインコートを羽織っている。素足にサンダル履き、という格好で。
 
 弓子を居間へ通し、ソファーに座らせると、邦春は暖房のスイッチを入れた。  
「なんか、お酒、ない?」
 彼女の言葉に
「ダメだよ、酒なんか飲んじゃ。病人なんだから」
 邦春はそう応じたが、
「お酒でも飲んで温まらないと、風邪引いちゃう。お願い、ちょうだい」
 と、弓子はねだる。
 そこで、ウイスキーをグラスに少しだけ注いで、テーブルの上に置いてやった。それを手に取り、呷ると、えほっえほっと彼女はむせ返った。
「四十三度だ、グレンファークラス二十五年は。チェイサーがご入用のようだね」
 そう言うと、邦春は冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を別のグラスに注いで弓子に手渡した。彼女はそれを一気に飲みほした。
 最後に会ったのが、五月の三日だ。あれから一か月以上も経った今、久しぶりに見る弓子の顔に、邦春は懐かしさを覚えた。
 ところが、部屋が暖まり、彼女がレインコートを脱ぐと、懐かしさは驚きに変わった。そこに現れたのは、真っ赤なミニスカートに白いTシャツという姿。下着を付けていないらしく、乳首が透けて見える。
 スカートからすらりと伸びた脚を組んで、弓子は言った。
「回文が上手く書けなくてさ」
 そして、こう言い足した。
「自殺しちゃおかな」
 その言葉に邦春はさらに驚かされたが、しばらく考えたのち、ソファーに並んで腰を下ろすと、教え諭すように応じた。
「馬鹿なことを言うもんじゃない。死んだら、回文を書くどころかペンを持つことさえできなくなってしまうんだよ。訊かなくても分かるけど、あなたの体調は今、Cなんだろ。それも、Cのど真ん中だ。双極性障害の本に書いてあったが、躁状態になると、自殺願望が強くなるそうだね。希死念慮というやつが。あなたがそれを口にするのは、今は体調が悪い、ただそれだけのせいなんだよ。容態が落ち着いてきたら、そんな気持ちも消え失せるさ」
 すると弓子は、
「よーく、ご存じで」
 そう言うと、両手を差し出した。
「見てよ。きれいなもんでしょ。リストカットもできないほど、私は臆病で意気地なしなんだから」
 邦春は黙って聞いていたが、壁時計の針が午前一時を回っているのを見て、口を開いた。
「もう帰ったほうがいい。ご主人が心配しているかもしれないよ」
「ダンナは出張中」
 弓子はそう答え、
「出かける前に、私を求めてきた。あんまり回文が書けないから、気分転換に応じてやったよ。一発やらせたら、かえって疲れちゃったけどさ。あっはっはー」
 と、笑いながら言った。
 それを聞いた瞬間、激しい怒りが邦春を貫いた。
 それは、夜遅くに叩き起こされたあげく夫婦の痴話を聞かされた馬鹿馬鹿しさへの怒りではなく、他人に伝えるべきではない秘事をあけすけに話してみせる不道徳と無神経への怒りでもなかった。
 それは、弓子の体を自由に我物にできる、彼女の夫に向けられた純粋な嫉妬に他ならなかった。心の底からこみ上げてくる、激しい感情が、年齢や立場をわきまえない自分のエゴから生じたものであることを認めたとき、邦春は自分が弓子に恋をしていることを思い知った。
 以前は、子供のような無邪気に溢れていた彼女の笑みが、今では魔性を隠さない挑発の嘲笑になって、自分に向かってくる。一か月前までは、あんなに明るくて優しい女性だったのに。こんなにも、人間を変えてしまうのか、病気というものは。
 そのとき弓子の両腕が、しなやかに邦春の首にからみつき、体を預けてきた。病に冒された悪女の唇が、彼の耳元に甘く囁きかけてきた。
「やらせて、あげよか」
 この事態から逃れようという意志を、もはや自分の心が放棄していることを悟り、八十四歳は発情した。

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