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小説「サムエルソンと居酒屋で」第16話

 夏休みが残り一週間余りで終わろうというころ、二人は東京に戻ってきた。英也は大分から直接、実花子はそれからさらに秋田を経由して。一か月以上の長期の帰省となったのは、亡くなった父母の法定相続人である良之と英也が両親の遺産や負債についてどうするかを話し合い、その具体的な手続きを完了するのに日時を要したからだった。
 まず、家の件。築七年とまだ新しく、良之が就職後も引き続き住むことを望んだので、住宅ローンの残債約二千万円を、父の生命保険の死亡保険金と、勤務していた会社の死亡退職金で賄うことにした。
 次に、預貯金の件。両親が残したのは合計約六百万円。そこから約二百万円を墓の建立に、百万円を伯父から借りていた葬儀費用の返済に充てることにした。残りの三百万円が英也の相続分だ。
 良之が相続した家の価値にくらべると格段に少ないが、英也に不満はなかった。なぜならば、兄が通っている国立大学の学費が四年間でわずか十万円くらいなのに、私立大学に行かせてもらった自分は学費のほか月々の仕送りも含め、これまですでに百六十万円以上もの恩恵を受けているからだ。
 両親が残してくれた、最後の愛情とも言うべき、三百万円。授業料や生活費に、大事に使っていかなければと、下宿に戻ってきた英也はしみじみ感謝するのだった。
 帰省から解放された英也がうれしく思うのは、プロ野球を以前の通り身近に楽しめるようになったことだ。ひいきのヤクルトスワローズが悲願の初優勝に向けて巨人と首位争いを繰り広げているのは、大分の地方紙のスポーツ欄で翌朝に結果を知るという方法で把握できていたが、これからは試合中継をテレビやラジオで満喫できるし、中継のない日でも午後十一時からの「スポーツワイドショー プロ野球ニュース」で毎日臨場感たっぷりに試合内容を観ることができる。このプロ野球ニュースが、民放二局しかない大分ではまったく放送されなかった。ところがこちらでは、いざとなったら神宮球場まで四十分くらいで観戦に出かけることだってできる。
 昨日九月十日の時点で巨人に〇・五ゲーム差をつけて首位を行くヤクルトにはマジックナンバー十六が点灯している。とりあえず近所の喫茶店に行ってスポーツ新聞全紙に目を通してこようかと思ったら
「瀬川さーん、瀬川さーん、電話だよーっ!」
との声。
「はあい! いま行きまあす!」
 返事をしながら階段を駆け上がり
「はい、瀬川です」
 と電話に出ると
「私です。きょう会えるかしら?」
 と、実花子。彼女の声を聞くのは、秋田から阿佐ヶ谷の寮に戻ってきた三日前以来だ。
「うん、いいけど。なにか急用でも?」
「とても大事な用件なの。電話では伝えにくいから、直接会って話したいの。いま十一時過ぎだから、一時に阿佐ヶ谷駅の南口でどう? ランチでもしながら」
「オーケー。じゃあ、のちほど」
「じゃあね」

 駅の近くのカレー専門店で、英也はカツカレーとアイスコーヒー、実花子は野菜カレーとアイスミルクティーのセットを注文した。大分では一か月以上もの間ずっといっしょに暮らしていたのに、それから別々になったのち、ほぼ一週間ぶりにこうして再会し、テーブル越しに見つめ合う婚約者の顔が実に美しく新鮮な魅力にあふれていることに、英也は大きな喜びを感じていた。
 カレーを食べ終え、ストローでミルクティーをひと啜りしてから実花子が話し始めた。
「あのね、お父さんに言われたの。どこかにアパートを借りて二人でいっしょに住んだらどうだって」
「え……」
「婚約者どうしなんだし、もう私が寮に住む意味もないし、二人で暮らしたほうが食費なんかも安上がりだろうって。キッチンに部屋が二つ、それにお風呂が付いたような物件を探してみなさいって言われたわ」
「で、でも、そんなお金……敷金だって礼金だって家賃だって……」
「だいじょうぶ。ぜんぶ父が出してくれるから。英也さんが相続した遺産が三百万円であること、そこから卒業までの授業料や生活費をやりくりしていかなくちゃならないことも父に話しました。そしたら父はこう答えたわ。二人分の生活費として毎月十五万円の仕送りをしてあげるって」
「じゅ、じゅうごまんえん……? そ、そんな夢のような話が……?」
「もちろん夢じゃなくて現実よ。ただし、この話には条件があるの」
「条件……って?」
 英也の問いに、アイスミルクティーをグラスの半分くらいまで啜ってから、おもむろに実花子は答えた。
「婿養子になること」
「ぶっ。げほっ、げほっ」
 いつか言われるだろうと覚悟のようなものはあったが、いざ現実の言葉として耳にすると、かなりの衝撃に英也の喉を通過しようとしていたアイスコーヒーが逆流し口からふきだした。
「きったなーい」
 シャツにかかったコーヒーをハンカチで拭う実花子に
「ご、ごめん。重要なことをいきなり聞いたもので……」
 と英也は詫びた。すると実花子は
「もういちど言うから、ちゃんと聞いてね」
 と前置きをし
「婿養子になること。そのために婚姻届と養子縁組届を提出すること。つまりもう夫婦になっちゃうわけ。挙式は卒業後で構わないけど」
 言い聞かせるようにそう述べた。
「つまり、僕は山内英也という人間になるわけだ」
 と英也が言うと
「そう。すてきな名前だわ。私の愛しい旦那様」
 と、夢見るような目つきで実花子。
「僕は瀬川英也のほうが好きだな。生まれてもう二十年も名乗ってるから」
「そのうち、山内姓への愛着が深まっていくわよ。それとね、もうひとつ伝えたいことがあります。今週の土曜日に、父が仕事で上京することになっているの。江東区木場の材木問屋さんとの商談に、一泊二日のスケジュールで。それで、せっかくの機会だから食事でもしないかって。どう、だいじょうぶ? 九月十六日だけど」
「了解しました。瀬川英也としてお父さんに会うのは、これが最後かもしれないね」
「そうね。もうすぐ山内英也になるんですものね。ああ、私のすてきな旦那様!」


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