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将棋小説「三と三」・第1話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 未明の山道を、一人の少年が歩いていた。
 昭和七年の二月のことである。
 黙々と、そして時おり、一昔前の流行歌を口ずさみながら。
「カチューシャかわいーや別れのつらさーせめて淡雪とけぬ間とー神に願いをララかけましょーかー」
 別れ。親兄弟との別れ。
 そう、彼は家出をして歩いているのだ。
 十三歳の小さな身体に、粗末な綿入れを貫いて寒風が刺しこんでくる。風呂敷包みの中に用意してきた握り飯は、とうに食べつくしてしまった。歩きながら歌うのは、家族との別れを惜しむだけでなく、寒さと空腹の辛さに負けまいと気力を奮い起こすためだった。
 だが、背丈はまだ小さくても、心のうちは大きいのだ。
「この幸三、日本一の将棋指しになってみせる」と書き置きをして家を出てきたのだから。
 その文言は、母親がいつも縫い物に使っている三尺の竹の物差しの裏側に墨書してきた。夜が明けて自分の出奔に気づいたら、母はさぞかし悲しむことだろう。だからこそ、訴えたかったのだ。自分が生半可な気持ちではなく、不抜の決意で棋道へ歩み出すことを。日本で一番の棋士になるのを真の約束として、必ず果たしてみせるという強い思いを抱いていることを。
 幸三の生まれ育った家は、広島県双三郡の貧しい農家だ。一家の柱たるべき父親は、あるとき米の仲買いに手を出し、ひと儲けしたのをきっかけにバクチの味を覚え、たちまち花札やサイコロ賭博にのめりこんでしまった。ところが負けてばかりだ。野良仕事をいっさいほったらかして負け続け、借金のカタに家の屋根の瓦をはがして持っていったりもした。雨漏りの家に女房や子供たちを置き去りにする、とんでもない男だった。
 そんな行状はいっこうに治まらず、夫のことはもはや観念をした母親は、持ち前の気丈さを発揮して女手ひとつで働きながら子供たちを育てていた。賭け事とは無縁の、まっとうな人間になってほしいと願いながら。
 そういう日々の中で、花札やサイコロではなかったが、将棋という遊戯を覚え、村のあちこちで腕を磨き、郡内でも敵無しの棋力を身につけたのが長兄だった。幸三も十歳の頃になると兄に教わり、実戦を重ね、棋書を読んだりするうちに、たちまち没頭し、上達していった。そして、素人将棋とは別格の存在である専門棋士に憧れを抱くようになった。棋界の第一線で活躍している著名な棋士たちのように、自分も将棋で身を立てたいと思うようになった。
 ところが、母は猛反対だ。将棋指しもバクチ打ちと同じヤクザな稼業だと。お前の父親のような人間には決してなってくれるなと。とにかく勝負事が大嫌いだから、兄と幸三が将棋を指しているのを見かけると怒ったし、いくら注意をしてもやめないとナタを持ち出して将棋盤を叩き割ったりもした。
 それでも幸三は、あきらめずに母を説得しようとした。
「東京にのう、関根金次郎ちゅう将棋の名人がおるんじゃ。偉い人なんじゃで。ワシも皆から尊敬されるような棋士になるけえ、ええじゃろ」
「いけん。しょせんはバクチ打ちじゃ」
「大阪にはのう、阪田三吉ちゅう名人がおる。この人は関根名人より、もっと強いっちゅう評判じゃ。ワシも阪田名人みたいな立派な棋士に出世してみせるけえ、ええじゃろ。のう、ええじゃろ」
「いけん。もっと強いだけのバクチ打ちじゃ。絶対に、いけん!」
 なんども口説いては、なんども反対され、それでは実力行使あるのみと家を後にし、ワラジならぬゴム靴をはいて将棋指しへの道を歩き始めるという暴挙に出てしまったのだ。
 二月の寒風は容赦なく吹きつける。握り飯を一つくらいは残しておけば良かったなあと、今さら後悔をしながら空きっ腹を抱えて、 
「おにーぎりおいしーや別れーのーつらさー今宵一夜に減る腹のーあすはおにぎーりララ会いましょーかー」などと替え歌を口ずさみながら幸三が向かっている先は、広島だった。
 風呂敷包みの中に残っているのは、着替えの下着が数枚だけ。金は一銭もない。とりあえず広島へ行けば、都会だから何か仕事の口があるだろう。そこで旅費を稼ぎ、次なる行先は大阪か、東京か。弟子入りするのは阪田三吉か、関根金次郎か。それが幸三の、おおよその計画だった。
 それにしても、どれだけの距離を歩いてきたのだろう。家から広島までは十三里。芸備鉄道を目印に沿って進んでいけば辿り着けることは、調べてきた。もう半分くらいは過ぎただろうか。
 いつの間にか、夜も白々と明けてきた。山道から街道筋へ出るにつれ、鉄道のレールもはっきりと見えるようになった。いいぞ、この調子で進め。幸三はだんだん元気になってきた。
 しかし、ここへきて三つ目の危機に幸三は見舞われた。寒さ、ひもじさに次いで、かかとが痛くなってきたのだ。どうやら靴ズレができてしまったようだ。道端へ腰を下ろし、ゴム靴を脱いでみると両方のかかとがむけて赤く腫れていた。
 だが、休むわけにはいかないのだ。靴ズレごときに音を上げているようでは、日本一の将棋指しには到底なれないではないか。靴をはき直すと、幸三は腰を上げ、再び歩き始めた。両足を引きずるようにして。
 一里くらいを進んだろうか。だんだんと日が昇り、やがて辺りがすっかり明るくなった。街道には荷車を引く人や籠を担ぐ人たちの往来も見える。広島方面へ向かう始発列車が線路の脇を行く幸三に近づき、並び、追い越していく。蒸気機関車のボォーッという汽笛が遠ざかっていくのを聞きながら、足を引きずり進む幸三の視線の先に、一軒の店が開いていた。
 近づいて、見ると、雑貨屋だ。店先にいろいろ並んだ商品の中に下駄がある。しめた! と幸三は思った。下駄をはいて歩けば、かかとは痛くない。
店の表座敷には男が一人、火鉢にあたりキセルを吹かしている。見たところ五十の半ばくらいか、丹前姿の店主らしきその親父に、幸三は声をかけた。
「ごめんください」
「へい。何かご入り用で?」
 親父は、早朝からの子供の来店に、訝しげな表情と声で答えた。
「すみませんがのう。下駄をもらえんじゃろうか。代わりにワシの靴を置いていくけえ」
「へ……?」
「あいにく下駄を買う金がないんじゃ」
「…………」
「広島へ行く途中なんじゃけど、山道を長いこと歩きよったら靴ズレができてのう。じゃあけえ、下駄にはきかえたいんじゃ」
「…………」
「広島に着いたら仕事を探して、旅費を稼いで大阪か東京に行くんじゃ。阪田三吉か関根金次郎の門下にしてもろうて、専門の将棋指しになるんじゃ。日本一の将棋指しになるんじゃ」
 キセルをくわえ、だんまりを決めこんでいた親父は、その言葉を聞いたとたん座敷から立ち上がり、店の奥へ行くと、何かを抱えて戻ってきた。それは将棋の盤と駒だった。
「広島に行きたかったら、このワシに勝ってから行きんさい」
 そう言いながら親父は、座敷に分厚い盤を置くと駒を並べ始め、
「ワシはこう見えても、けっこう指すんよ。中飛車の英一郎っちゃあ、この辺じゃ知られた名での。強いでえ。さあ、勝負、勝負!」
 三度の飯より将棋の好きなことが窺える嬉しそうな声で促した。そして幸三が座敷に上がって盤の前に座り、駒を並べ終えると、
「万が一でもワシに勝ったら、褒美として下駄をタダでくれてやるけえ。その代わり、負けたら靴を置いていきんさいよ」
 と言葉を継いだ。
 思いがけない事態を前に、幸三の両の眼に力が宿り、爛々と瞳が輝いてきた。
「本当じゃの?」
幸三が念を押すと、
「本当じゃ。裸足で歩かせるのはちょいと酷じゃけど、世間知らずの小僧には、いい人生勉強になるじゃろう。さあっ、先手で指しんさい! 中飛車の英一郎が、勝負の厳しさを教えちゃろう!」
 威勢よく親父が応じ、勝負が始まった。
 ああ、これが武者修行というものなのかと、足の疲れや痛みも忘れ、幸三は駒を動かした。日本一の棋士になるための第一関門、ここで敗れてなるものか! と気合をこめて指し進めていたのだが、案に相違して勝負はあっけなく終わった。中飛車の英一郎は、ちっとも強くなんかなかったのだ。
「むむ、子供が相手じゃちゅうて油断した。こんどは本気を出すけえ、もう一番!」
 悔しそうな親父の言葉に、
「下駄の次は何をくれるんかのう?」
 幸三が訊くと、
「なにい、本気のワシに勝てるはずがなかろう。万が一ワシが負けたら、好きなものを何でもくれてやる」
 駒を並べ直しながら親父が答えるので、
「じゃったら、饅頭をもらおうかのう。腹が減りっぱなしなんじゃけえ」
 幸三はそう言い、二局目を指し始めたのだが、親父の玉を詰めるまでさして時間はかからなかった。中飛車の英一郎は、強いどころか弱すぎた。
「おかしいのう。まだ朝が早いけえ頭が回っちょらんのかのう。よし、こんどこそ本気を出すけえ、もう一番じゃ!」
 悔しさに輪をかけた口調の催促に、
「饅頭の次は何をくれるんかのう? 饅頭をもう一個くれんかのう?」
 幸三が言葉を返すと、
「なんじゃとお。こんどこそ本気のワシに勝てるはずなかろうが! 万の万の万が一、ワシが負けたらくれてやるわい!」
 その返事とともに三局目が開始され、ほどなく終了した。
 負けた親父は怖い顔をして幸三の顔を睨みつけ、キセルを吹かしていたが、やがて表情を和ませていき、
「参った、参った。強い子供もいたもんじゃ……」
 そう言いながら座敷から立ち上がると、店の奥へ歩いていった。そうして大ぶりの焼饅頭を二つ、皿に乗せて戻ってきた。それらを続けざまに幸三が手に取り、頬張り、平らげると、こんどは下駄を一足差し出し、
「広島まで、あと五里ほどじゃ。気張りんさい」
 と、親父は励ました。
 幸三は、さっそく下駄をはいた。鼻緒で親指の付け根をグッと締めると、腹に頼もしい力がこもるような感じがした。餡子のたっぷり詰まった饅頭二個もまた、空腹を満たし、幸三に新たなる力をくれた。
「靴はもういらんけえ、置いていくわ。ワシが日本一の将棋指しになったあかつきには、伝説の靴になるじゃろうけえ、家宝にしときんさい」
 そう言い残すと、手を振って見送る親父を後にして、下駄の歯のぶんだけ背の高くなった升田幸三は元気よく歩いていった。
 




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