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小説「サムエルソンと居酒屋で」第18話

 ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。トイレに行こうと布団から起きだすと、着替えもしていないことに英也は気づいた。昨夜、多木男に脱がされたズボンとパンツ、外されたベルト、のしかかられたシャツ。トイレから戻ってくると、それらをすべて新しいものに着替えたのち、押し入れを開けて布団をしまいこんだ。
 時計を見ると、八時過ぎだ。カーテンを開けようとしたとき、もしも多木男がやってきたらどうしようという不安に襲われた。しかし暴行を受けたのは自分なのだから、そのときは大家の部屋に逃げこんで警察を呼べばいいだろうと思った。
 しかし、やってくるのが実花子だったらどうする? 今となっては婚約者どころか、多木男の共犯者としか思えない、恐怖の女だ。しかもあの女は、以前この下宿に来たことがある……。そのとき、あることを思いだして、英也は安堵した。昨夜、寿司屋から寮に向かったはずの実花子は、ホテルにやってきた。つまり九時までに帰れていないはずだから寮の門限破りをしたことになる。一週間の外出禁止という罰則で、ここに来ることはできない。ようやく不安を払拭した英也は、カーテンを左右に開いた。そして
「うわわわわーっ!」
 と叫び声を上げた。
 なぜならば、窓のすぐ向こうに、藤吉が立っていたからである。
「うぬぬぬぬーっ!」
 恐怖を通り越して怒りの激情に駆られた英也は、玄関へ行くと、大家の孫が使っている金属バットを手にしてドアを開け、外へ出るなりバットを振り上げ藤吉に襲いかかった。
「ま、待ってください、瀬川さん!」
「うぬぬぬぬーっ!」
「昨夜の件については社長に代わってこの私がお詫び申し上げます!」
「うぬぬぬぬーっ!」
「しかし、お嬢様は無関係です! お嬢様はあなたのことをとても心配されています!」
「うぬぬぬぬーっ!」
「お嬢様は心からあなたのことを愛していらっしゃるのです! ほんとうです!」
「うぬぬぬぬーっ! うぬぬぬぬーっ! うぬぬぬぬーっ!」
 バットを振ると藤吉は逃げ、さらにバットを振り回しながら追いかけると藤吉はさらに逃げ続けた。そうして坂道に出ると一気に駆け下り、やがて英也の視界から消え去った。
 下宿に戻り、バットを玄関に置いて部屋に入った英也は、自分の怒りの矛先が藤吉ではなく実花子に向けられているのを覚えた。藤吉はただの使いであり、差し向けたのはあの女だ。畜生め、秘書を寄こして様子を見にきやがった。怒りが増大してきたそのとき
「瀬川さーん、瀬川さーん、電話だよーっ!」
 という声が響いた。返事をしないでいると
「今いません!」
 と大家が言ってガシャンと電話を切った。
 英也は思った。かけてきたのは実花子だろう、寮の電話を使って。だが、いくらかけても、この自分が反応を示さない限り大家は電話を切り続ける。ざまあみやがれ。
 しかし、と英也は思い直した。それは大家に迷惑をかけることにもなる。秋田旅行の際に、両親の死を知らせる兄からの電話を何度も受けては切り、切っては受けを続けさせてしまった。こんどはあの女だ。きっと繰り返しかけてくるだろう。そして外出禁止が解禁になったら、さっきの藤吉のように朝からやってくるに違いない。それも、毎日。
 熟慮したのち、ある考えが浮かんだ。引っ越そう。ここを出て、別の下宿屋へ移ろう。それはあの女の魔手から逃れるためだけでなく、生活費の節約のためでもある。
 自分の全財産は、三百万円。卒業までにかかる学費は、明日から始まる二年生の後期と三年生の前期後期、四年生の前期後期を合わせた授業料の総額が五十万円。施設費などの諸費用が十五万円。これらを三百万円から差し引くと、残りは二百三十五万円。
 次に、就職するまでの生活費。これまでは実家からの仕送りが毎月五万円あり、それに家庭教師のバイトで得た二万円を加えた月々七万円で暮らしてきたが、もしもバイトをやめて卒業まで同じ生活水準を保っていくとすると、二百十万円。先ほどの二百三十五万円から差し引くと、残りはたったの二十五万円。これではあまりにも心細い。いつなんどき病気やケガで入院するかもしれないし、四年生の会社訪問の時期にはスーツやシャツやネクタイや靴や鞄を買ったりしないといけないし。
 それを解決するのが、縮小転居、すなわち四畳半から三畳の部屋への引っ越しだ。四畳半の今の家賃が一万五千円、これが三畳だと九千円で済むから、毎月の差額は六千円。これが卒業するまで続くと、十八万円の節約になる。つまり、これを二十五万円に足し合わせた四十三万円が、いざというときのための蓄えだ。引っ越し代や敷金礼金はかかるが、全体から見れば微々たるもの。それに、バイトは今のところやめるつもりはない。
思えば、あの山内親娘に木材会社を継がせるなどとたぶらかされ、この自分はまったく自立心というものを失っていた。邪悪な者どもから解放された今、新しく生まれ変わった瀬川英也が動きだすのだ。
 さっそく下宿を出た英也は、大学のほうへ歩いていき、学生街の入口の近くにある下宿紹介所の前に至った。今日は日曜日だが、明日から新学期ということもあって、紹介所は開いていた。中へ入り、希望の条件を告げると、担当者がファイルから物件情報を記した数枚の紙を取りだして英也の前のカウンターの上に並べた。それらの中に、英也の気を引いた一枚があった。
「文京区目白台 金子様方 三畳 トイレ・流し共同 家賃九千円 敷金一・礼金一」
 地図を見ると、物件は目白通りからやや奥まった所にあり、近くには椿山荘や東京カテドラル聖マリア大聖堂などの名所旧跡もある。大学へ通うには坂を下り、神田川を渡ってというコースになるが、好ましく思ったのは北門からキャンパスに入れることだ。
 初めて会ったその翌日に、あの女は三号館の前のベンチにいた。きっと正門か南門から入ってきたのに違いない。いや、西門からということも考えられる。だが、北門はありえない。地下鉄の出口から最も遠いところにあるからだ。電話も通じず、下宿へ来ても姿がないとなると、自分を探す最後の手段は大隈大学に来ることだ。そして見つけて腕をつかむまで、あの女は諦めずに通い続けるだろう。北門から出入りし、四万人の学生たちの中に紛れて、卒業するまで潜伏する。それには、この下宿に住むしかない。
 担当者に紹介状を書いてもらい、さっそく面接に行くと、大家の金子さんは優しそうなお婆さんだった。部屋を見せてもらったが、そこには畳が三枚あるだけ。四畳半に一年半住んでいた自分の目には、とても狭く見える。だが、ほかに選択肢はないのだ。
 翌日、新学期の一日目。新しい大家と正式な契約を交わし、敷金と礼金を払った英也は大学へ行くと、学生ラウンジに毛利と石原を連れていき、引っ越しの手伝いを頼んだ。両親を亡くしたこと、経済的に逼迫したうえでの転居であることを告げると、二人は驚き、同情し、手伝うことを約束した。
「土曜日か日曜日でええのんか?」
「いや、それでは遅い。大家から立ち退きを迫られてるんだ。木曜日までにやりたい」
「分かった。じゃあ、そうしよう」
 かくて九月二十一日木曜日。レンタカーの軽トラックに必要最小限の荷物を積み、引っ越しは完了。英也は、新宿区から文京区の住人になった。


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