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みかんの色の野球チーム・連載第5回

第1部 「青空の夏」 その4

 
 
 ブッチン、私、ペッタン、カネゴン、ヨッちゃんの順に、5人は山頂へと続く登り道を歩いていった。
 私は、ブッチンの指示を受けて、ベルの壊れた目覚まし時計を持たされていた。これから始まるテストでは、まず正確な時刻を把握することが要求されるからだ。
 東西に細長い、宮山の頂上スペースに立つと、いちばん西側にサイレン塔が立っており、反対の東側には、古い木製のベンチが海の方角を向いて据えつけられている。
 やがてここにやって来て、仲睦まじく逢瀬のときを過ごす1組の男女のラブラブムードを、みごとぶち壊すことができるかどうか。それが、この私に与えられた課題なのだ。
「いま、何時じゃ?」
 ブッチンの問いかけに、手にした目覚まし時計を見ると、2本の針は午後3時半を指しており、私はそれを彼に伝えた。
「あと2時間じゃのう、テストの開始まで」
 ブッチンが言った。
「いつも5時半頃に、アベックがそこに座って、いちゃいちゃを始めるんじゃ。5時に仕事が終わって、着替えやら化粧をして、5時半までにここに来れるっちゅうことは、近くの会社に勤めちょるんじゃろう。市役所の人間かもしれんのう」
 たしかに津久見市役所は、宮山から遠くない。市民グラウンドの脇を通って、八幡様の神社の裏を進めば、もうそこは登山口だ。大人の足なら、20分もあればここまでたどり着けるだろう。
「いずれにしてものう、おまえに残された時間は2時間じゃ。どうやって、いちゃいちゃをぶち壊すか、その方法は任せるけえ。よう考えて、知恵を絞ってみいや。俺どー4人は、いったん基地に戻って、アベックが揃う頃にまたここに上がってきて、おまえのすることを隠れて監視しよるけんの。しっかりやれやあ。仲間のタイ坊として、これまで通りいっしょに遊ぶか。ただの石村太次郎に落ちぶれてしもうて、誰からも相手にされんようになるか。あと2時間が、運命を分けるんじゃあけんのう」
 最後にそう言うと、ブッチンはペッタン、カネゴン、ヨッちゃんを引き連れ、山頂を後にした。
 残された私は、ひとまずベンチに腰を下ろした。
青い海を眺めながら、今朝学校で起こったことを思い返していると、後悔の念が湧いてくる。どうしてあのとき、ブッチンの加勢をして、ユカリをからかわなかったのだろう。もちろん、それは私の本意ではないが、自分がいま置かれている苦境にくらべれば、たいしたことではなかったのに。
それに、どうしてあのとき、口から出まかせを言ってしまったのだろう。アベックの逢瀬をぶち壊すなんて、この自分にできっこないのはちゃんと分かっているのに。あのとき、すんなりブッチンに謝っていれば、仲間外れにするのを許してくれたかもしれないのに。
 これからいったい、どうすればいいのだろう。私は誰かにすがり付きたい思いでいっぱいだった。ふと、家族の顔が、頭に浮かんだ。父、母、2人の妹、それに飼い犬。
 父は、洋服の仕立てや直しを仕事にしている。若い頃、東京へ行って修業をし、津久見に帰ってからは「テーラー石村」の経営者として、松下さんという従業員といっしょに、毎日忙しく働いている。趣味は、将棋と歌。将棋は初段の免状を持っていて、近所では敵無しだ。でも歌のほうは、お風呂に入っているときに流行歌を大声でがなるだけ。とても音痴なので、近所に聞こえるのが恥ずかしいと、母はいつもこぼしている。
 母は、専業主婦。趣味は、津久見の伝統芸能である「扇子踊り」を舞うこと、それとテレビを観ること。この4月から放送が始まった、NHKの連続テレビ小説「おはなはん」の大ファンだ。(※注1)
 2人の妹は、4年生と1年生。上の子は、将来スチュワーデスになるのが夢。こないだ生理が始まったとかで、母に赤飯を炊いてもらっていた。下の子は、まだ青洟を垂らして、いつもビービー泣いてばかり。オカッパ頭は、月に一度、母が刈ってやっている。
 飼い犬のジョンは、一昨年、道端のダンボール箱の中で鳴いているのを、私が家に抱いて帰った。父と母は、飼って良いとも悪いとも言わなかったので、そのまま家族の一員として現在に至っている。もちろん雑種だが、何か大型犬の血がまじっているらしく、いまでは私と同じくらいの体重になっている。
 父、母、妹、犬。
 母、妹、犬、父。
 妹、犬、父、母。
 犬、父、母、妹。
 頭の中で家族の並び順をずらしていくと、最後は「犬」が「父」の上に来て、それがなんとなく可笑しかった。
 犬、父。
 犬は散歩、父は仕事。
 犬の好物、父の趣味。
 骨をかじるのが好き、流行歌をがなるのが好き。
「あっ」
 思わず、私は声を出した。
 頭の中でとりとめもない連想をしていたら、突然閃いたことがあったからだ。
「骨をかじるのが好き、流行歌をがなるのが好き」
 閃いたことを、声にして言うと、それは瞬く間に現実のアイデアの形を獲得した。
「これだ! これなら使える!」
 予期せぬ天啓の訪れに、私はドキドキ興奮しながらベンチから立ち上がり、宮山の頂上から一気に地上へ駆け下りていった。
 
 数時間前、みんなでパンやジュースを買った生協のドアを開けると、私は精肉売場の前まで走った。白い頭巾をかぶった年配の女店員の姿を見つけると、
「おばちゃん、牛の骨、あるん?」
 私は訊いた。
「牛の骨? そげなもの、どげえするん?」
 ちょっと驚いたような彼女の問いに、
「あんな、うち、犬を飼うちょってな、おっきい犬でな、柱やら柵やらなんでんかんでん、かじってな、困っちょるんじゃわあ。そしたらな、母ちゃんがな、肉屋に行って、牛の骨をもろうてきて、それを鍋に入れて、ぐつぐつ煮て、柔らこうして、そいつを犬にやったらな、がりがり喜んでかじって、歯の掃除にもなって、もう柱やら柵やらかじらんようになって、大助かりじゃあち、言うんじゃわあ。じゃあけんな、牛の骨、余っちょったら、くれんかなあ?」
 私は一所懸命、説明をした。その熱っぽさにほだされたのか、彼女は真ん丸い顔に笑みを浮かべ、
「いいで。持って行かんせ」
 そう言いながら、傍らのポリバケツの中から、大きな牛骨を1本取り出し、ビニール袋に入れて手渡してくれた。
 その骨は、長さが60センチくらい、太さも直径10センチ近くある。脚の骨だろうか、ずっしりと重く、あちこちに肉片や膜や腱のようなものがこびり付いていて、グロテスクな迫力が充分だった。
「おばちゃん、ありがとっ!」
 気のいい店員に礼を言うと、私は生協を飛び出し、再び宮山の頂上へ走っていった。
 
 時計の針は、5時25分。ベンチの左後方の茂みの中にブッチンら4人が隠れ、私が右後方の窪地に身を潜めていると、まず、男のほうがやってきた。
 年齢は25歳くらいだろうか。白いワイシャツに、グレーのズボン。ネクタイは紺色で、グレーの上着を脱いで右肩ごしにぶら下げている。やや細身で背は高く、髪を短く切り揃えたその顔は、なかなかの男前だ。ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、男はベンチの中央部分と背もたれを2人分のスペースにわたって丁寧に拭き、それから腰を下ろして、脚を組んだ。
 続いて、5時30分ジャスト、女が現れた。年齢は20歳くらい。黄色い半袖シャツに、白いミニスカート。こちらは背格好は普通だが、髪はパーマをかけた流行のカーリーヘア。眉と目元にやや濃い目の化粧をしている。まあ、美人の部類に入るだろうか。
 男が手招きすると、女はいそいそと近寄り、彼の左側に体を密着させるように座った。
 さあて、舞台は整った。あとは実行あるのみだ。
 頭の中で何度もリハーサルした手順を、もう一度私が繰り返していると、ベンチの男が女の顔を素早く引き寄せ、いきなり唇を重ねた。
 うわー、接吻しよる……。テレビや映画のキスシーンは見たことがあるが、本物は初めてだ。半ズボンのチャックの下が、固く盛り上がって、私はうろたえた。
 長い口づけが続き、それが終わると、女はうっとりとした表情のまま、男に言った。
「うちのこと、愛しちょん?」
「ああ。愛しちょるで」
 男が優しく答えた。
「ほんとうに、愛しちょん?」
「ああ。ほんとうに愛しちょるで」
「いっぱい、いっぱい、愛しちょん?」
「ああ。いっぱいいっぱい愛しちょるで」
「もっと、もっと、愛してくれる?」
「ああ。もっともっと愛しちゃるで」
「うちのこと、ぜーんぶ、ぜーんぶ、愛してな」
「ああ。ぜーんぶぜーんぶ愛しちゃるで」
 いまだ! 男が最後の返事を言い終えるのと同時に、私は窪地を飛び出し、牛骨の入ったビニール袋を両手で背中に隠し持ちながら、アベックの背後へ走っていった。
 私がすぐそばまで走り寄ると、2人は振り向き、男はきょとんとした顔で、女はすこし恥じらいを浮かべた表情で、丸刈り頭の小学生を見つめた。すでに招かれざる客となった私は、腹の底から、ありったけの大声を絞り出して歌った。
「骨までーっ! 骨までーっ! 骨まで愛してーっ! ほーしいいーのよおーっ!」
 突然の歌声に、呆気に取られた2人。その膝の上に、
「ほーらっ! 骨まで愛せーっ!」
 そう叫びながら私は、透明袋に入ったままのでっかい牛骨を投げ落とした。
「うわわわわわわわわーっ!」
「ひゃああああああああーっ!」
 2人の悲鳴を背後に聞きながら、私は山を駆け下りた。茂みの中からブッチンらも飛び出し、5人そろって山を駆け下りた。
「こーのクソガキーっ!」
 男の声が後ろから迫ってくる。振り向くと、追跡者との距離は30メートル。怒りを顔いっぱいに漲らせている。その向こうには、女が両手で顔を覆って泣いているのが見えた。
 5人は必死で走った。いちばん俊足のヨッちゃんが先頭を疾走し、いちばん鈍足のカネゴンも全速力を振り絞った。
「こら待てクソガキーっ!」
 追っ手の声はさらに接近してきた。
 そのとき、2番目を走るブッチンの声が響いた。
「基地じゃあーっ!」
 その合図とともに、5人は登山道から外れて茂みの中へ次々と飛びこみ、木々の小枝を掻き分けながら、段々畑を転がり落ちるように走り続けた。
 いつの間にか、背後の怒声は、もう聞こえなくなっていた。
 
「やったのう! タイ坊!」
 ブッチンが、とても嬉しそうに言った。
「みごとに、いちゃいちゃを、ぶち壊したのう!」
 ヨッちゃんが、褒め称えるように言った。
「まさか牛の骨を投げつけるとはのう!」
 カネゴンが、感心したように言った。
「骨まで愛してで、牛の骨か! よう考えたのう!」
 ペッタンが、賛嘆するように言った。
「とにかく、テストは合格じゃあ! トップの成績で合格じゃあ! タイ坊は、これまで通り、俺どーの仲間じゃあ! 俺どー5人は、固え絆で結ばれた同志じゃあ!」
 最後にブッチンが結果発表をすると、それを聞いた私の全身から、へなへなと力が抜け落ちていった。課題をやり遂げた達成感よりも、無事にそれを終えた安心感のほうが、ずっと大きかったのだ。秘密基地の壁にもたれながら、私は自分を窮地から救ってくれた、愛する家族に感謝の気持ちを捧げていた。
 いつもお風呂で、父が歌っている、城卓矢の大ヒット曲「骨まで愛して」。
 いつも犬小屋の中で、ジョンがかじって遊んでいる、牛の骨。(※注2)
 たまたまこの2つが私の頭の中で結びつき、先ほどの作戦が成功したのだ。
 でも、せっかくのデートを台無しにされたあの2人には、やっぱり悪いことをしたなあと思っていた。仲間外れにされずにすんだ、安堵感。見知らぬ大人たちに迷惑をかけた、罪悪感。この両者は、同じくらいの重みを、私の中で持っていたのだ。
 
「タイ坊、いま何時?」
 ブッチンの問いかけに目覚まし時計を見ると、時刻はすでに6時半を大きく回っていた。
「もうすぐ7時じゃ。家に帰ろうや。晩御飯の時間じゃし、腹へったし」
 私の言葉に、みんなは賛同し、立ち上がって基地を出た。
 上段の畑に群生している丈の長い葦の茎と葉を、みんなでたくさん折り曲げて、秘密の場所の入り口を塞ぐ。それは、5人がここで過ごした1日を締めくくる暗黙のルールであり、聖なる儀式のようなものでもあった。
真夏の太陽は、すでに没し、辺りは薄暮から宵闇に移り変わろうとしている。
登山道に出て、地上まで下り、八幡様の裏を通って、5人がそれぞれの家路に着こうとという、ちょうどそのときだった。奇妙な音が、前方から近づいてきたのは。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 それは、リヤカーを引く音だった。とても古びたリヤカーの牽引音だった。
 ただのリヤカーだったら、別段珍しくもなく、わが家へ急ぐ私たちを立ち止まらせることなどなかっただろう。
 だが、5人の顔は、すでに恐怖に凍りついていた。誰がそれを引いてくるのか、分かっていたからだ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 錆びついた車輪を無理矢理に軋ませる、地獄の折檻のようなその音は、しだいに大きくなり、道端に立った細い電柱の小さな灯は、ついにその持ち主の顔を照らし出した。
 漆黒の顔面。それは、宵闇が映りこんだのではなく、積年の汚穢が満遍なく付着したものだった。
 切り裂けた口。それは、単なる兎唇ではなく、歯茎を含む口蓋のすべてが左右に分断されているのだった。
 そして、時おり、彼が不明瞭な空気音を吐き出すときには、口中の真紅が鮮やかに覗き、それが顔や全身の闇色と、恐ろしいほどのコントラストを描き出すのだ。
「逃ぎーっ!」
 悲鳴にも似た叫びをブッチンが発すると、私たち5人は一斉に、歩いてきた道を逆方向へ駆け戻っていった。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 津久見じゅうの子供たちの心胆を寒からしめる、悪魔の人さらい。
4万の市民が、驚怖と侮蔑をこめて呼ぶその名は、「フォクヤン」。
 
 
(※注1)どんな困難にも挫けず、明治から昭和までの激動の時代を底抜けに明るく生き抜いた女性の一代記。平均視聴率45.8%を記録したその人気は、毎朝8時15分からの放送が始まると多くの主婦たちが家事の手を休めてテレビを観るため、水道の使用量が激減するという現象を引き起こしたほどだ。
(※注2)この年のレコード大賞受賞曲。「生きてるかぎりはどこまでも 探し続ける恋ねぐら 傷つき汚れた私でも 骨まで骨まで 骨まで愛してほしいのよ……」という衝撃的に濃い歌詞は、子供心にも強く刻まれたらしく、筆者はいまでも1番から3番までをすべて記憶している(カラオケで歌ったりはしないが)。


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