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小説「ノーベル賞を取りなさい」第8話

あの大隈大の留美総長が、無理難題を吹っかけた。




 新宿駅から京王線に乗り五分後、二人は笹塚駅で電車を降りた。そこから歩くこと、また五分。すると目の前に、タイル張りの外壁が美しい十二階建てのマンションが現れた。
「ここだよ」
 柏田が言うと
「とても築六十年には見えないわ。傾いてもいないし」
 と由香が応じたので
「あれはぜーんぶ嘘。今年の二月に完成したばかりの賃貸マンションだ。俺の部屋は十階。さ、行こうか」
 エントランスに入ると、メールボックスの中を柏田がチェックしたのち、二人はオートロックのドアを通ってエレベーターの前へ。ボタンを押して乗りこむと、ノンストップで十階に着いた。それから内廊下を歩いていくと
「そこの角部屋が俺んち」
 柏田がそう言い、鍵を取りだしてドアを開けた。来客用のスリッパを出してやると、由香はさっそくそれを履き、ずんずん中へ入っていった。
「わー、きれい。新築の匂いがする」
「晩飯はピザでも注文しようか。それでいい?」
「うん、いい。わー、ここ先生の書斎ね。本棚に、本がいっぱい。机も椅子もパソコンもプリンターも、みーんな新品なのね」
「なんのピザにする?」
「うん、なんでもいい。わー、ここ寝室ね。うふっ。でっかいベッド。こっちはウォークインクローゼットになってるのね。窓からの眺めが素晴らしいわ。十階ですものね」
「ミックスピザにするよ」
「うん、それでいい。わー、広々としたLDK。ピッカピカのカウンターキッチンに、おしゃれなダイニングテーブルセット。大きなテレビに向きあって置かれたカウチは、ラブラブカップルにぴったりね。うふっ」
「三十分以内に届くから」
「うん、分かった。わー、バスタブの大きいこと。二人でゆったり入浴できるわね。うふうふっ。トイレも広いし、二人でゆっくり用を足せるわね。あ、そんなことないか。わー、三面鏡の付いたパウダールーム。ここで私きれいにお化粧して、いつも先生に愛してもらえるのね」
 ようやく内覧を終えた由香は、柏田のもとへ戻ってくると、うっとりとした眼差しを向けて言った。
「先生って、すっごくお金持ちなのね」
 すると柏田は、首を横に振った。
「四か月前までは、とても貧乏でした。こんなところに住めるようになったのも、すべて上条総長のおかげです」
「総長の?」
 そのときチャイムが鳴り、ピザの配達員の姿が室内モニターに映しだされた。一階のドアを解錠すると、しばらくして玄関に到着の合図がした。
「ご苦労様」
 そう言って代金を渡し、受けとったピザの箱を柏田はダイニングテーブルの上に置いた。そして食器棚の中から大きめの皿を二枚とナイフとフォークを二セット、さらにグラスを二つ取りだし、それらもテーブルの上へ。最後に冷蔵庫の中から缶ビールの五〇〇ミリリットル入りを一本つかんで
「さ、食べながら話そう」
 と由香に着席を促した。
 ビールをグラスに注いで乾杯し、皿にとったピザを頬張りながら柏田が語りはじめた。
「高校を卒業した俺は、日本の大学ではなくスタンフォードに進学した。ヴェブレンゆかりの大学で、経済学者としてのキャリアをスタートさせたんだ。教授になって数年経った四十五歳のとき、招聘されたのがサウス・コーネル大学。無名だけど教育熱心なこの学校で、俺は充実した研究生活を送った。ところが男女関係も充実させちまった。学長の逆鱗に触れ、解雇されただけでなく他の大学への移籍も困難にした悪評の中、ついに帰国せざるを得なくなった」
 柏田の打明け話を、ピザをかじりながら由香は興味深そうに聞いている。ビールを一気に飲みほし、またグラスに注ぐと、彼は語りつづけた。
「千葉の実家へ二十年ぶりに戻ってみると、両親も兄夫婦も憔悴しきっていた。無理もない。県内で居酒屋チェーンを展開する会社がコロナのせいで倒産の危機に瀕していたんだから。いまはもう完全に終息したけど、あの頃は新型コロナウイルスが日本で猛威を振るいはじめたばかりで、国による支援制度も整っていなかった。お客さんたちがワクチンを接種し、アクリル板で仕切られたテーブルで飲食するようになったのは、もっと後になってから」
 ビールを一口飲み、柏田は話しつづける。二枚目のピザを食べながら、由香は聞きつづける。
「そこで俺は、アメリカで稼いで貯めた金のほとんどすべてを会社の立直しに使ってもらった。当然のことだと思ったよ。高い学費や生活費を、親が払ってくれたおかげでスタンフォードで学ぶことができたんだもの、こんどは恩返しをする番だ。ところがこの援助も焼け石に水で、やがて会社は破産手続きへ。俺は求人誌で見つけた茨城のマンションの清掃員になり、安アパートに住んで毎月二十万円の生活を始めた」
「先生、かわいそ……」
 由香が柏田の顔をじっと見つめてつぶやいたので、彼は冷蔵庫からもう一本缶ビールを取りだし、彼女のグラスに注いでやった。
「そこへ総長が現れたのね」
 ビールを一口飲んで由香が言うと、柏田が応じた。
「そうなんだ。去年の十二月の半ば、マンションの作業現場にリムジンでやってきて、サウス・コーネル大学の教授時代に俺が書いた論文をすべて読んだと総長は話してくれた。それから給料を二百万円以上出すから、特任教授として大隈大に来てほしいと誘ってくれたんだ。しかも支度金つきで。ノーベル経済学賞をとってくれとお願いされたときは、ぶったまげたけどね」
 三枚目のピザをかじりながら、由香が訊いた。
「じゃあ、このマンションの敷金、礼金、最初の家賃、それに家電や家具も、ぜんぶ支度金で?」
「イエース」
「場所も大学に近いし、言うことなしね」
「イエース。ところで由香ちゃんの家はどこにあるの?」
「世田谷の成城」
「へえー。お嬢さまなんだ、やっぱし」
「でも、これからはこのマンションに住もうかしら」
「またまた、そんなことを」
 ビールを飲みほし、柏田の顔をじっと見つめて、由香が訊いた。
「ねえ、先生」
「ん?」
「結婚したこと、ある?」
「ないよ」
「ねえ、先生」
「うん?」
「サウス・コーネル大学時代に、男女関係を充実させて学長さんの逆鱗に触れ解雇され、他の大学への移籍も困難にしてしまったって言ってたけど、どういうふうに関係を充実させたの?」
「教え子の女子学生、教授の奥さん、学部長の妹さん、学長のお嬢さんというふうに、発展的に関係をもった」
「ねえ、先生」
「なに?」
「ばーか」

              

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