見出し画像

小説「けむりの対局」・第5話

勝つのは、どっちだ? 升田幸三 vs 人工知能




 突然の出来事に、対局場の空気は一変した。重くるしい緊張は、とてつもない驚きに取って代わられた。
 腕を伸ばしたままの深川の背後に、いきなり閃光が走り、そこから男が出現したのだから。
 身の丈は、百八十センチを超えていよう。柿茶の長着に、桑茶の羽織、山鳩色の袴をまとった、大きな体躯。
 その風貌は、最後の名人戦で激闘を繰り広げてみせた、五十三歳のころのものであろうか。伸び放題の、蓬髪、口髭、顎鬚。頬骨が張り出した、いかつい顔。
 そこには、まなじりの深い鳳凰のような双眸が炯々と輝き、強靭な意志の光を絶え間なく発している。
 この男が誰であるのか、将棋に携わる人間のなかに、知らぬ者は一人もおるまい。
「あ、あ、あ、あなたは……」
 朝比奈が、あえぎながら言った。
「ま、ま、ま、升田……」
 磯野が、どもりながら言った。
「こ、こ、こ、幸三……」
 川崎が、むせびながら言った。
「せ、せ、せ、先生……」
 朝比奈が、再び、あえいだ。
 立会いの三人だけではない。テーブルに着いた菊地、松下の女流棋士の二人も、頭上を振りかえった深川も、奥のパソコンから顔を上げた早見も。対局場のすべての視線が、光のなかから現れた男の力に、がっしりと捕えられてしまった。
 だが、和服の偉丈夫は、前方を向き、仁王立ちしたまま、微動だにしない。
 そこに立っているのは、四百年を超える将棋史上、稀有の天才だ。
語り継がれてきた伝説が、居合わせた者たちの口から、続けざまに放たれる。
「十三歳の冬、棋士になるため、家出をした人」
「そのとき、母親の使うモノサシの裏に、書き置きをした人」
「そこに、名人に香車を引いて勝ってみせる、と書いた人」
「その約束を、二十五年後に、果たした人」
「棋界で初めて、三冠王に、輝いた人」
「常識をくつがえす新手一生の精神で、数多くの新構想や新戦法を生み出した人」
「駅馬車定跡、矢倉雀刺し、急戦向飛車、升田式石田流、ほかにもたくさん編み出した人」
「次から次へと新手を創り、その手で将棋の真理を引き寄せた人。その偉業から、こう言われるようになった人。将棋の寿命を三百年縮めた男」
 敬意をこめて深川が語ったそのとき、伝説の将棋指しが、ついに口をひらいた。
「その寿命を、これ以上縮めさせては、いかんだろう。将棋の命を人の手に取りもどすため、ワシはこの世にもどってきた。いいか、よく聞け。この勝負、ワシがもらった。文句はあるまいな」
 野太い声だ。サムライの声だ。
 不世出の大棋士の言葉に、文句のある者は一人もおらず、さっと深川が立ち退いた。
 そうして、しばらく。
 大きな体をゆっくりと動かし、一歩、二歩と、足を踏み出して、空いた座布団に、升田幸三は、どっかと腰を下ろした。
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?